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カテゴリ:朝鮮役
1597年、慶長の役では南原城攻略後に全州会議が行われ各大名の進撃路が決定され、また井邑会議で再確認されました。 鳴梁海戦のあった9月にはすでに陸軍大名が忠清道から南下して全羅道を制圧してしまい、活動拠点となる水軍基地を持たない李舜臣は制海権を喪失したため、日本軍が撤退するまで再進出が遅れました。 鳴梁海戦によって日本水軍の侵攻は止まらず、右水営や珍島を初め全羅道西岸も制圧されてしまいました。 舟手を担当した来島通総(戦役で戦死した唯一の大名,風早1.4万石)、得居通年、菅正陰などが戦死し、指揮官の藤堂高虎と軍監の毛利高政が負傷したことから、戦術的に見れば海峡に突入した先鋒部隊の被害が大きかったものの、海戦の規模自体が小さく戦略的には朝鮮水軍は日本水軍の侵攻を阻止することも出来なかった。 つまり、海戦初頭の戦闘は李舜臣の勝利といえるが、海戦全般で言えば鳴梁海戦とは朝鮮水軍が日本水軍の進出を止めることが出来ず、鳴梁海峡の制海権を日本水軍が奪取した海戦と評価できる。 鳴梁海戦には戦役を眺めて大きな意味のない海戦ではなかったのか? 当時水軍の運用は陸上情勢に大きく制限され、日本水軍の後退も朝鮮水軍の前進も、陸上の敵味方の制圧状態とリンクしています。 1597. 09.16-李舜臣 狭い鳴梁海峡で地の利を生かした迎撃戦を企画(乱中日記) 09.17-李舜臣 早朝倭船200隻発見の報告.侵攻する倭船133隻を迎撃31隻を撃破,馬多時(菅"又四郎"正陰?)を斬る.倭船は侵攻を諦めた.風と潮流で停泊できず,夜半に唐笥島へ後退(乱中日記) -李舜臣が鳴梁で侵攻してきた倭船200隻を12隻で撃退,馬多時(菅"又四郎"正陰?)を斬った.(懲ヒ録) -藤堂、脇坂、菅、加藤らが大船14隻,小船数百隻駐屯の水営城を襲撃.毛利高政、藤堂高虎は敵船に切り込み負傷.大風が吹いて敵船は撤退,夕暮れに敵船小船数隻を撃破(毛利高棟文書) -水営に敵船代償13隻を発見,海流が早いため中型船のみで攻撃したところ先鋒の過半が被害を受けて来島通総戦死,毛利高政と藤堂高虎負傷.5時から20時まで戦闘が続いた.風を待って鳴梁海峡を抜けて追撃したが敵船を捕捉できなかった(高山公実録) -全羅道の珍島にて日本勢が李舜臣と不利な海戦を行って菅又四郎正陰が戦死(直茂公譜考補) 09.18-李舜臣 北上,於外島に移動,避難民多数に遭遇.(乱中日記) -李舜臣 避難船約300隻に遭遇,勝利の祝辞と食料を受領(追記版:乱中日記) -藤堂、脇坂ら、鳴梁海戦の戦場を見廻り、敵船の皆無を確認(毛利高棟文書) 09.19-李舜臣 於外島で2名戦死,2名重傷[当日の被害?](追記版:乱中日記) -藤堂、脇坂、菅、加藤が戦勝報告(毛利高棟文書) 09.20-李舜臣 北上,法聖浦が日本陸軍に制圧済み(乱中日記) 09.21-李舜臣 北上,蝟島で多数の避難民と避難船に遭遇.(乱中日記) 09.22-李舜臣 北上,古群山島に滞在(乱中日記) 09.23-姜コウ 霊光沖で藤堂水軍の信七郎の捕虜(看羊録) 09.24-姜コウ 務安に朝鮮-人捕虜集結,和船数千隻.後に右水営-順天を通って日本へ移送(看羊録) 09.27-鄭希得 七山島で阿波水軍の森忠村の捕虜(月峯海上録) 10.09-李舜臣 右水営へ帰還,城内外共に人気が無く悲惨[後に制圧されていた麗水の左水営に帰還したときと同じ感想](乱中日記) 10.11-李舜臣 安便島へ移動,暫く滞在(乱中日記) 10.29-李舜臣 根拠地を右水営でなく木浦へ据える(乱中日記) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.02.29 13:52:34
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