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daigorou7308の日記 [全792件]

2012.05.22楽天プロフィール Add to Google XML

つづき 四 日米会談から開戦へ 「陛下と大東亜戦争」 

つづき
四 日米会談から開戦へ  


中立米国では、この会談を詳しく対独交戦中の英国、抗日戦中の重慶に知らせ
相談している。それなのに日本側が、同盟国に情報を洩らしたのは許せぬという
。対等外交ではなく、一方的な圧力外交である。しかし近衛首相も東条陸相、嶋
田海相も対米和解を熱望していたので、内閣を改造して松岡外相を追放した。
これで米国の圧力を相当にゆるめることができると思ったのは大きな誤算だった


あたかもそのころ日本がフランス(ヴィシー)政府の同意を得て、援蒋路線切断の
ため南部仏印に兵を入れた。米国政府は大いに怒つて、それを理由として、ただ
ちに在米日本資産の凍結を命じ、石油を全面禁輸する経済断行にふみきった。
英国もオランダも同一手段をとり、資源のない日本は、まったく動きがとれなくな
った。昭和十六年七月二十五日、当時の米国政府の高官は、すべてこの時に、
対日宜戦を決意したとのノートを記録に残している。


近衛首相は、熱心に米大統領との会談を希望し要請したが、大統領ルーズベル
トは、これを拒否して英国のチャーチルとの大西洋会談に行く。そこでかれは、
対日独戦についての準備構想について討議した。そのころの米国市民の世論
は、圧倒的に非戦論だった。ルーズベルトは、この会談より約十ヵ月前の大統領
選挙では「私が大統領であるかぎり、外国とのいかなる戦争にも、まきこまれるこ
とはないごとを何回でも何回でも繰返して約束する(again and again and again )」と
の名演説で当選した。


当選してから後には、ただちに姿勢の転換をして、ナチス打倒を訴えるが、人民
がついて来ない。しかし大統領の、選挙前から秘めていた決戦意思は固いのだ
。ルーズペルトは、チヤーチルに語つている。市民と議会とが、やたらに戦争嫌っ
ているので、まず日本の資産凍結、石油禁輸など、あらゆる手段で、ドィツ・日本
側から発砲させるのが望ましいそしたら議会の承認を待たないで大統領権限で、
事実上の戦闘に入るのだ、と語っている。


挑発しながらも、日本の石油をはじめ戦略資源を枯渇させ、戦力を弱めておく
よう「時を稼いでいる」と説明し、チヤーチルが決して失望しないで、米国参戦の
日の遠くないことを確信するように暗示している。(『チャーチル回顧録』)


日本人にも察しがつかないわけではない。石油がなくなり軍艦も飛行機も動かな
くなる時間は、はつきりと計算できる。その時は、無条件降伏の外ない。九月三
日、統帥部(とうすいぶ)、政府の御前会議が開かれた。今まで非戦一本だつた
嶋田海相等も、やむをえない時の開戦について発言した。しかし今後一ヵ月全力
をあげて、外交交渉することになった。


陛下は、この日とくに明治天皇の「四方の海みなはらからと思ふ世に、など波風
の立ち騒ぐらむ」との御製を朗読なされ、特に統帥部が「外交交渉に全的協力を
する」ようにさとされた。東条陸相も武藤軍務局長も、この時は感激興奮して帰庁
し「何が何でも交渉を妥結させよとの仰せだぞ」とわめいて、陸軍省の将校連中を
驚かせたと言う。


絶望的な情況下で必死の外交がつづけられた。さすがに日本の現地国情をよく
知る駐日大使グルーは、近衛に協力して、本国政府に対して、熱心に「最後の
和平チャンス」だと進言したが、本国からの回答は冷たかった。グルーは知らな
かったが、米国開戦の決意は、すでに固かったのだ。

つづく



                        「昭和史の天皇・日本」より





Last updated 2012.05.22 21:28:45


2012.05.21

三 流動激しい国際外交の道      「陛下と大東亜戦争」

三 流動激しい国際外交の道   昭和50年



日中の軍事紛争において、米英は、中国における権益の犯されることを恐れて、
不断に日本を敵視して中国支援政策をつづけた。日本の外交には、根づよい
米英敬重の伝統があるので、米英に対しては熱心にその諒解をもとめたのが
事実だったが、それは成功しなかった。とくに昭和十三年の秋、ヨーロツパで、
ドイツが英仏と戦端を開いてから、国際関係は、非常に複雑、流動的となって
行った。


昭和十五年、日本では近衛内閣(松岡外相)が、日中の和平交渉をつづけながら
も、北方のソ連の威圧を痛感していた。そのころソ連とドイツとは相謀(はか)って
、ポーランドを二分して友好関係にあったし、近衛内閣は、ドイツの斡旋によって
ソ連の圧力をゆるめて、中国との交渉を進めたいと思った。


一方、ドイツの側では、英仏に対して戦い勝つとの自信があったが、経済的に強
大な米国が、直接に英仏側に立って参戦するのをおそれていた。ドイツは、米国
をして参戦させないためには、有力な.海軍力を保有する日本を利用したいと思
った。そこで日独の間で、同盟を結び、ドイツが日ソの友好の仲立ちとなり、日独
協力して、米国をヨーロツパでもアジアでも参戦させないように構想を立てた。


イタリアも加わって、昭和十五年の九月に三国同盟条約ができた。
ところが国際情勢の流動は激しく、ドイツとソ連は、東欧問題から対決を生じて、
日ソ間友好の働きをしてくれない。しかしソ連はこの同盟によって、日本の地位が
強化したと見たので、スターリンは松岡外相の直接の申入れを快諾して「日ソ
中立条約」を締結した(昭和十六年四月)。松岡外相は、ただちに駐モスクワの
米国大使スタインハルトを訪間して、ぜひ日米友好の外交を進めたいと米大統
領への申入れをした。ソ連とも米国とも友好を進めて行きたいと、この時点で
日本政府が熱望していたのは明かである。昭和十六年の春四月、松岡外相の
行動は、はなばなしく世界の注目をひいた。



四、日米会談から開戦へ


ところが松岡外相がモスクワから帰って来る前に、近衛首相に対して、米国大統
領の側近者から交渉の申入れが来ていた。その側近者は、ウオルシュ司教、ドラ
ウト神父等のルーズベルト後援の有力者として著名の人物であったが、その話は
日本の政府にとって、きわめて好ましかった。それによれ、ば、「日本が中国に対
し非賠償・非領土併合の原則を守って撤兵すれば、米国は反日の重慶(蒋)政権
と親日の南京(注)政権との合流、満州国の承認を斡旋してやる」というものだった
(この案を以下日米諒解案という)。これはルーズベルトの全くの謀略だった。さす
がに松岡外相は疑ったが、近衛首相も東条陸相以下の各大臣も大歓迎で、ワシ
ントンの野村大使に会談をはじめさせた。


米国側からハル長官が出て、例の日米諒解案を手渡し「日本政府の意思を質し
たい」と言った。日本政府が同意すると「あれは、日本と日本の友人たる大統領
側近の私人が作った文書で、米国政府としては公認できない」と開き直った。
日米諒解案は、時を稼ギ会談への誘い水にすぎなかった。その後のハル長官は
、ただ三国同盟を破棄せよと主張した。対米和解を切望する日本政府では「帝国
がすでに締結した条約の破棄はできない」との松岡外相の主張をみとめたが、
なお会談継続を要請した。


すると米国からは「この会談の内容をナチスに知らせる大臣(松岡外相)がいる
ような政府との会談は致しかねる」とせまって来た。



つづく

                      「昭和史の天皇と・日本」より





Last updated 2012.05.21 20:25:14

2012.05.20

二、満州事変から日華事変へ 「陛下と大東亜戦争」

二、満州事変から日華事変へ



関東軍は、時の政府(若槻首相、幣原外相)に反撥して「正当防衛権」による緊急
手段として兵力を発動した。現地居留民の激励もあって、戦意猛烈で、たちまち
にして全満州を制圧した。政府はしきりにブレーキを加えることにつとめたのだ
が、関東軍は政府に反抗して動き出したのだから、止まるわけもなく、現地人の
有志を推し立てて、「反日」の中華民国に対抗して「親日」の満州国を建国してし
まった。


これは必然的に中国ナシヨナリズムを鋭く刺激して、いよいよ反日活動を全国的
に燃えあがらせた(通州における在留日本人の皆殺しなどもその一例)。すると
日本軍は、それに倍加する戦力をもって、中国領土に進軍した。これが日支事変
と称せられるもので、天皇の宣戦布告なく、国際法上の戦争でなく、したがって
日本は第三国に対して、国際法上の戦時中立を要求する法的権利がなかった
が、少なくも、日中の間は(時に交渉や停戦もあったが)長期の本格戦争と同じ形
になった。


この間、平和の回復を切望される陛下の御憂念は、深くして切なるものがあった
。政府はしばしば変ったが、首相や外相、陸海相等に対しては、常に平和を速か
に回復することを切望された。政府や統帥部は、陛下の御憂念を知って、絶えず
和平交渉を繰り返したけれども成功しえなかったのは、政府・軍の首脳が、政治
的に無能であったり、中堅以下の部下に対して統制の威厳が乏しかった。とい 
いうるであろう。十年にも近い歳月が空しく流れてしまった。


しかし日中の間では絶えず地下での和平交渉は、つづけられた。そして中華民国
側では、日本でもっとも平和を切望しておられるのが陛下である事実は知ってい
た。多くの提案が日中間で繰り返されて成功しなかった数多い交渉史のなかの
一つに、中国側から提案した条件のなかに、日本軍の全面撤兵等の条件ととも
に、「日本側が天皇親政」を確立することを条件に出した事もある。この親政とは
独裁の意であったらしい。中国側では、陛下の和平熱意は十分に信頼できるが、
その威令が独裁的に徹底しないでは、他の国家機関は信頼しがたいという意味
だったらしい。(鹿島研究所日本外交史」第二十四巻及び、日中和平に生涯を
捧げた西義顕『悲劇の証人」等参照)


この提案交渉が、どの程度のものだったかの外交史上の意義については、いろ
いろ論評の余地もあるが、抗日戦中の中華民国政府が当時の日本を見て、
陛下を日本でもっとも信頼すべき平和希望者であり、その陛下の威令が行われ
がたい情況にあると判断していたのは確かであり、かつ真相に近い。


しかし立憲君主の陛下は、前にも述べたように、独裁的命令者では決してなか
った。あたかも英国王が、しばしばチヤーチル首相に対して、アドバイスしている
ように、陛下は、熱心に希望し、注意をもとめられたが、憲法上の責任者に対し
て、独裁者のように厳命なさることはなかった(筆者は西園寺公を想起する)。


陛下に親近した輔翼者(ほよくしゃ)が、その切なる御期待を知りながら、日中
の間の泥沼的長期戦乱に終止符を打ちえなかったのは、いかにも残念至極だった
というほかにない。


                         「昭和史の天皇・日本」より




Last updated 2012.05.20 19:47:12

2012.05.19

一、 日中民族の不幸なもつれ 「陛下と大東亜戦争」 昭和50年

一、 日中民族の不幸なもつれ 


今上陛下が御位(みくらい)をつがせられて五十年、その間には内憂あり外患
あって、言語を絶する御心労が多かった。陛下が東宮(とうぐう)であらせられた
ころの御教養の師としては、杉浦重剛(すぎうらしげたけ)の名がよく知られてい
るが、政治の上では明治時代に宰相をつとめた最後の元老、公爵西園寺公望
(さいおんじきんもち)の説をお聞きになったことが多い。それは多かれ少なかれ
陛下の御生涯に彰響の浅くないものがあろう。東洋的、日本的な重厚の御風格
は、皇家伝統の然らしむるところであるが、杉浦重剛の御輔導(ほどう)も、その
線に沿ったものだった。政治に臨ませられた御事績の方式には、西園寺の影が
感ぜられる。西園寺は、英国流の憲法思想で、陛下が立憲君主として君臨なさる
ことを望んだ。


御位を御つぎになった時代には、すでに日本の憲政運用は、その形は政党内閣
制の方式がほぼ固まっていた。大正七年の原敬の政友会内閣いらい政友会と憲
政会(民政党)が、議会の多数を制しては、相互に政権の地位についた。陛下が
御位につかれた時は、若槻礼次郎(わかつきれいじろう)の憲政内閣だった。
この政党内閣制は、英国流であったが、その当時の日本の政党には、停滞と頽
廃(たいはい)の風潮がいちじるしかった。


しかし陛下は、元老西園寺等のおすすめもあって、国情についての御憂念も、
御下問の形では洩(も)らせられても、憲法上の責任者としての国務大臣の立場
を重んぜられて、政策上の命令はなさらなかった。


御位をつがせられたのが大正十五年十二月で、昭和の元号となり昭和元年は、
わずかに数日で、昭和二年となる。御位をつがせられてから、わずか百日の後に
中国で南京事件がおこった。そのころ中国では北伐革命軍が長江の線にたっし
たが、ファナティックな排外主義に暴走していた中国兵が、列国の外国人居留民
に暴行し、在南京の日本領事館も占領され、日本人居留民の子女多数が辱しめ
られ乱暴され、掠奪(りゃくだつ)された。この時代の日本政府は、有名な幣原(し
ではら)平和外交で、南京でも米英仏の砲艦が、そろって報復砲撃を加えたのに
、日本軍のみは一発の発砲もしなかった。無低抗主義を命ぜられた海軍陸戦隊
が武装解除されても低抗しなかったというエピソードもある。外務省は、ただ文書
で抗議した。


そのころの中国は、まさに革命動乱の時代である。前世紀いらいの半植民地的
な国際法秩序そのものを変革しようとして熱狂している時期であり、統制が破れ
れば、いかなる過激な不法もおこりかねない。米英等の列強は、南京のような暴
戻(ぼうれい)不法に対しては、断固武力をもって威圧しながらも、一方では革命
潮流のさけがたいことを察して、陰では巧みに、「政治的妥協」の道を考えて策動
した。


だが日本は、いかにも官僚外交で、古い国際法の形式権利だけは固執するが、
政治打開の道も開かず、居留民の子女が乱暴され傷つけられても、文書抗議
をしただけである。この反日が激しくなるにつれて、日本の居留民は「明治いら
いの日本帝国の国威は地におちた」と憤った。政府は、平和外交に徹したいつ
もりだったが、事実は全く裏目に出た。中国人は、列国のなかで日本がもっとも
弱いし、政治的にも無能と見た。米英仏等の排撃は鎮まったが、日本への攻撃
は時とともに激しくなり、とくに日本の権益の多い東北満州では、反日の動きは、
猛然と燃えひろがった。


明治いらい渡満していた日本人は多かったし、ここには条約上日本の関東軍が
駐在していた。現地青年将校や居留民は、日本の政府に期待しがたいとして独
自の反撥行動を試みるにいたった。昭和三年の張作霖(ちょうさくりん)爆殺は、
その発端であった(この当時の中国での反日運動や居留民の憤激の様子は、
検閲当局によって報道を禁ぜられたり、外務当局で作り変えられた。国民感情を
刺激するのは、平和外交を妨げると思われたからである。おそらく陛下へも正し
い報告がなかったのだろう)。


しかし張作霖の爆殺ということは報道禁止もできなかったし、日本人が働いた非
合法事件として国際的にも注目され、日本の議会でも騒然たる問題となった。
この事件が日本の国際的信用を傷つけ、乎和をみだすことになることを深く憂え
られた陛下は、時の首相、田中義一に対して、きびしく御下問があったと伝えら
れている。田中政友会内閣は、総辞職して、浜口内閣(幣原外相)が成立した。
張作霖謀殺事件は、暗い不法な事件であった。しかしこのような事態が生じたのは、一方では日本の政府が反日の激化に対して、有効な手を打ちえなかったか
らでもある。だがその無能は改まらなかった。


中国のナシヨナリズムの排外活動は、前記のように米英仏を相手にしないで
日本とソ連を目標とした。しかし満州の張学良(ちょうがくりょう)政権は、反ソ
活動で手きびしくソ連赤軍に撃ち破られたので、その後は、もっぱら平和無低
抗の幣原外交に敵目標を集中した。満州では、官憲の指導する反日大衆行
動が、頻発(ひんぱつ)するにいたった。


政府は依然として、外交文書を山積するのみで、懸案は一つとして解決レえない
。かくして軍閥張学良政権と、これを敵視した関東軍、現地日本居留民との対決
緊張がいよいよ高まって行って、昭和六年に満州事変が暴発するにいたった。



                      「昭和史の天皇と日本」より




Last updated 2012.05.19 21:45:05

2012.05.18

九、国家の支柱は何か  「天皇と国家と教育」 

九、国家の支柱は何か 


クロムウェル(一五九九ー一六五八年)の手で行われたイギリス革命(一六四二
ー 四九年)を自身で体験し、あまつさえ、欧州諾国を自分の足でつぶさに見聞
したトーマス・ホッブス(一五八八ー一六七九年)の政治理論の辿った最後は彼
の書いた「リヴァィァサン」 (一六五五年)であった。


国家権力は、従来は、ゴッドに根ざす王権神授説、あるいは慣例等に根拠づけ
られて正当化されてきたものだが、ホツブスは、この考えを逆転して、人民の側
から、人権絶対視の立場に立って、まず自己保存権を確立し、客観的に国家権
力を確立しようとした。世上「国家契約説」といわれる彼が説いた点は以上のよ
うに評価されている。


「人間の本性の中に」とホッブスはいう。争いをひきおこす三つの主要な原因が
ひそむと。第一は競走心、第二は相互不信感、第三は誇りの心であると。人々
は、かくて、暴力を振ってでも目的を遂げようとする。そこで「社会なき原始の状
態では、常に万人は万人に対して戦争の状態にある」ようになる。かような各人
が各人に対してオオカミである状況では、百人力の勇者といえども枕を高くして
瞬時たりとも床につくことはできない。隙を伺えば弱者でも巨人を一撃で倒すこ
とはできる。


常に修羅の場として闘争を繰返す極限の状況で思いついたことは、「行う自由」
と「控える自由」とをはっきり区別したことである。即ち生まれながらにして具わっ
ている「自己保全の権利」「自然権」を各人は有っている。各自の生命維持・保全
の必要上、自身の欲するままに自身の力を遺憾なく発揮することの許される自由
を自然権と称する。各自は、自已の理性と判断とで、生存のために最適の手段
なりと思われるあらゆることを為しうる自由である。


あらゆることを為しうる自由とは、(一)には「行う自由」であり、(二)には「行うこ
とを停止することをなす自由」、即ち「控えることをする自由」でもある。この第二
の自由を行使して、各人相互に国家なる機関を創って、最強力なる権力をこれ
に付して、もって住民の生活を保証するに至ったと。これが説かれた国家契約
説の内容である。国家は最強の権力を保持することによって国民の生活の保
全は保証される、という。


プラトンは羞恥心と正義心とが国家を支える柱とみたし、ホッブスは最強の
権力を国家安定の基礎
とみた。国家の維持にとって何が最も必要であるかと
の点についての議論はいろいろあろうが、とにかく一つの力によってのみ国家
は成立・維持されることだけは明かである。



さて日本国家の支柱とは何か? 日本国でも他国に比してその例外ではなく、
一つの力があって姶めて国家は存続する。その力とは、改めて言うまでもなく
天照大御神の神話にみられる如く、天皇に坐すことははつきりしている。この
点は歴史事実である。日本国が今後共に悠久に存続する限り、
この条件が必ず具わらねばならないことは明かである。





   「昭和史の天皇と・日本」より



Last updated 2012.05.18 17:46:19

2012.05.16

天皇と国家と教育

八、秩序の確立・維持としての権威(御稜威(みいづ))について


プラトンは『プロタゴラス』でソクラテスと当時の第一級のソフィスト(誰弁家)
のプロタゴラスとの対話の形式を借りて、政治的知恵は人間にとって先天的
生具のものか、後天的に教えられて身につけたものかとの点について語り
あった。プロタゴラスの説くところによれば、政治的知恵(術)は教えうるもので
ある。そのことを物語りふうに説いた。


さて大昔、神々は土や火、またその混合物から生物を形づくった。その生物を
光のもとに連れ出すにあたって、プロメテウスとエピメテウスとに、それぞれの
生物にふさわしい能力を相談して分ち与えるよう命じた。


エピメテウスは、浅慮にも、それぞれの生物の種族維持に最も適した能力を非
理性的な種族(人間以外の諸生物)にことごとく頒(わか)ち与えてしまった。人間
には、与えるものが何一つ残されていない。「人間は裸身で、寝具も持たず、武
器も持たず」に慄(ふる)え、おののきおびえている。プロメテウスはヘパイストス
(ゼウスとヘラの息子で、火・冶金・鍛冶の神である)とアテーナ(ゼウスと思慮の
神メーティスの娘で知性の神である)から技術の知恵と火とを盗んで人間に与え
た。


技術の知恵と火とが与えられた人間は、他の生物の如く、翼なり、鉄腕なり、す
みやかに危機から逃ることのできる脚力等の能力こそもたないが、生産技術を
身につけ、火(知恵)を獲たから、生活は豊かになった。当初のうちは、人間は
各自バラバラに離ればなれに住んでいて社会を形成してはいなかった。「だか
ら、人間どもはあらゆる点で他の動物より弱かったため、これらによって減ぽさ
れていった。」


職人的な技術は食物をうるのには、彼らにとって充分な助け手であったが、しか
し動物どもとの戦いを防ぐには、不足な助け手であった ー というのは戦争術
がその一部をなす政治術をいまだ持っていなかったからである。それで彼らは
一緒に集り国を建てて身の安全を図ろうとした。ところが集ってみると、その時
彼らは政治術をもたなかったので、お互いに不正を犯したのだった。そのため
に再び散らばって減びていった。(プラトン全集第五巻所収。「プロタゴラス」
322.a,b)


以上はギリシヤの都市国家での生々しい体験から生まれた人間観である。人
間とはそもそも人々の意である。男(man)だけでも女(woman)だけでもなく男(m
an)十女(woman)(男女)でさえある。(プラトン『饗宴(きょうえん)』)


漢字の「人」の字は、相寄り、助け合う二人の人間の意を示すものであるし、
『古事記」『日本書紀」の神代巻のイザナギ・イザナミの御子生みの神話(人間
の生活上の心構えのあり方を示す神話)は、人間とは単独では生きることので
きない、不完全体であることを物語る。その不完全体の者同士が相互に長所を
発揮し、相互に短所を補足し合うことこそが生活の本義であることを教えてくれ
ている。


生きる能力として知恵を得、生産技術を身につけた結果、他の生物には比類の
ない食糧の確保また増産等で生活上の安定感は保障されたかにみえた人間も、
政治術(ポリスを成立させ存続させる知恵である)を手にすることが出来ないうち
は、生活のうえで旧態同様に不安に怯(おび)えていた。


ゼウスはこれを憐れんで、そこで、差恥心と正義心とを人々に授け、かくてこの
要素が「国の秩序ともなり、また相互を結びつける友愛の絆とも」なって、人間は、
他の動物等とともに今日まで種族の維持のでき得たことを説いている。



                        「昭和史の天皇・日本)より




Last updated 2012.05.16 21:08:42

2012.05.15

七相対的威力神が人間の生きる上に果す意味 「天皇と国家と教育」

七相対的威力神が人間の生きる上に果す意味 



神道は神々を信仰の対象とする。ユダヤ教・キリスト教・回教のように、唯一に
して絶対の全知全能なるエホバ神・ゴッドをのみ畏きものとして信仰する宗教と
は違って、神々を信仰する神道の立場では、理論上、全知全能なる神の存在は
許されない。それは矛盾であると見る。


従って、神々はいってみれば相対的威力神とでもいえる神にすぎない。天照大
御神とても、他の神々と同様、相対的威力神の中の一柱である点は変りはない。
そうはいってみても、天照大御神を他の神と並列してみることは正しい理解とは
考えられない。


神道の神には、自然の神格化の神あり(山・川・草・木・雷等の神)、英雄神あり、
抽象力を神格化した神(知恵の神、力の神等)もあって、神の内容、機能上幾
つかに分類される。いずれの神も神及び人間等が生きる上に大事な役割を果
している、と信ぜられていた点は一致している。山嶽、河海、樹木はもとより風
も雨も雷も稲作の収穫には極めて影響するところ絶大であり、大切である。


衣食住にかかわるもの、ことごとく神であり、神の恩頼(みたまのふゆ)(恩恵)
と仰ぐ。衣食住が満たされる限り、まずまず生活は可能となる。可能であるの
みならず満足して宜しいと一応はいえる。ひるがえって考えるに、衣食住が満
たされることは、生きるための条件であることに異論を唱えるわけでは毛頭な
いが、果してこれだけで充分なのであろうか。衣食住のほかに生きるうえの必
要条件の何かが未だ欠如してはいないであろうか。


比喩的に考えてみよう。ここに一台の完全な自動車があるとする。整備も0・K。
いつでも姶動O.Kという態勢にあるとする。しかし、ガソリンがないとしたら、どん
なに高価な性能のよい自動車でも動かない。自動車それ自体は完備されてい
ても、他の条件であるガソリンの有無によって、自動車の利用性は絶対的に左
右されるのではあるまいか。自動車の機械を働かすものはガソリンである。ガ
ソリンあっての車である。とすると、ガソリンは自動車の活動にとって死命を制
するもの、とみられよう。


大御神と他の神々との間柄も、ガソリンと自動車との関係から比喩的に推理し
理解される。自動車は、そのままで動くものではない。ガソリンあっての自動車
である。神々といえども、神々の神威の発動の条件がそろわぬ限り活動は不可
能である。ではその「神威の発動の条件」とは何か。天照大御神の厳然たる御
存在こそが、神々にとってのガソリンに相当する。「岩戸隠れ」はガソリンの補給
の停止とみられよう。神々の前から姿を隠されたことは、大御神の神威(御稜威
(みいづ))の発揚の停止を指す。神威発揚の停止から生じた結果は、神々の
神威発揚の場においての百鬼夜行の混乱となり騒擾(そうじょう)であった。


大御神の坐(ま)しまさぬ社会は社会としての機能は停止する。混乱し騒擾に
おちいる。高天原も地上の国(中ツ国)もいずれも暗黒の世界(常夜ゆく)と化し、
「萬の神の聲は、挾蝿なす皆涌き、萬の妖悉に發(おこ)りき」となる。社会の
秩序の喪失となり、神々は右往左往するばかり、生活は根底から潰(つい)える。
かような極限の状態において要求されることは、秩序の同復であり確立である。


秩序の回復と確立とによってこそ生活は旧の如く再び成り立つ。神々は、知恵
の神の思金(おもいかね)の神を中心に協議して祭祀を厳かにとりおこなった。
大御神は、ここに再び出現し、社会は以前の通りに復し、神々の神威は光り輝
くに至った。秩序はもどった。大御神は権威(御稜威(みいづ))そのものである。




                         「昭和史の天皇・日本」より





Last updated 2012.05.16 00:39:45

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