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テーマ:暮らしを楽しむ(384675)
カテゴリ:幸せになる「勇気」
「補償」がどうなるのかわからないままだと、
「要請」を受け入れることは、難しい。 要請と補償が一人歩きで、 特に補償の方はどっかに彷徨ってしまって。 国の補償などもはや信じられないから。 あてにできないから。 おめおめ自粛などできるものか!と。 今のままですと。 「自粛し損」みたいな気持ちになるのも、無理もない。 損、というより・・・ 怖くて休めない。 要請だけを受け入れて自粛してしまったなら終わってしまう、というような。 精神論になってしまうけれど、 たとえば 安心して休業できるだけの補償をまず先に発動してくれたなら、 国はこれだけのことをしてくれた!その思いに応えなければ! よし、ちゃんと約束守って自粛しよう!というような、 「受けたご恩をかえす」みたいな意識を感じやすいのは、 日本人の素晴らしい国民性であり特徴のような気がするのです。 お金だけもらっといて自粛しない人をみれば、世間は相当厳しいはずです。 卑怯だぞ!と。 恥ずかしくないのか! と。 馬鹿なのか!と。 今年の桜は・・・とっても長い間咲いていてくれたような気がしませんでしたか? ************************************* わたしたちは「頭が悪い」とか「馬鹿」だとか、 「卑怯者」とか「恥ずかしい人」だとか言われることを極端に嫌うところがあります。 ちゃんとした人に見られたい、 責任を果たそうとする人、ルールを守れる人だと見られたい、 卑怯者や恥ずかしい人にはなりたくないと、多かれ少なかれ、そう思っている。 つまりは、できれば「知的」でありたいと。 それが人間そのものの優劣を決めるかどうかは別として、 知的であることは、多くの場合、世の中においてはたいそう有利であるし、 「知的」と言われて気を悪くする人、怒り出す人も・・・ 恐らくは、いない。 では、「知的」って、一体なんなのかな。 どのような人物を知的とするか、という判断には 個々の「好み」みたいなものも大きく関係すると思います。 「知的」のものさしは、とても混沌としている。 **************************************** 「知的」とは。 ある大学の先生がなさったお話を、このようにまとめておられる とても含蓄深いコラムに出会いました。 人間の属性と知性との相関は いまだよくわかりませんが、 その人が「知的」であるかどうか、について、 少なくとも私が判断をするときは5つの態度を見ています、というお話。 *************************************** その「5つの態度」とは。 1)異なる意見に対する態度 知的な人は、異なる意見を尊重できるが、 そうでない人は、異なる意見を「自分への攻撃」とみなす。 2)自分の知らないことに対する態度 知的な人は、知らないことの存在を喜び、怖れない。また、それについて学ぼうする。 そうでない人は、知らないことがあることを恥だと思う。それを隠し、学ぼうとはしない。 3)人に物を教えるときの態度 知的な人は、教えたことが伝わらない場合、「自分の教える力の無さ」ゆえ、と思っている。 そうでない人は、「相手に理解する力が無い」と思っている。 4)知識に関する態度 知的な人は、知識全般を尊重する。 そうでない人は、自分にとって役に立たない知識を蔑視する。馬鹿にする。 5)人を批判するときの態度 知的な人は、相手の持っている知恵を高めるための、「より良くなるための批判」をする。 そうでない人は、「相手の持っている知恵をおとしめるための批判」をする。 知的である、というのは頭脳が明晰であるかどうか、という話ではなく、 そういった態度の全てが、「知性のバロメーター」になると私は考えます。 と。 まるでわたしたち人間を励ますように咲いていてくれた。芽吹き始めた新緑の葉桜は美しいなあ。 ************************************** 偏差値って、なにかね。 そういう気持ちにさせられるコラムでした。 わたしの中での知的の象徴というは、「山中伸弥教授」なのですが。 知的な人は、話し方が静か、という印象があります。 決して やかましく話さない。 世界中がウイルスと戦い、なんとか制圧しようと敵視しているときに、 教授は、もう、制圧は困難です。と。 今はもう「ゆっくりと受け入れる時です」と。 正しく畏れ敬いながら、ゆっくりと受け入れる時。 と。 こんなこと、あの時点で言っている専門家・・・ 誰もいなかったと思う。 *************************************** ウイルスに、もしも「意思」があるのなら。 敵視し続けられれば、攻撃の手を決して緩めないのかもしれない。 制圧しようとするものに対しては、 ますます攻撃しようとしてくるのかもしれない。 甘くみればみるほど、容赦しないのかもしれない。 一方、畏れながらも受け入れる、という感覚。 とても悲しいことですが、こうなってしまった以上、もうそうするしかないというような。 まさに、 1)異なる意見に対する態度 を、ウイルスから試されているような。 人類の「知性」を 試されているような。 知的な人は こうなってしまったことを尊重する(受け入れる)ことができる。 そうでない人は、こうなってしまったことを「全人類への攻撃」とみなす。 敵視し、制圧しようとする。 ああ・・・ 5月の新緑の下を、帽子をかぶって散歩できたらいいなあ。 季節は流れる。 必ず、過ぎる。 ************************************* 「ウイルスを尊重する」だなんて。 そんな高尚な精神は、 残念ながら、このとおり持ち合わせてはいない「愚」丸出しなのが わたしです。 毎日悲しいですし、どうか収束してほしいと 身勝手に祈るばかりなのです。 受け入れるのは、とても、とても、むずかしい。 けれど。 この自粛生活に、わたしは だんだん「慣れて」きました。 自粛させられている、という 受身的な、被害者的な気持ちではなく、 自分の意思で今は自粛しているのだ、という・・・自主的で能動的な気持ち。 自分にできることは 悲しいくらいに小さいし、 本当に、何もできないのだけれど。 だったら、そのまま、何もしないでいよう。 大人しくしていよう。 怒ったり、イライラしたり、ウイルスを恨んだり呪ったりするよりも。 そのまま を 見ていよう。 生きてみよう。 この世の中に従おう。 そんな気持ち。 なんだかうまくかけませんが、 ちょっと「あきらめた」ような・・・ そうしたら 心が楽になったような・・・ 早くこうなってほしい、早くああなってほしい、と考え続けることは思いのほかツラく、 それが余計にストレスになってしまうことを知った。 それなら今は。 ただ、ここに、こうして居よう。 季節が巡るように。 いつか必ず過ぎてゆく。 きっとなにか 意味がある。 それが何なのか わたしは知りたいから。
忍耐。 そして、冷静でいること。 そのとおりですね。 わたしはここで、待っていたい。 マスクを外して桜の木の下を歩ける日を。 思いきり深呼吸できる日を。 ウイルスを畏れながら。 何もできない自分の弱さと向き合いながら。 おとなしく、 そして、忍耐強く、冷静に。 待っているよ。 おわり 昨日は、この事態になってから、初めて「医療の現場」に触れる機会がありました。 ↓「私も待つよ!」「 家で過ごそう!」のポチッと。いつもたくさん、ありがとうね。 にほんブログ村 わたしにできることは、娘のような年齢の、ここで働く方々をこれ以上困らせることなく、 とにかく元気でいること、家にいることなんだ、という強い気持ちを・・・新たにしました。 お読みくださって、ありがとう。 「ようせい(要請)」って打つと、 しつこくしつこく「妖精」って出て、全く覚えようとしないわたしのパソコンなんとかして・笑 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.04.14 21:06:28
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