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戦国時代好きくまの日記 [全67件]
あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いします。 12月中に一回書くといいながら元旦になってしまい申しわけございません。 母の様態がいまいちだったのと、決算関係がなかなか踏ん切りつかなかったのと年末に仕事の当番が当たってしまったことが重なりどうにもできずでした、、、 今年は、母を実家に迎え、一家団欒できるようにしたいとおもっております。 よろしくお願いします。 ということで、表題ですが、すいません、鹿児島の話ではなくて。。。 正月に忠臣蔵やるそうで、その背景話でもということで、書いてます。 吉良上野介の奥様の話です。 悪役にはいがいときれいな奥様がいらっしゃるというのは定番の話なのですが、やはり、吉良上野介もそうで、実は上杉家から妻を娶ってます。 上杉謙信公から3代目上杉定勝の3女 三姫さまです。 この婚姻に関しては、実は、上杉家では大反対であったようです。 理由は上杉家は30万石の大大名、それに反して、吉良家は3万石の旗本でした。当時の結婚については、基本的にお互いの家の格式に見合ったものどうしで行われるのが普通でしたので、当時としては異例の話でしたが、三姫さまは、江戸城で吉良上野介に一目ぼれをして、反対を押し切って の嫁入りでした。そして、それはそれは、仲むつまじい夫婦だったそうで、とついだあと、富子と名前を変えているそうですが、塩田にもその名前をとって富好塩田(塩田の風景がすきだったそうです)と名前をつけたり、三姫が目の病気にかかった折、身延山のお堂に千石供養をおこない祈願、回復したそうです。そして5年目にうまれた男子にも三郎と三姫から名前をとったそうです。 そんなこんなで幸せの日々を送っていたのですが、あるとき転機を迎えます。 上杉家では代がかわり4代目綱勝が1664年、江戸で参勤交代できていたさい、吉良家の江戸御用邸に訪問した後の帰り道で突然の腹痛を訴え、7日間腹痛・嘔吐を繰り返し7日後亡くなります。吉良家でお茶を振舞われたことから毒殺説がでて、三姫さまもご心労なされたということですげ、さらに大きな問題が持ち上がったこととしては、急死により、上杉家断絶の危機に陥ったことです。跡取りがないうえに決めてなかったため、非常に厳しい中で、会津の保科家と、血縁関係にあった上杉家は老中でもあった彼に上杉家の命運を託します。その結果おとりつぶしは間逃れ、三姫の子三郎を上杉家の跡取りとして申請(申請してあったが、保科氏が上奏していなかったということにしていた)したのでした。その代わり、上杉家は30万石から15万石に減俸されましたが、、、(こうしたことがあり、幕末の戊辰戦争で米沢藩が会津藩に協力したという話です)上杉家の名跡を継いだ三郎は、綱憲となのり5代目となり、学問を広げるべく、藩校をつくり奨励する一方で、江戸屋敷改築などの浪費・そして吉良家にもお金を送金するなどで問題もあったようです。あとは、暗殺の疑いについては、あとあとも残るところがあり、三姫の心労はのこるのでしたが、、、 ところで、吉良上野介の忠臣蔵である舞台としての役がらですが、幕府では、毎年とし始めに朝廷へ年賀の挨拶の使者を送り、そして、その答礼の使者をもてなすことをしてましたが、足利家の血筋の吉良家ではこれをかなり任命されており、吉良上野介央義も使者15回お迎え9回していたようです。で、松の間はその答礼の使者を通す間であったわけで、このとき答礼の使者を迎える接待役を浅野匠頭と伊達宗治にそしてその指導を吉良上野介がしていたわけで、、、いろいろと対立する理由はあったようですが、そこで、事件がおきます(これもめずらしいことではなく9回ほどおきているようですが、切られたほうが生き延びたのはこのときだけのようです) そして、12月14日、赤穂浪士のうちいりとなるわけですが、、、、このとき吉良家では、綱憲の次男義周を跡取りに迎えていました。んま、三姫の孫を迎えたわけですが、討ち入りのさい、上杉家からきた家来とともに奮戦し、後ろ傷もないままに気を失い、一命を取り留めたといいますが、そのあとを見に来た三姫は打ちひしがれて気力を失ったといいます。このときの上杉家の家臣たちのお墓は米沢にあります。 また、義周は、閉門ののち、吉良家を取り潰し諏訪へ配流の処分となりました。 そして、上杉家でもこの事件は衝撃を受け、当主であった三姫の息子綱憲もすぐ病死【42歳)してしまいます。子供と孫の哀れな末路をみた三姫は傷心のまま仏門にはいり、綱憲のあとを追うように上杉家の白金邸でなくなったそうです。享年62歳です。 1周期は渋谷の東北寺と米沢の法泉寺で営まれ、お墓は両方に有るそうです。 討ち入りのもうひとつの悲劇のお話でした。 討ち入るほうにもわけがあれば、討ち入られるほうにも生活があり、家族がある。。。そういう話でした。
また地図をぺたり http://www.shizuokasengen.net/guide.html#m06 あ「こちらのほうへ」と21の石の鳥居のところへ あ「こちらが、徳川家光公時代の唯一のこされた建造物で、石鳥居です。この石は瀬戸内海のほうからもってきたものだそうです。大阪城とかとおんなじですけねえ」 く「すごいとこからもってきますねえ@@;」 あ「浅間神社の山門ですが、掲げてある當國總社・冨士新宮とありますが、静岡の県知事になった人はすべての神社をまわらないといけなかったらしいのですが、それではたいへんだ~というわけで、この浅間神社をお参りするだけで、静岡のすべての神社をまわったということにできるという意味で、静岡をまとめる神社というお話のようです」 く「なるほどなあ。。。政治的な意図もあったんですねえ、これは。。。」 再び、浅間神社境内へ、、、 あ「境内の舞殿(ぶでん)ですが、この柱にあるこの動物ってなんだかわかりますか?」 く「なんでしょうねえ???」 あ「これは、獏です。」 く「あの夢を食べる動物ですよねえ?」 あ「そうです、で、これの主食が、鉄を食べるということですが、どういう意味があるとおもいます? く「うーむ、武器・・・ですかねえ?」 あ「そうです、剣などの鉄製の武器を食べるという意味合いから、平和を祈願したものということだそうですね。舞殿の脇には竜の彫り物があります。竜は川底に潜んでいて成長すると天高く舞い上がるということで、縁起のよい生き物ということで、よく扱われるわけです。あと、舞殿の中の彫り物で、太鼓の上に鶏がいるものがみえますか?」 く「はい」 あ「これはですねえ、中国の王朝が昔、下級のものが天子にむかって意見するときは太鼓をたたいて意見するというならわしがあったそうですが、鶏が上にいるということは、たたくものがいない、、、すなわちよい治世が行われるという意味合いがあるそうです」 く「なるほどねえ・・・」 あ「境内のあそこに飾ってある神輿が、木之花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)がお父様にあいにいく乗り物になるわけです、ビデオでその様子が紹介されてますね。こんな感じで外からは見えないようにうつっていただき、山を登っていくわけです。」 く「なるほどねえ、、、穢れのないようにというわけですね」 あ「そろそろお時間ですので、これで、おわりましょう」 く「今日はどうもありがとうございました」 浅間神社参り、訪れた意図とは違うものになりましたが、いろいろと勉強になるいい機会をいただいたと思っています。 ということで、こちらはおしまいです。 なかなかこちらの更新が進まない状況でもうしわけないですが、年末ということもあり、更新がさらに難しくなってます。なんとか、暇をみつけて、12月にもう一回西郷隆盛さんの世に出るまでのご時世についてまとめるブログがかけたらとはおもっています。 急に寒くなってきて風邪もはやっておりますので、お体にお気をつけて年末のお仕事がんばってくださいませ。 今後ともよろしくお願いします。
一度書いてけしてしまったので、ちょっとやる気が低下したしたが、気をとりなおして・・・ 地図をサイドのせます http://www.shizuokasengen.net/guide.html#m06 あ「大歳御祖神社は戦争で戦災にあい焼失しましたので、再建されたものです」 なるほどあたらしいですね。。。 あ「文化財資料館は、、、いまは特別展示やってないので、時間もないしパスです」 ありゃりゃ^^; 後日みにきましたが、歴代駿府城城主が奉納した絵馬?が沢山展示してありました。武士の気風から平安貴族の様子や、平安を祈願したものなど、時代・世相を反映したものが多数展示してあり、個人的にはよかったですね。150円の入場料だったかなあ・・・ く「今川家についてなにか残されているものはないですか?」 あ「静岡の人はあまり関心がないみたいですからねえ。。。駿府城で旧今川家の屋敷後が発掘された跡もとくに残そうという話は出なかったですから。。。静大の教授がそれでも後世しらべることもまたあるだろうからと、また、埋めたという話でした。静岡の美術館が建設予定になっていましたが、さすがに違う場所に建てることにはなりましたね。他に残されているところとしては、臨済寺ぐらいですかねえ・・」 く「徳川家康の幼少時にいたお寺で、師匠もいらした場所ですからねえ・・・」 あ「そうですねえ・・・ほかは、、、このさき(文化財資料館の横)にいろいろと石碑がありますが、、、この初代静岡県の県知事が関口さんというのですが、この方は、今川家の関口氏の子孫です。知ってらっしゃると思いますが、家康の正妻築山御膳の実家の血筋の方です。」 さすがに正妻の血筋は大事にしてますね、家康さんは。。。 あ「この前の浅間どおりの道路なんですが、ここで、昔は流鏑馬をしていたそうですよ。 なるほど、それで、結構広くて長いきれいな道になっているわけで・・・ あ「その向こうの家当たりに、徳川慶喜が謹慎していた家が立っていました。あのあたりも神社の境内であったわけです」 く「浅間神社が徳川家ゆかりの神社ということでということですね」 あ「そうですね」 また、ページ変えます
だいぶ間が空きすいませんでした。11月にはいってからは、仕事が年末進行で、決算・年末調整ボーナスの通常業務の他(これも初めての体験で頭がぐしゃぐしゃになりながらやってます)仕事についてあらゆることの改正?が進んでいて、その説明会やら、講習会やらがめちゃくちゃ多発していて、まじめに出席しているわけですが、なんか内容みると、、日本の世も末かなあとおもうことが多いです、、、、 浅間神社・・・もうちょっとだけささっと書きます。 地図はこちら http://www.shizuokasengen.net/guide.html 麓山神社(はやまじんじゃ)7を見た後、山を下りつつ、14の古墳へ あ「安倍川流域を中心に古来からこの地域を支配していた阿部一族の古墳です。この古墳の前の説明にも書いてあるように古墳のてっぺんには松がうえてあったのですが、落雷にてなくなってしまいました。中には、模造品の御棺があり、全国でも珍しい家型の石棺です。」 く「ふたがかなり面白い形をしていて加工技術が進んでいた感じをうけますね。」 あ「大きな岩をかなりふんだんにつかって石棺のお部屋をつくっています」 く「これをもってきて、この山に積み上げるのなみたいていのことじゃできそうもないですねえ」 あ「エジプトのピラミッドなみですかねえ(笑)」 あ「ちなみにわたしはすぐそこのあのうちの近辺の生まれのものでして、子供の頃はこの古墳が遊び場でしたねえ・・・松の木のところでもあそんでましたね」 く「こんなに近いとそうなるでしょうね、発掘もわりと最近のお話のようですし」 そんなお話をしつつ階段をおりて、大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)6の前の赤門前22 へ。 あ「普通山門には仁王様がいて、実際浅間神社のほうはそうなんですが、こちらには左大臣と右大臣がいます。ちなみに、左側に右大臣・右に左大臣がいますが、これは、神社本殿からみて左・右ということですね。また、赤門の前のとおりと、本殿を眺めていただくとわかると思うのですが、山門のところでちょっと道が曲がっているのがわかると思います。これは、邪気が直接本殿にはいってこないように工夫しているからです」 なるほどねえ・・・ というところで、一旦区切ります。
なかなか長尺ものになってきちゃいましたが、もう少し・・・ 本殿は地図でいうところの1・2です あ「先ほども説明した本殿ですが、この彫り物は立川流(たてかわりゅう)という彫刻美術の江戸幕府御用達の一派が彫っています。初代は、大工さんだったそうですが、諏訪で、修行、東京の立川で開業したので、立川流と名乗ったそうです。で、江戸幕府に御用達になった理由は、つくるにあたって必ず見積もりをしたそうで、それ以上のお金はもらわなかったからだそうです」 く「いまも昔も経済観念はかわらないかもしれませんね、もともと大工さんだったえいきょうでしょうかねえ?」 あ「そうかもしれませんねえ・・・とりあえず、縁起のいい彫り物がいっぱいあるわけですが、日光東照宮のものと比較してもかなり立体感のある堀の深いものがおおいですよねえ、、1600年代につくられた日光東照宮と200年も後期になったものではこれだけの違いがでるんですよね、すばらしいでしょ?」 く「これだけの立体感と、奥行きがあるのに一枚の板なんですか?」 あ「そうなんです、私もはじめは合わせたんだとおもいましたが、一枚だそうです」 く「うは、すごいですね・・・」 あ「浅間神社と神部神社の真ん中は実は守衛さんがずっとつめていたそうですが、ここの彫り物は鶴と亀と両サイドに鳳凰の図、、すごいですね。さらに背景に松竹梅・・・松竹梅がなぜ尊いものかといえば、冬の寒い時にもりっぱにはえてるからなんですよ」 ふむふむとじっくり鑑賞しました・・・・ その後、麓山神社(はやまじんじゃ)へ あ「ここは、日本を最初に統治することになったニニギノミコト(系図はこちら http://www2s.biglobe.ne.jp/~t-sato/index14.html が、地上世界におりて初めてみそめた木之花咲耶姫命(このはなさくやひめ)の父にあたる大山祇命を祭っています。あまりにも木之花咲耶姫命が美しいのでこの大山の命に娶ると申し出たところ、姉と一所にもらってくれとお願いされたところ、ご対面して・・・で、ニニギノミコトが断ったところ、お前は二度と天上界には帰れないといわれ、実際帰れなくなるわけでした^^;」 ありゃまあ・・・ あ「また、4月と10月の2回、麓から神輿がでて、その中に木之花咲耶姫命を乗せてこちらの麓山神社の方へ運ばれる行事があります。」 一回みてみたいですね。。。 といった感じで、約2時間ほどこのほかにも沢山教えていただきました。どうもありがとうございました。 続きを書く気力があれば、また続きを書きますが今日は力尽きたのでここまでです・・・
というわけで、受付へ移動 (の前に補足、少彦名神社の干支のはなしですが、4面だと、9つしか彫り物がかざれないわけですが、虎より前の干支は、本殿の中にあります) (移動場所ですが神社に地図再びアドレスかきます 12の社務所に移動してます) そちらへ記名して、500円を支払うと、いきなりなにやらいろんな神々しい文句が書かれた襟袖?を首からかけることになり、さらにさらに社殿前の自動車お払い所のところにて、祭壇を前にして本当にお祓いを受けました。目の前で祓いたまえ・・・というわけです。 つまり、神聖な場所なので、お祓いしないと、厄物を持ち込んでしまうからだめということのようです。 あ「これで、きっとあなたの厄もとれるでしょう」 その後の様子をみると本当に利いた気がしてます(後日談) あ「まずは、八千戈神社へどうぞ、こちらは、摩利支天といって戦国武将が戦に行くときにかならず兜の内側にいれたお守りのようなもので、そちらが祭られています。社を区切る塀には、蒼い波の文様がはいってまいすが、こちらは火災という災厄が入ってこないようにするための紋様です。実際に火災からは戦争からも守られたようですが・・・」 あ「正面にまわりますと、屋根直下の軒に、いろいろと孔子の教えの逸話がひとつの彫り物の絵として飾られています、たとえば、孟子の教えで、なくなりそうな母のために雪山に入り、たけのこを捜し求めた図や、歯の抜けた義母のために子のほかに義母に乳を与える若い娘の図などあります。家康は、よく子供や家光にこうした孔子の教えをとくとくとしたそうで、こうした精神を伝えようとして残したものと考えます」 (八千戈神社は、http://www.shizuokasengen.net/guide.html#m09 の9ですね) ひとしきり鑑賞後本殿(地図で言う1・2です)へ移動その間の話 あ「浅間神社の改築は1860年ごろから、66年かけて行っています、徳川家斉ぐらいのころかなあ」 く「そのころってすごく幕府ってお金なかったんじゃなかったんでしたっけ?」 あ「そうです、家光の時代に最初の改築してますがそのときは3年で終わったそうですが、このとき66年もかかったのはそのせいです」 納得・・・ そして、本殿へ移動します また、本文が多くなったのでページ変えます。
いろいろと遅れていることが非常に多くてすいません、くまです。 鹿児島旅行記もまだかけてないでしょうという声もきこえそうですが、、、このあとまた書きます^^;しかし、この続きを書こうとしたときに、幕末の薩摩藩の歴史のダイジェストの話をしないとわからなくなりそうなので、そういう話を挟もうと思ってます。 静岡の話は単純に忘れそうなので書きます^^; 静岡の話は静岡の話で、またもや、神話の世界にもなるので、一応神々の系図をリンクしておきますので参照してください、、、わかりにくいかもしれませんが・・・^^; http://www2s.biglobe.ne.jp/~t-sato/index14.html リンクもいろいろと関係するところを張っておきましたのでご参照ください。 ということで、少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)を眺めていると、後ろから声をかけられました。。。 謎の人「あのちょっといいですか?私こういうものですが・・・」 ちょっとみ絵描きさんのようなお姿をされた少し中年の方がいらして駿河ウエイブ「青島○○」と書かれたプラスチックカードを首から書け、白いウインドブレーカーに腕に駿河ウエイブの文字が青くはいっている方が横に立っておられました。(駿河ウエイブについては左下のリンクから見てみてください。) くま(以下く)「はい、、いいですよ」 なんとなく面白い展開になりそう(青島様、見ていらしたらすいません)だったし、少し時間が有ったので、お話を聞くことにしました。 青島さん(以後あ)「少彦名は、主神の大国主の命(おおくにぬしのみこと)に使えた神さまですが、ここに書いてあるように薬師如来さまも一緒に祭られていました、、、神仏混合ですね、それが、明治の廃仏毀釈によって、神と仏さまは分けて、捨てなければならなくなり、緊急避難として、臨済寺(りんざいじ)へと運ばれ、いまは薬師如来さまはいません」 く「そうですよねえ、、、薬師如来さまって神様じゃないですからねえ・・・」 あ「神社の屋根の下をみていただくとわかるのですが、十二支の干支が四方に3つづつ彫り物が飾られているのがわかります。そして、正面なんですが、真正面中央には虎がいます。なんでかというと、徳川家康の干支が虎だからです^^」 く「なるほど家康をよいしょしてるんですね^^」 あ「そうですねえ^^;」 しばし話していると、 あ「もし時間とお金があるのでしたら、本殿の方も案内しますよ」 く「はいよろしくお願いします」 といって、向かった入り口の受付口が無人だったり^^; あ「ありゃ、いないですね・・・向こうのほうかな・・・」 あ「ちょうどいいいので、こちらからちょっと説明します。階段の上を見てください (一応浅間神社のマップのリンクはっておきます http://www.shizuokasengen.net/guide.html 10あたりをうろうろしてます) ひとつの本殿なのですが、左が浅間神社(あさまじんじゃ)、右が神部(かんべ)神社の本殿で、中央で別れていて、別々に入れるようになってます」 く「あのー、右左はどうやって決められたのでしょうか?」 あ「一応歴史をお話しすると、もともと富士山の信仰があった浅間神社がありまして、そののち、神部神社が祭られるようになりました。ちなみに左と右どっちが位が高いかわかります?」 く「左大臣のほうが右大臣よりえらいですから、左でしょうねえ。」 あ「そうです、だから、もとからいた浅間神社の方が左にあって、右に神部神社があります」 あ「ちなみに浅間神社の象徴する動物は鷹なので、鷹の彫り物が、神部神社は、因幡の白兎で有名な神様なので、ウサギの彫り物があります」 というところで、本殿に入るため別の入り口へ移動します。 文字多くなりすぎたので、ページ変えます。 |一覧| |