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カテゴリ:イッテみますか?(取扱注意)
注:当ブログの例により、適当に書いてます
正しくはよびりん♪ さんや亞さんのブログを御参考下さい 最近、亞さんのブログが面白くて、お邪魔しておるわけであります。 易経というのは、原文単体だと味気なく感じるのか、色々と「解説文」が付いており、そちらの文量の方が膨大でして読むのに難儀する程です(ので、読んでないのではなく、読めてません)。 中でも孔子は苦闘したようで、その量が半端ではありません。 孔子からすれば人倫との融合とでも言うべきものを目指していたようですが、如何せん、易の示すものは人倫とは無関係とまでは言わずとも、あまり関係ないような・・・そもそもが人智に捉え難きものですので。 似たようなのに、魂と命というのがあります。 私の感ずるままに書けば、命というのは魂の別名でありながら別モノでもあります。 陰陽で譬えれば、魂は陰に属し、命は陽に属すのです。 敢えて言えば魂に時や空間やらを与えた欠片が命なのであって、こっからここが俺で、こっからここがお前、あれが正しい、これが正しい、などという典型的なことから含めて、全てマルッと「命の世界」のことなのです。 肝心の「魂の世界」では、どっちでもいいというか、そもそもに「こっからここが」みたいなのがないのですから無関係にして無意味なわけです。 とは言え、我ら命授かって人間として生まれてしまったからには人命に従う理屈も出来てきて、それが人倫というものでもあるわけですが、それは「命の世界の理屈」です。 ところが易は陰陽の世界を示しますので、これを陽の理屈だけで解釈しようとするのは、理論的にも非常に無理があるわけです。 しかし、人倫がなければ人の世は成り立ちませんので、天才・孔子も苦闘したわけで、後世の我ら何ぞが理解しようとした日には混乱の極みにおっぺされて大変なわけです(多分)。 多く、宗教などが間違うのも、この辺りです。 神様と言えど何と言えど同じなのですが、「斯く斯く」として命(名)ある限りは「命の世界」に属してるのでして、その限りでは人の世の延長というか、基本構造に変わりはないのであります。 次元が違おうと何だろうと「こっからここが俺で、こっからここがお前、あれが正しい、これが正しい」の類がある限り、「命の世界にあって同じ」とでも言いましょうか? 日本やインディオなんかが身近ですが、元々の古代宗教は、むしろ「命の世界」にありながらにして「魂の世界」との接点みたいなものを持ってたらしいのですが、いつの間にか「人の世のもの」に変容してしまったようです。 そんでもって、これはインドという国の話になりますが、御釈迦様なんぞは、 「おら、そんなのやってらんね。いち抜けるだ!!」 と宣言されて涅槃(魂の世界)に入られてもうたわけです。 しかし一方、孔子のように「人間の世に生まれたからには!」と苦闘する気持ちも分からんではないのです。 分からんではないどころか、 「しんどい事も苦しい事もありぃのする世の中だけんども、 なんかこう、そったらなる理屈ってもんがあってもええんでねべか?」 というのは、これまた人たる所以、自然の情というものだと痛感するわけです。 それでも如何せん、無理があることも確かです。 大元の「魂の世界」では「零れ落ちた命の世界の理屈」なんぞ、意味がないのでありますから。 もっとも「命の世界」というのは「魂の世界の一模様」みたいなもの、と譬えれば譬えられなくもないわけですが。 いずれ「命の世界」というのは、そんな意味でも冷酷で残酷な宿命をも負っているわけです。 ただ、それを諾とし得ない孔子という好漢士の心意気! それには、大いに感ずるところがあるのであります。 我が良き友よ かまやつひろし 注:当ブログの例により、適当に書いてます 正しくはよびりん♪ さんや亞さんのブログを御参考下さい お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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