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タケル0127's Shopping List
タケル0127の日記 [全755件]
鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、鎮守府将軍および従四位下左兵衛督に任ぜられ、また30箇所の所領を与えられた。さらに天皇の諱・尊治から御一字を賜り尊氏と改名した。尊氏は建武政権では政治の中枢からはなれており、足利家の執事職である高師直・高師泰兄弟などを送り込み、弟・足利直義を鎌倉将軍府執権とした。これには後醍醐天皇が尊氏を敬遠したとする見方と、尊氏自身が政権と距離を置いたとする見方とがある。また、征夷大将軍の宣下を受け、鎌倉に幕府を開く意図があったとする説もある。この状態は「新政に尊氏なし」と言われた。 後醍醐天皇が北畠顕家を鎮守大将軍に任じて幼い義良親王(後の後村上天皇)を奉じさせて奥州鎮定に向かわせると、尊氏は直義に幼い成良親王を奉じさせ鎌倉へ下向させている。後醍醐天皇の皇子であり同じく征夷大将軍職を望んでいた護良親王は尊氏と対立し、尊氏暗殺を試みるが尊氏側の警護が厳重で果たせなかった。建武元年(1334年)、尊氏、実子恒良親王を皇太子としたい後醍醐天皇の寵姫阿野廉子と結び、後醍醐天皇とも確執していた護良親王を捕縛し鎌倉の直義のもとに幽閉させる。 建武2年(1335年)に信濃国で、北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行軍は鎌倉を一時占拠する。その際、直義が独断で護良親王を殺した。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官を望むが得られず、同年8月2日、勅状を得ないまま鎌倉へ進発し、後醍醐天皇はやむなく征東大将軍の号を与えた。尊氏は直義の兵と合流し相模川の戦いで時行を駆逐して、同月19日には鎌倉を回復した。尊氏は従二位に叙せられた。
直義の意向もあって尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与え始め京都からの上洛の命令を拒み、独自の武家政権創始の動きを見せ始めた。同年11月、尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして後醍醐天皇にその討伐を上奏するが、後醍醐天皇は逆に義貞に尊良親王を奉じさせて尊氏討伐を命じ、東海道を鎌倉へ向かわせた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言するが、直義・高師直などの足利方が三河国など各地で敗れはじめると、尊氏は建武政権に叛旗を翻すことを決意する。同年12月、尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇へ連絡を取り、京都進軍の正統性を得る工作をしている。建武3年正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくて奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。この時の尊氏は京都周辺に止まって反撃の機会を狙っていたことは、九州の大友近江次郎に出兵と上洛を要請した尊氏の花押入りの2月4日付軍勢催促状(「筑後大友文書」)から推測出きる。だが、2月11日に摂津豊島河原の戦いで新田軍に大敗を期したために戦略は崩壊する。そのため、尊氏は摂津兵庫から播磨室津に退き、播磨の有力者赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。 九州への西下途上、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像大社宮司宗像氏範の支援を受ける。宗像大社参拝後の3月初旬、筑前多々良浜の戦いにおいて後醍醐天皇方の菊池武敏を破り勢力を立て直した尊氏は、京に上がる途中で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。同年4月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、同年6月、京都を再び制圧した。 京へ入った尊氏は、比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は同年11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲り、その直後の11月7日、尊氏は建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言した。一方、後醍醐天皇は同年12月に京都を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った三種の神器は偽であり自らが帯同したものが真物と宣言して南朝を開いた。
尊氏像とされる「騎馬武者像」(高師直像説も) 足利尊氏は、鎌倉時代から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍。 本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁、鎮守府将軍八幡太郎義家の子、義国を祖とする足利氏の嫡流。足利将軍家の祖。足利貞氏の嫡男として生まれる。初め執権・北条高時から偏諱を受け高氏と名乗った。元弘3年に後醍醐天皇が伯耆船上山で挙兵した際、鎌倉幕府の有力御家人として幕府軍を率いて上洛したが、丹波篠村八幡宮で反幕府の兵を挙げ、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の御一字を賜り、名を尊氏に改める。 後醍醐天皇専制の建武の新政が急速に支持を失っていく中、中先代の乱を奇貨として東下しこれを鎮圧した後鎌倉に留まり独自の政権を樹立する構えを見せた。これにより天皇との関係が悪化し、上洛して一時は天皇を比叡山へ追いやったが、後醍醐天皇勢力の反攻により一旦は九州へ落ち延びる。九州から再び上洛し、光厳上皇および光明天応から征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。後醍醐天皇は吉野へ遷り南朝を創始した。 幕府を開いた後は弟・足利直義と二頭政治を布いたが、後に直義と対立し観応の擾乱へと発展する。直義の死により乱は終息したが、その後も南朝など反幕勢力の平定を継続し、統治の安定に努めた。後醍醐天皇が崩御した後はその菩提を弔うため天竜寺を建立している。北朝においても後光厳天皇の新千載和歌集は尊氏の執奏によるもので、以後の勅撰和歌集が二十一代集の最後の新続古今和歌集まで全てで足利将軍の執奏でによることとなった発端にあたる。 (後醍醐)天皇に叛旗を翻したことから明治以降は逆賊として位置づけられていたが、第二次大戦後は肯定的に再評価されているように、歴史観の変遷によってその人物像が大きく変化している。
尊氏は嘉元3年(1305年)に御家人足利貞氏の次男として生まれた。生誕地は綾部説(漢部とも。京都府綾部市上杉荘)、鎌倉説、足利荘説(栃木県足利市)の3説がある。「難太平記」は尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩にとまり1羽は柄杓にとまったという伝説を伝えている。幼名は又太郎。元応元年(1319年)10月10日、15歳のとき元服し従五位下治部大輔に補任されるとともに、幕府執権・北条高時の偏諱を賜り高氏と名乗った。父・貞氏とその正室・釈迦堂(北条顕時の娘)との間に長男・足利高義がいたが、早世したため高氏が家督を相続することとなった。「難太平記」によれば、尊氏の祖父・足利家時が三代のちに足利氏が天下を取る事を願って自刃したとされている。 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が二度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の変)。鎌倉幕府は有力御家人である高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加する。このとき、父・貞氏が没した直後であり高氏は派兵を辞退するが、幕府は妻子を人質として重ねて派兵を命じた。「太平記」は、これにより高氏が幕府に反感を持つようになったと記す。幕府軍の攻撃の結果、天皇をはじめとして倒幕計画に関わった日野俊基・円観などの公家や僧侶が多数、幕府に捕縛され、天皇は翌年隠岐島に流された(元弘の乱)。幕府は大覚寺統の後醍醐天皇に代えて持明院統の光厳天皇を擁立した。 元弘3年/正慶2年(1333年)後醍醐天皇は隠岐島を脱出して船上山に篭城した。高氏は再び幕命を受け、西国の倒幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに上洛した。名越高家が赤松円心に討たれたことを機として、後醍醐天皇の綸旨を受けていた高氏は天皇方につくことを決意し、同年4月29日、所領の丹後篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。諸国に多数の軍勢催促状を発し、近江の佐々木道誉などの御家人を従えて入京し、同年5月7日に六波羅探題を滅亡させた。同時期に上野国の御家人である新田義貞も挙兵しており、高氏嫡子で鎌倉から脱出した千寿王(後の義詮)を奉じて鎌倉へ進軍し、幕府を滅亡させた。この時。高氏の側室の子・竹若丸が混乱の最中に殺されている。 高氏は鎌倉陥落後に細川和氏・頼春・師氏の兄弟を派遣して義貞を上洛させ、鎌倉を足利方に掌握させている。
心温まる
思いがけない
贈物
ジャム
感謝
青龍
タケルの心は
夢の中
聖徳太子
愛
情けは人の為ならず 合掌
唯我独尊とは、釈迦が誕生した時に言ったとされる言葉である。 釈迦は麻耶夫人の右脇から生まれたとされるが、七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげ・ゆいがどくそん)と言った、という伝説から出てきたもので、しばしば釈迦を祟める言葉として使われる。しかし、「この世で最も尊いのは自分である。なぜなら、この世に自分(という存在)は一人だけである」という誤解や誇大解釈からか、多くの人が「傍若無人」「自己中心」と同じ意味と捉えられる向きがあり、一例として暴走族が特攻服などに刺繍したりする。
元来、天上天下唯我独尊は、釈迦が言ったのではない。釈迦以前に出生したといわれる過去七仏の第1仏である毘婆尸仏(びばし)が誕生した際に言ったとされる。しかしそれが、釈迦が生まれた際に、他の人々がそのように賛嘆したという説が生じて、のちに釈迦自身が誕生直後に自ら言ったと信じられるようになったものである。 「大唐西域記」の中に記載されている、釈迦の誕生当時を伝える誕生偈と呼ばれる偈文には、天上天下唯我独尊 今茲而往生分巳尽という一節が記されている。現代語に訳すと「全世界で私が一番尊い」という意味である。 「天上天下唯我独尊」の意味を「全世界で私たち一人一人の人間が一番尊い」と解釈する説もあるが、経典上の根拠が全く無い説である。釈迦の誕生を伝える仏典には、「佛本行集経」巻八・樹下誕生品下、「佛説太子瑞應本起経」巻上などがあるが、代表的な「修行本起経」巻上・菩薩降身品第二には、 天上天下唯我独尊 三界皆苦吾当安之 とあり、欲界・色界・無色界の三界の迷界にある衆生はすべて苦に悩んでいる。私はこの苦の衆生を安んずるために誕生したから、尊いのであると言う。ところが残存するパーリ仏典はやはり大乗仏教の影響を受けており、「大唐西域記」と同じように、釈迦自身の解脱という点で尊いとしている。この利他の面で尊いとするのか、解脱という自利の面で尊いとするのかに、時代による釈迦観の違いが現れている。 さらに、「天上天下」という言葉で、仏教の立場を説いているという解釈もある。「天上」とは、世界の一切の事象をすべて神の意思であるとする、当時の「尊有論」の立場とし、「天下」を、一切の事象は偶然によって支配されていると考える「偶然論」の立場と説明する。この両極端を否定して、釈迦は真実の姿は縁起によって現象するのであると自覚したから尊いのであると説明する。
菊池容斎「前賢故実」より 和泉式部(生没年不詳)は平安時代中期の歌人である。天元元年(978年)頃に出生したとするのが通説。中古三十六歌仙の1人。 越前守の大江雅致の娘。和泉守の橘道貞の妻となり、夫の任国と父の官命を合わせて「和泉式部」の女房名をつけられた。道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示した。 はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれ太皇太后宮・昌子内親王付きの女童だったらしい(母・平保衡女が昌子内親王付きの女房であった)が、それを否定する論もある。まだ道貞の妻だった頃、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝され身分違いの恋だったとて親から勘当を受けた。為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王の求愛を受けた。親王は式部を邸に迎えようとし、正妃が家出あうる因を作った。
敦道親王の召人として一子・永覚を儲けるが、敦道親王は寛弘4年(1007年)に早世した。寛弘末年(1008-1011年)、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。長和2年(1013年)ごろ、主君彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下った。万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが晩年の詳細は分らない。京都の誠心院では3月21日に和泉式部忌の法要が営まれる。 恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評された(「紫式部日記」より)。真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。その才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛され正に男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう。 敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記「和泉式部日記」があるが、これは彼女本人の作であるかどうかが疑わしい。ほかに家集「和泉式部正集」「和泉式部続集」や、秀歌を選りすぐった「宸翰本和泉式部集」が伝存する。「拾遺集」以下、勅撰集に二百四十六首の和歌を採られ死後初の勅撰集「後拾遺集」ぢは最多入集歌人の名誉を得た。 ・小倉百人一首 ・56番 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢うこともがな
・現在、岐阜県可児郡御嵩町には和泉式部の廟所と言われる石碑が存在する。同地に伝わる伝承によると晩年は東海道を下る旅に出て、ここで病を得て歿したとされている。碑には「一人さへ渡れば沈む浮橋にあとなる人はしばしとどまれ」という一首が刻まれている。 ・福島県石川郡石川町にはこの地方を治めた豪族、安田兵衛国康の一子「玉世姫」(たまよひめ)が和泉式部であると言い伝えが残る。式部が産湯を浴びた湧水を小和清水(こわしみず)、13でこの地を離れた式部との別れを悲しんだ飼猫「そめ」が啼きながら浸かり病を治したといわれる霊泉が猫啼温泉として現存する。 ・佐賀県嬉野市にも和泉式部に関する伝説がある。 ・長野県諏訪市の温泉寺に和泉式部の墓所がある。 ・兵庫県伊丹市に和泉式部の墓所がある。 ・大阪府堺市西区平岡町には、居宅跡である「和泉式部宮」がる。 ・大阪府岸和田市の阪和線下松駅周辺の大阪府道30号大阪和泉泉南線沿いには和泉式部にまつわる池、塚などが存在する。 しかしこれらの逸話や和泉式部の墓所と伝わるものは全国各地に存在するが、いずれも伝承の域を出ないものも多い。柳田国男は、このような伝承が各地に存在する理由を「これは式部伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べている。 ・鰯が好きだったとされる。
京都府木津川市にも和泉式部のものと伝えられる墓がある
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