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まろ0301の日記

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2012.05.23 楽天プロフィール Add to Google XML

な・・・なにをするんだ・・・

 

 東急田園都市線の桜新町駅(東京都世田谷区)の駅前に設置されている人気漫画「サザエさん」一家の銅像のうち、波平さんの頭に1本生えていた約10センチのワイヤ製の毛が今月、2度にわたって抜き取られていたことが22日、分かった。桜新町商店街振興組合によると、7日ごろ、頭部に接着剤で固定していた毛が根元から抜かれているのが判明。すぐにスペアの毛を取り付けたが、20日には再び抜き取られていた。

 という記事を見た。テレビでも報道していた。一本しか生えていない貴重なシロモノを抜き去っていくとは…血も涙もないとしか言いようがない。

 今後は、監視カメラと高圧電流で守るべきだろう。毛にさわったら

 しかし・・・一本しかない・・・という光景は、犯行を誘発するには十分でもあるし。犯人が逮捕されたら心境を聞いてみたい。

 



Last updated  2012.05.23 20:12:42
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虚栄の償却

 1498年5月23日、フィレンツェ共和国で神権政治を行ったジロラモ・サヴォナローラが教皇アレクサンデル6世の命により処刑される。

 サヴォナローラの事を語る前にまず触れておかねばならな人物がいる。チェーザレ・ボルジアの父であるアレクサンデル6世である。彼は当時の高位聖職者の常としてモラルというものをもたなかった。彼が情熱を傾けたのは金と女であり、その両方を意のままにするために彼は教皇の座を狙ったようなものである。数人の愛人に子どもを産ませ、あまりの不品行を教皇からとがめられたこともある。

 前任者インノケンティウス8世が没すると二人の有力候補を枢機卿を買収することによって退け、「三重冠を金で買った」と非難されるもとになる。

しかし意外なことに彼はその治世の初めにおいては教会法を厳密に守り、統治も円滑に進み、率先して質素な生活を送ったため財政は好転している。

 しかし彼も前任者たちと同じように親族の重用(ネポティズム)を改めず、息子たち(その中には愛人との間にできたチェーザレも含まれる)を高位の聖職者にとりたてる。それにとどまらず、領土の拡大も画策したために敵との無用な対立を深めることとなる。

 また娘のルクレツィアを政略結婚の道具として使い、自らの権力の強化を図る。しかしこの間、ローマの治安は乱れに乱れることとなる。殺人、強盗は日常茶飯事という目も当てられぬ状態となった。

 ユダヤ人は街に住むために賄賂を求められ、教皇自身も本性が出たのか狩猟、演劇、ダンスにふけり始めてローマの治安の治安の回復に全力を挙げることはなかった。

 また彼は当面の敵との対決のために、様々な同盟を結んだが、その中にフランス王シャルル8世とのものもあった。

 彼はフランス王をそそのかしてナポリ王国を狙わせる。しかし一方でスペインからの干渉を受けるとナポリ王国との和平協定を結ぶ。長期的な展望も計算もない二重政策である。

 そんな中で1494年にナポリ王が世を去る。フランス王は自らの王位継承権を主張してイタリアに侵入、教皇はナポリ王国と提携してフランス軍と戦うという選択を行う。しかし教皇軍もナポリ王国軍もフランス軍に敗北、教皇はなんとオスマン帝国にまで助けを求める。

 教皇は汚職の罪で退位を迫られるが、領土の割譲、息子チェーザレを捕虜として差し出す(のちに逃亡に成功)ことで自らの地位を守った。

 フランス王はナポリ入城を果たしたがその華やかな成功を危険視した諸侯が同盟を結び始め、フランス包囲網を敷くに至ってイタリアから撤退する。

 このころから息子チェーザレの権力は父をもしのぐようになっていった。

 チェーザレの目的がイタリア統一であったことは知られていることであるが、そのためには彼は手段を選ばなかった(マキャヴェリは彼の事を念頭に置いて『君主論』を書いている)。教皇もチェーザレの資産拡大を援助している。方法は簡単である。資産があるとされる人物を何らかの罪によって告発、即刻投獄し、処刑し資産を没収するのである。

 聖職売買も横行した。

 このような状況の下で教皇とボルジア家の不正を告発したのがドミニコ会員でフィレンツェで大きな影響力を持っていたジロラモ・サヴォナローラであった。フィレンツェ市民のメディチ家への反発、フランス軍の侵攻を予言したなどの要因によって彼の名声は高まり、ついにメディチ家は追放され、サヴォナローラが共和国の政治顧問となって権力を握る。

 彼は次第に教皇の行状も批判するようになり、破門される。サヴォナローラは厳格な神権政治を実現しようとしてぜいたく品として工芸品や美術品を町の広場に集めて焼却するという「虚栄の焼却」も行う。ボッティチェリも華美な絵を描くのを止めてしまったとされているが、市民生活は殺伐としたものとなり、不満が高まり、1498年4月8日にサヴォナローラは拘束され、拷問を受け、教皇による裁判の結果、絞首刑ののちに火刑に処され、遺骨はアルノ川に捨てられた。彼の最後の言葉は「わが主は、わがすべての罪のために死にたもうた。私はこの貧しき生命を喜んで彼に献ぐべきではないだろうか」であった。

 彼に対する評価はさまざまであるが、「宗教改革の先駆者」というものもある。

 ルターが「95カ条の論題」を貼り出して免罪符を批判し、その販売元であるローマ教皇を批判するに至るのは1517年、サヴォナローラの処刑から20年後である。

 「フィレンツェのサヴォナローラ革命は、表面から見ればルネサンスへの反抗といえよう。だが、それとても野蛮な破壊に悦びをみいだしたのではなく、真正な信仰を求めた改革への期待のあらわれであった。真情にあふれた向上心が、つい仕切り線をむこうへ越えたまでであろう。決して反動の結果ではない」

 『世界の歴史』中央公論社・1996年版 巻16「ルネサンスと地中海」p286 樺山紘一 



Last updated  2012.05.23 20:03:46
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2012.05.22

空を飛びたいという夢

 1906年 - ライト兄弟が「飛行機械」(飛行機)の特許を取得。

 1903年12月17日(木)、キティ・ホークで整備されたフライヤー一号は10時35分、飛行準備を完了する。第一回目に飛んだのは弟のオービル。30m、12秒間の飛行に成功した。つづいて兄弟で二回づつ飛んでいるが、四回目の飛行で飛んだ兄のウィルバーは260m、59秒の飛行に成功している。

 図書館に行って、ライト兄弟関係の本を探してみたら、学習漫画が目に入った。(1)集英社版 監修・国立博物館・飯野貞雄 マンガ熊谷さとし2008年第二版 (2)小学館版 監修・東京大学大学院教授・鈴木真二 マンガ大林かおる 2008年初版、の二冊である。

 (1)(2)ともに共通しているのは、兄弟が活動した地域を表示する地図を巻頭に持ってきていること。キティ・ホークはノースカロライナ州にあることがわかる。兄弟共に空を飛びたいという夢を持っており、凧上げに熱中したという事、機械いじりが好きであり、自転車の修理、そして製造に腕を振るっていたという点、そして1896年8月9日グライダーで飛行中にリリエンタールが墜落し、「犠牲はつきものである」という言葉を残して翌日死去したことが兄弟に飛行機の製造への道を歩ませたという点、風洞実験を繰り返してどのような翼が飛行に最適かを根気強く調査した点、兄弟の発明を勝手に使おうという人間との裁判に忙殺されねばならなかった点などである。

 あえて違いを見つけるとすれば、(1)は後半で兵器として使用されることになった飛行機の姿を描いている。(2)は、(1)ではあまり出番のない妹キャサリンが少しだけれど、活躍している。そして最後に兄弟の言葉が紹介してある。

 ウィルバー・ライト「完璧な安全を求めているのなら、塀に坐って鳥を観察すればよい。しかし、真に学びたいのであれば、装置に乗り込み実際に試しながらその仕組みに精通する必要がある。」

 オービル・ライト「鳥から空を飛ぶ秘訣を学ぶのは、手品師から手品の種を学ぶことくらい儲けものである。何を求めればよいかが分かった後では、以前に正しく、分らなかったものごとが見えてくるものである。」

 マンガと馬鹿にしてはいけない。「学習漫画」は、ホントに知識の宝庫である。

 

 さらに、『よくわかるヒコーキ学(超)入門』阿施光南 山海堂 という本を読んでみた。第一章「飛行機が飛べるわけ」から私にとっては驚きの連続。

◎ジェット旅客機の胴体はわずか2~3mmのアルミ板を張り合わせて作られている。

◎高度1万mを飛ぶ旅客機の内部の気圧は0.86気圧、外部は0,27気圧。その結果、窓にかかる気圧は数百kgにもなる。

◎機体の重さが180トン、乗客、貨物、燃料を積んで最大離陸重量395トン。揚力を発生させる主翼、ボーイング747-400(通称ダッシュ)の場合、主翼面積は525平方メートル。一平方メートルあたり750kgの重さをささえねばならない。

 で、なぜ飛ぶのか...という説明なのだけれど、空気にはもともと大きな力が含まれている、一平方mなら約1万kg。この力は普段は上下左右から同じように受けている。ちょいとこのバランスを崩してやる、と書いてある。崩すためには空気を流れにする、そのためには飛行機をずんずん前進させていけばいい、と説明は進む。「するとドシッと落ち着いていた空気が押し退けられて、『おっ、なんだよこいつ、押すなよ』とか言いながら抵抗してくる。その抵抗の度合いが、場所によって違うようにしてやれば、それがすなわちバランスを崩すという事になる」という事を言われても・・・。やっぱりわからない。ベルヌーイの定理とか、ヘルムホルツの第一原理とか出てきて図解もされているがわからない。これを「教育の限界」という。わからないものはわからない。

 第二章には、ライト兄弟と二宮忠八の事が書いてあり、「飛行機はライト兄弟が発明したと認めよう」と説明がある。二宮忠八については吉村昭の『虹の翼』という本がある。

 さらに、アメリカにも「ライト兄弟以前に飛べる飛行機があった」という話がある。それを公言したのがスミソニアン協会で、弟のオービルは激怒、協会に貸していた歴史的な一号機を取り上げてロンドンの科学博物館に貸し出す。戦争中にロンドンが空爆を受けていた時、イギリスはフライヤーを地下鉄に非難させて守った。その後オービルは協会と和解、1948年に機体はアメリカに帰還、現在はスミソニアン博物館にある。

 こういう話の方が私にはあっている。飛行機の飛ぶ原理はわからなくても。



Last updated  2012.05.22 17:54:32
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2012.05.21

太陽って・・・

 2012年5月21日、金環食が観測される。太陽が月によって覆われて起こる現象。

 『太陽と地球の不思議な関係』上出洋介・講談社ブルーバックス を読んだ。

 結論から言えば、「分からないことがこれだけあるのか!」という驚きと、「こんなことにも太陽が関係しているのか!」という驚きの双方が押し寄せてきた。

 この本の副題は「絶対君主と無力なしもべ」なのだが、読み進むにつれてこの言葉の意味するところが分かってくる。

 プロローグの部分で、「オーロラと磁気嵐」が原因ではないかと推定されている事故・事件が紹介されている。

 1986年2月8日にカナダで起きた特急列車と貨物列車との正面衝突事故。

 1989年3月13日、同じカナダのケベック州で発電所で発生した事故(変圧器が黒こげになった)。

 2000年7月15日に発生した大磁気嵐のためにX線天文衛星「あすか」が一次制御不能に陥ったこと。

 著者は第六章以下で「人工衛星や地上の機器に損害を与え、人間の健康や社会機構にも影響を及ぼす、太陽、太陽風、磁気圏、電離圏、熱圏の状態」を予測する「宇宙天気予報」の必要性を説いている。現代文明はコンピューターを基盤としている技術への依存を深めており、それに対する事前の防御措置(いまのところ完全予測は不可能)は必要ではないかという事である。

 第五章「地球生命への影響は?」で中心となっているのは地磁気の問題である。「地球の磁力がどんどん減っているが、その原因はわからない」「地球がなぜ磁力を持っているかのメカニズムもよくわかっていない」とある。

 このままのペースで減り続けると日本でオーロラを見ることができるようになるという。ただ「風流」と喜ぶことは出来ない。地球の磁場が太陽風を防げなくなると、吹きつける太陽風によって地球の大気が吹き飛ばされ、私たちにとって地球の「ちょうどいい環境」は消滅してしまう。

 オーロラ(命名者はガリレオ)は、この地球に大気と磁場がある証拠である。「オーロラとは、太陽の外延大気であるコロナが太陽風となって地球大気に衝突する現象」である。つまり、地球は太陽の大気の中にいるという事になる。「宇宙(電気の世界)と地球(電気的に中性)の接点で輝くのがオーロラ」なのである。しかしなぜオーロラは、地球に太陽風が押し寄せる側(昼間の地帯)ではなくてその反対の夜の世界でなぜ出現するかもまだよくわかっていない。

 ホントにわかっていないことのなんと多い事か。

 第一章は「疑問だらけのありふれた星・太陽」は、確実に目からうろこの箇所である。

 地球にいる私たちにはなぜあの大きさに見えるのか、という点については、「人間がたまたま見える可視光線の範囲」と説明される。太陽からは可視光の他に赤外線、X線、電磁波などがでているという。だから、他の生物の目には太陽の大きさは違って見える。太陽からは何が出ているか、この点も完全に解明されているわけではない。

 太陽は緯度によって回転速度が違うこと。「差動運動」。この理由も分かっていない。

 黒点の数と太陽の活動との関係もよくわかっていない。太陽黒点が減ったら寒冷期が必ず来るのかもよくわかっていない。

 何かひとつわかってくると、そのことによってかえってわからなくなることがいくつも出てくる。それがたのしいのかもしれない。

 しかし、この本を読んでいて不安になってきたことも事実である。



Last updated  2012.05.21 19:55:19
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2012.05.20

宗教的信条と狂信

 325年5月20日、ニケーア公会議始まる。公会議とは、全教会規模の会議である。313年にミラノ勅令によってキリスト教を公認し、帝国統一のために利用しようとしていたコンスタンティヌス帝の指導と庇護のもとに開催された。

 主たる問題は教会内部で萌してきた教義を巡る対立の解消であった。

 アリウス派は、厳格な唯一神説をとっており、創造主たる神は唯一であり、イエスキリストはその被造物であり、神の養子となったとする。

 これに対してアタナシウス派は、聖なる子は聖なる父から生まれ、聖霊と並んで神の位格の一つとしていわゆる「三位一体説」をとっていた。

 結局この会議ではアタナシウス派が勝利をおさめ、アリウス派は追放され、ゲルマン人への布教に活路を求めることとなる。

 また、この会議後に大きく変わったことがもう一つある。

 「クリスマスはキリスト教文化圏の人びとにとって最大最高の祭りの一つである。救世主キリストの誕生を祝うミサである。この日が12月25日になったのは、325年、ニーカイア宗教会議で、神・キリスト・聖霊の三位一体説が決定したのちである。それ以前には1月6日を「大いなる新年」としてキリストの誕生を祝っていた時代がある。ローマの太陽暦に基づいて1月1日を天地創造のはじまりとすれば、人間の創造が6日目にあたるからである。・・・当時の古い暦では冬至の日は12月25日頃であった。キリストの誕生を祝う日をいつにするか、教会は長い間模索してきたが、『世の光』としてのキリスト神を祝う日は、この新しい太陽の誕生を祝う冬至の日が最もふさわしいと考えられたのである」『ヨーロッパ歳時記』植田重雄・岩波新書 p46~47

 

 教義の統一は、「異端」を生む。異端者に寛容であった時代は短く、異端者への迫害は「近親憎悪」的な激烈さを伴うようになる。

 ヨーロッパ史を教えていて、この激烈さは私の理解をはるかに越えている。

 1572年8月24日に起きた聖バルテルミの虐殺では大量の新教徒(ユグノー)が殺されているが、その報告を受けた教皇グレゴリウス13世は、「テ・デウム」を歌わせ、「ユグノー撲滅1577」の標語を刻んだ記念のメダルを発行させている。教科書に載っている有名な絵も、失念したが確か誰かが記念に画家フランソワ・デュボアに描かせたと記憶している。

 



Last updated  2012.05.20 10:03:47
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2012.05.19

彗星の尾

 1910年5月19日、ハレー彗星最接近。

 21日には関西では282年ぶりに金環食が観測できる。午前7時25分ころから。金環食観測用メガネの売れ行きも好調のようである。煤を塗ったガラス、色つきの下敷き、サングラス、CDも目を痛める危険性があるのでダメだそうである。CDで見えるなんて知らなかった(見ないけど)。

 しかし、今から百年ほど前のハレー彗星接近の場合は、のんきな「天体ショー」とはいかなかったようである。

 ハレー彗星の尾の中を地球が通過することは予測されていた。そして、彗星の尾の部分には有毒のシアン化合物が含まれていることが報道され、地球上の生物は全滅するという噂が広まった。日本ではその日時は5月19日11時22分であることが報じられると、自転車のチューブの買い占めが始まった。チューブの中の空気を吸って助かろうということである。

 息をできるだけ長い間止める訓練をする者、世をはかなんで自殺する者、全財産を遊興につぎ込む者と、人々の反応はさまざまであったようである。

 この時、法王庁は「贖罪券」を発行、希望者が殺到し、入手できなかった人が自殺するという騒ぎが起きている。

 さて、どうなったか。彗星のガスは非常に薄かったために地球の大気に阻まれ(?)、地表に到達することはなく地球の生命には何の影響もなかった。

 しかし、なんでも金もうけの手段とする人はいるものである。

 「始皇七年(紀元前240年) 彗星がまず東方に出て、ついで北方に現れ、五月西方に現れた」

 これは、『史記』の始皇本記の記述。ハレー彗星に関する最古の記述とされている。



Last updated  2012.05.19 10:08:23
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2012.05.18

お棺の中からこんにちわ

1897年5月18日、ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』が発刊。

 ドラキュラ伯爵がはじめてスクリーンに登場したのは、1931年の『魔人ドラキュラ』であり、ドラキュラを演じたのはベラ・ルゴシ。ドラキュラ伝説の発祥の地であった東欧出身の彼にとってドラキュラは当たり役となった。夜会服を身にまとい、ダンディーな二枚目というドラキュラ像が誕生する。

 『ダークシャドウ』は、ジョニー・デップ主演のヴァンパイア映画だそうだが(未見)、監督のティム・バートンはどんな新しいヴァンパイア像を作り出してくれることか・・。

 さて、最近では結構知られることになったが、このドラキュラにはモデルがいる。「ドラキュラのモデルとなった人物」という副題を持つ本まで出ている。

 名前は、ヴラド・ツェペシュ。ルーマニアのワラキア地方の領主であり、押し寄せるオスマン帝国軍と果敢に戦ったため、ルーマニアでは独立のために戦った英雄として評価が高い。彼は「串刺し侯」という異名を持っている。文字通り、木の串に人を刺して殺すという聞いただけで震えがくるような殺害方法を採ったことからこの異名がつけられた。

 1430年に生まれた彼は父と兄を暗殺されるという厳しい環境で生育する。その後、1459年にワラキア領内の大貴族を打倒して中央集権化を進める一方で、オスマン帝国への貢納を拒否する。この6年前の1453年にコンスタンティノープルはオスマン帝国のメフメト二世によって占領されており、オスマン帝国はまさに日の出の勢いであった。その帝国に対してヴラドはゲリラ戦と焦土作戦を持って対抗する。1462年には夜襲を敢行してメフメト二世の殺害を図るがイェニチェリ(黄帝の親衛隊)の激しい抵抗にあって失敗する。その後、メフメト二世はワラキアの首都に入城するがそこで多数のトルコ兵たちが串刺しにされた姿を見、戦意を失ってワラキアを撤退する。

 この時の絵を見てみると、単純に体の真ん中に尖った木の串を突き刺して殺したもの、肛門から串(杭)を打ち込んで鎖骨のあたりまで突き抜けさせて殺したものなどさまざまである。

 串刺し刑について興味のある方は、ユーゴスラヴィアのノーベル賞作家イヴォ・アンドリッチの『ドリナの橋』をご覧になることをお奨めしたい。詳しく書いてある。

 しかし結局1476年、オスマン帝国軍との戦いの中で彼は戦死する。ルーマニア独立の英雄とたたえられる所以である。

 「ドラキュラ」のもととなった「ドラクル」という言葉は、ヴラドの父が神聖ローマ帝国からドラゴン騎士団の騎士に叙任されたことに由来している。またドラクルには、「悪魔」という意味もあるという。

 東欧におけるムスリムの立場は微妙である。旧ユーゴの内戦の経過を知るにつけそう思う。

 



Last updated  2012.05.18 19:57:13
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2012.05.17

アイルランドとあいるらんど

 1961年5月17日、エンヤ、アイルランドのドニゴール州で誕生。5月8日の欄で紹介したマーク・ボイルもドニゴール州の生まれである。

 新聞の紙面で「ウォーターマーク」というアルバムの事を知った。ピン!と来るものがあってすぐに買って聴いてみた。大あたりであった。それまで聴いたことのなかった不思議なメロディーラインと透明な声。何度も聴いた。1988年の事であり、「オリノコ・フロウ」は記録的なヒットとなった。二作目は「シェパード・ムーン」。これもよかった。

 音楽が満ち溢れる家庭に生まれ、大学ではクラシック音楽を学び、教会音楽からも大きな影響を受けている。

 アイルランドの音楽はくっきりと独自の地位を築いている。

 U2やクラナドは好きである。U2で最初に見たのがコンサートビデオ(「魂の叫び」 Rattle&Hum)であった。これは曲調もよし、メッセージ性もたっぷりの名作であると思う。その中で、アイルランドの大飢饉の事にふれていた。イギリスに征服されて後、荒れ地を耕して生活するしかなかったアイルランドの人々の主食となったのがジャガイモであった。1840年代後半、そのジャガイモに病気が取り付き、多数の餓死者を出した。「Great starvation」という言葉をU2は使っていた。この時に多くのアイルランド人が海を渡ってアメリカの地を踏んでいる。

 アイルランド文学といえば、、『ガリヴァー旅行記』のジョナサン・スウィフト、『ドリアン・グレイの肖像』、『サロメ』のオスカー・ワイルド、『ユリシーズ』のジェイムズ・ジョイス、詩人のイェーツ、ジョージ・バーナード・ショー、サミュエル・ベケット・・・。すごい。ラフカディオ・ハーンもここにいれていいかも。

 しかし、アイルランドと書かないで、「あいるらんど」と書くと思い出す詩がある。

 

 汽車に乗って

 

汽車に乗って

あいるらんどのような田舎へ行こう

ひとびとが祭りの日傘をくるくるまわし

日が照りながら雨のふる

あいるらんどのような田舎へゆこう

車窓(まど)に映った自分の顔を道ずれにして

湖水をわたり 隧道(とんねる)をくぐり

珍しい少女や牛の歩いている

あいるらんどのような田舎へゆこう

 

 丸山薫、1899年(明治32年)6月8日 - 1974年(昭和49年)10月21日)の詩である。

 



Last updated  2012.05.17 17:09:06
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2012.05.16

松島や・・・

 1689年5月16日(元禄2年3月27日)、松尾芭蕉は弟子の河合曾良とともに「奥の細道」の旅に出発している。

 ほんとにどうでもいいことなのだが、ずっと以前、まだ学生であった時に「ABCヤングリクエスト」という番組があり、以下のようなクイズコーナーがあった。

 「松尾芭蕉さんが旅に出て書き残した本の題名は?A「裏の路地道」B「田舎の田圃道」C「奥の細道」、さあどれでしょう?」。寄せられた回答の中にはAもBもあった。ホントに変な事を覚えている。

 出発にあたり、「行く春や鳥啼魚の目は涙」と詠んだ芭蕉は、曾良を従えて600里(2400km)を踏破する旅を約150日で終え、1691年(元禄4年)に江戸に帰着、さらに大垣へと歩を進めている。

 1943年に「曾良旅日記」が発見されてのちは、『奥の細道』は、芭蕉によって脚色された「あるべき旅行記」であり、実際は二人は各地の後援者の住居に泊まり、「大名旅行」とまでは言わぬにしても結構な待遇を受けながらの旅であったことは事実のようである。

 芭蕉・「奥の細道」・松島、となると、「松島やああ松島や松島や」という句が有名である。これは、松島の風景に心を打たれた芭蕉が一句も詠まずに(詠めずに)、感動のあまりに発したとされているが、これが真っ赤な嘘で、後世の狂歌師田原坊という人の作らしい。芭蕉は句を詠んだのだけれど、あんまりぴったりくるものがなかったので収録しなかったという説のほうが正しいようである。

 司馬遼太郎は、『街道をゆく』26 「嵯峨散歩・仙台・石巻」の中で、この句(?)にふれている。

 「松島で情けなく思うのは、ほうぼうの看板や説明用の掲示板に書かれている芭蕉作という俳句である。

 松島や ああ松島や 松島や

 落語の大家さんが、熊公を前にして作りそうな句で、おそらく、江戸期のたれであったか、明月の美しさに打たれて「明月や ああ明月や 明月や」と詠んだという噺のような句に、この「松島や」は踏まえられているのであろう。芭蕉もたまったものではない。

 芭蕉が曾遊の松島の地からこのような仕打ちをうけるいわれはない。彼は『おくのほそ道』のなかで、松島の景観を激賞しているのである。

 ・・・芭蕉は、こうも言う。

 予は口を閉じて(註 句作を断念して)眠らんとして寝ねられず。

 あまりの心の昂ぶりのために、句も出来ねば、眠られもしなかった、という。おそらくこの文章から、前掲の「松島や ああ松島や・・」の句の伝説ができたのに違いない。

 ...以上、芭蕉のために雪冤のつもりでのべた」

 6ページほどにわたって書き連ねてある。司馬は、「松島の観光にたずさわるひとたちは、今少し芭蕉に対して粛然たる気持ちを持ってやってほしいものである」と苦言を呈している。今はどうなっているのであろうか。

 

 「パンがなければケーキを食べればいいのに」というセリフはマリー・アントワネットのものとされ、彼女がいかに庶民の生活(というよりも生活そのもの)に無知であったかの証拠としてよく引かれることがあるのだが、これも誤伝。ただ、「あの人なら言いそうだ」という気持ちが、この言葉を彼女の言葉として定着させたと言えよう。

 そんなことを言うのなら、『ベル・バラ』のオスカルが、ロザリーの家に泊めてもらい、朝食を食べていたとき、スープしか出てこなかったので疑問に思い、「食事の前になにかないか?カフェ・オレかショコラか・・・」と訊ね、「ごめんなさい、これだけしかないのです」と言われてショックを受け、自分がいかに無知であったのかを恥じるというシーンがあるが、オスカルもアントワネットも同類であったということになり、むしろそのように描くことのほうが当時のフランスの「旧制度」を正確に描いているということになる。

 あ、ロザリーって誰か知らない人は集英社文庫の『ベルサイユのばら』第二巻を読みませう。

 



Last updated  2012.05.16 19:20:36
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2012.05.15

五・一五

 1932年5月15日、「五・一五事件」。

 チャップリンは、1932年、兄シドニーとともに日本を訪問している。そして、訪日中たまたま発生した「五・一五事件」の巻添えになりかけている。事件当日に彼は犬養首相と会う約束をしており、たまたま大相撲見物に切り替えて命拾いをした。首謀者たちは「日本に退廃文化を流した元凶」としてチャップリンの暗殺を画策していたようである。この事を知った時、首謀者たちの頭の単純さ、不寛容、狭量、はっきり言えばアホさ加減に吐き気がした。そのアホたちが事件を起こした時に、全国から多数の助命嘆願が寄せられている。「国を思う純粋な心を持つ青年将校たちを殺さないでくれ」という趣旨の。この裏には、政党政治の腐敗への国民の不満があった。裁判の結果は、反乱罪であったにもかかわらず軽いものとなった。厳罰をもって臨もうとした裁判官には上司より圧力がかかった。 

 この事はのちに、二・二六事件に大きな影響を与えた。陸軍の青年将校たちにあのような大胆な行動をとらせた出発点は五・一五である。彼らは国民の支持を確信し、クーデターの成功を疑いもしていなかった。

 この事件では、犬養の「話せばわかる」、青年将校の「問答無用!」が有名である。犬養は、1930年のロンドン海軍軍縮会議において政府が条約に調印した際に、条約調印は統帥権の干犯であるとして立憲政友会総裁として海軍軍令部、右翼とともに政府を攻撃、政府は何とか批准はしたものの浜口首相は東京駅で右翼の青年に狙撃され、翌年亡くなる。犬養は自分と海軍との関係は良好であり、この場を切り抜けられるという自信はあったのだろうか。

 この統帥権干犯問題は、兵力量の決定は内閣の輔弼事項であるという明治憲法の正統的な解釈を突き崩すものであった。

 憲法を制定してのちに伊藤博文が心を砕いたことの一つが、軍の内閣による統制をいかに行うかという事であった。この件について伊藤とは対立する立場にあった山県も、軍の政治への関与、そして暴走に対しては厳しく対処していた。

 明治の元勲たちは幕末から維新初期にかけて、いくつかの藩を混乱に陥れた軍の暴走を体験として知っていた。軍の専決事項と、内閣の統制下に置かれねばならない事項とを峻別せねばならないという事は伊藤、山県ともに自明の事であったと思われる。

 犬養は、政府を攻撃することに急であり、政党人として越えてはならぬ一線を越えてしまったと思う。これは死者に鞭打つようであるが、彼の失態であったのではなかろうか。



Last updated  2012.05.15 18:46:51
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