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私たちは2004年の夏から、2006年の夏まで、ドイツを中心としたヨーロッパで、ピアノ技術者として滞在しておりました。その頃の体験した事など、写真を通してお伝えしたいと思います。
2002年、完璧に調整されたドイツのアップライトピアノに初めて触れたとき、自分の持っていた音楽観と全く異なった世界があることに気付きました。お客様宅で数をこなすように調律をしていた頃の自分にとって、アップライトを完璧に仕上げる事の大切さを学んだと同時に、当時の環境下で技術を極める事は自分にとって不可能と感じました。そしていつしか本場ドイツに渡り、ピアノメーカーで働いてみたいと強く思うようになりました。 それから2年半後、ワーキングホリデービザで当時付き合っていた今の妻、渡邉朋子(旧姓伊勢朋子)と共にドイツへ飛び込みました。滞在中は現地で出会った多くの人々に支えられ、約2年間弱の短い間でしたが、いろいろな事を経験してきました。 具体的な技術を学んだだけでなく、幾多の苦労を乗り越えたことで精神的にも強くなったと自負しております。そしてなによりも、ピアノは音楽を奏でるための楽器であり、ピアノも音楽も、歴史や文化、宗教や哲学、そしてその土地の風土や住む人々などが、とても大切な要素であると気づくことが出来ました。 帰国後はより一層、有名無名国内外問わず、一台一台丁寧に触れるようになり、そのピアノが製造された時代や製作者の意図、音楽的な背景も想像しながら仕事をするようになりました。 ドイツをはじめ、ヨーロッパで経験してきた事を、写真を通して簡単にご紹介させていただきます。 最初に住んだ町はドレスデン。ドイツ語学校の寮生活が始まった。 英語も殆ど通じず、はじめは外出するのがいやだった。 ![]() 語学学校の寮では、ドイツ以外の人と多く知り合った。片言の英語やドイツ語でも楽しめるもの。タイ人としたパーティーはいつも明るく楽しかった。ただこの写真の、スペイン人、ゴンザーロの誕生日パーティーは強烈で、二次会へ行く途中の路面電車でダンスが始まり、テンションがどんどん上がり、乗車してくるドイツ人も平気で巻き込んではしゃいでいた。 彼らからは今でも忘れた頃にメールがくる。 ドレスデンのクリスマス。一ヶ月前から町が徐々にクリスマス色になっていった。 ![]() 年が明け、お祭り騒ぎが終わると、日照時間の短い、ただの暗い日々。今後うまくいくのだろうかと、不安になった。貯金残高も考え、ハイツング(備え付けの暖房器)で、パンを発酵させた時もあった。またヒルトンホテルのすし屋でバイトをしようかと真剣に考えたりした。 それでも音楽鑑賞や旅行は積極的にした。現地で知り合った日本人友達から、リーズナブルな方法を教わり、運転免許証も取得できた。 写真はゼンパーオーパー。ここで浴びるように沢山音楽を聴いたことで、クラッシック音楽を聴く土台のようなものを築けたと思っている。宿泊先に困った日本から来たオペラの伴奏家の友人を家に招き、2週間一緒に過ごし、オペラについて多くのことを教えてもらい、興味を持つようになった。ここで見た「魔笛」は最高だった。 ![]() 2月、グロトリアンで働く先輩調律師の親切丁寧なアドバイスと励ましを受け、就職活動を始めた。 それまでに、シュタインベルグ、オーガストフォレスター、グロトリアンで工場見学、地元周辺のお店を見学、マイセンでは修理工房見学をした。そしてベヒシュタイン工場で、ドイツ語通訳のアルバイトもした。(どれだけきちんと通訳できたかは不明) 10社に入社志望の手紙を送り、5社から前向きな回答をいただいた。 ![]() メーカーとの面接会場となったフランクフルトメッセ。ポーランドで修復されたピアノを弾き感動したが、ピアノの修復技術はまだまだ成熟して無いとも感じた。 ![]() ザウターに就職が決定。それまでの不安が吹き飛び、2人で飛び上がって喜んだ。新しく住んだ街は、シュトゥトガルト南部の小さな町バルクハイム。馬や羊もいる美しい田舎町だった。 ![]() 裏山の頂上にはカトリックの教会があった。鹿とも遭遇した。 ![]() 会社へは日本人の先輩技術者がいた。車に同乗させてもらい毎日出勤した。会社内で気をつけることや、小旅行へも連れて行ってくれた。 写真はストラスブール。ドイツとフランスが混在した、美しい街だった。 ![]() ザウターでは、自分はアップライトピアノ製造のほぼ全工程を経験した。写真は鉄骨をボディーにつけているところ。写真の彼女の腕力に驚かされた。夏休み前になると、皆長期休暇に入るとあって、ワクワクし出す。まるで小学校の夏休み前のようだった。 ![]() 正社員として働いたため、金銭的に余裕が生まれ、旅行に出かけることが出来た。 ハンブルグのスタインウェイ、ウィーンのベーゼンドルファーとそれぞれのショールーム、ザルツブルグ音楽祭、ブレゲンツの湖上オペラへも行った。 平穏に時が過ぎ、雪もちらつき始め、車でも買おうかと真剣に考え始めていた12月、ピアノ生産台数が激減。そしてクリスマス直前、突然解雇されてしまった。ドイツが新しく入った社員から解雇しやすい仕組みである事、自分達は面接時、2~3年働ければいいと伝えていた事、そして会社側は大増産を見越して自分達2人を雇ったわけだから当然の事。上司のマイスターは、目に涙を浮かべて突然の別れを惜しんでくれた。ただその頃、将来どうするか迷っていた時期でもあり、いいタイミングだと前を向くことにすんなり決め、新たな冒険心がすぐに生まれた。 写真は、解雇を言い渡された日、裏山で2人で雪山の中、子供の様に遊んだ。 ![]() 一時帰国後、工場に感謝と別れの挨拶と、事務的な手続きをしに再び会社へ行くと、製造ラインの仲間のシフトががらりと変わり、生産されるピアノも極端に少なく、本当に大変なことになったのだと実感した。人事のマイスターも顔がやつれ本当に残念そうだった。(幸い4月には危機を脱出したと帰国後に知った時は自分のことのようにうれしかった。) 再びメーカーなどにメールを送ったが、どこも急に不景気になり、いい返事をもらえなかった。ザウターのマイスターや、ベヒシュタインの副社長は、丁寧にもいろいろな特約店を紹介してくれた。大変うれしかったが、ドイツに居続けることが目的ではなく、メーカーで働くか研修がしたかったため、感謝しつつ断った。 やがてブリュートナーで2週間の研修が決まった。そのにはたまたま彼女の調律学校時代の元先生がいて、居候させてもらった。彼女はブリュートナーで働く事へ大変ほこりを持って、日々真面目にピアノに向かっていた。 写真は早朝の工場内。2月の冬の早朝は暗い。それまでどこのメーカーでも写真撮影を自粛してたが、ここでは沢山撮った。先生にあまり良くないと指摘され自粛した。はしゃぎ過ぎたと強く反省した。 ![]() 工場で働く人々はみなやさしく親切だった。旧東ドイツ時代は、メーカーは国営化され、89年にブリュートナー家が再び買い戻した。それまではみな苦労したそうだ。どのような苦労だったのかは想像がつかない。 研修が終わるとすぐにパリへ出発。実はブリュートナー研修の前、パリへ遊びに言った時、宿泊先の研究者の知り合いのピアニストから、バルロンの存在を知り、研修をする約束を取り付けていた。日本と違い、ヨーロッパでは積極的に自分達の意思を伝えた方が物事がうまく行く。ここでの研修が決まった時は夢のようだった。 お世話になった明子さんと3人で、外装が超美しいでガボーの前でのショット。 明子さんとは毎晩の様にチーズとバケットとワインを楽しんだ。 ![]() ![]() バイオリンの職人、仁平さんと。気の遠くなるような精密な仕事をしていた。仁平さんと食べた生牡蠣は絶品だった。 ![]() パリのハンマー屋さん。フランスのピアノ修復のときは、ここに注文してる。現在はパリ郊外へ移転した。 ![]() バルロンのオーナー、シルビーのお父様と。ドイツ語が堪能で、ピアノの事は何でも知っていて、色々な体験をされている。東西ドイツ統一の頃、ライプツィヒでの昼夜のデモに遭遇したらしい。ちなみにこの頃パリは学生が政府の雇用案に反対し、自分達もデモに遭遇した。 ![]() そして修復師のシルビー。時間が許される範囲で、多くを教わった。とりわけ失敗談からは多くを学び、日本で独立する勇気を与えてくれた。明子さんとりこさん(ジャズピアニスト)が常に通訳してくれた。写真はホームページ内の「事業方針」に掲載。 http://saitama-piano.main.jp/policy.html ドイツやパリで見たニュースの中心は、国内の政治や社会一般の出来事。その次にヨーロッパ(ロシア)、アメリカ、イスラエル情勢の順だったかな。サッカーも大事なニュース。帰国直後は、日本ではヨーロッパの情報が非常に少なく、アメリカのニュースが多いと感じたが、今ではすっかり慣れてしまった。 続きは下。 http://plaza.rakuten.co.jp/19790801/diary/200904120000/ │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |
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