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画像:平野遼『カスパの老人』版画 讃歌 美に殉じた人々へ 松永伍一 231頁 薄明の祭場 平野遼 息づくいのちに 言葉は要らない。 闇があればそれで十分だ。 歌さえ噛み殺している逆説の音楽堂 子宮よ。 さあ時がきた。 在るべきものを在らしめるために 外光の中に押し出してくれ。 生誕の笛を吹かせてくれ。 たとえそこが黄昏の巷であっても。 始源の闇 子宮よ。 その働きによって おまえは慕われるだろう。 在るものすべての母として、 まことの光の収納庫として。 わが畏敬する画家・平野遼の常に追い求めている主題に、この一篇の詩を捧げます。 『闇こそ光源』と信じている詩人の、友愛を込めた共鳴度を証すためです。 絶望をくぐった希望こそ本当の輝きを持つはずですから、自分の眼に映る光を光だと思い込む人は画家としても詩人としても失格です。 なぜなら、見るという行為に批評がなく、その視線に逆説が含有されていないからです。 逆説はつねに危機をはらんでいるのです。 批評とは存在するものの本質に鋭角的に斬り込んでみたり離れたりして、自分との距離を確実に測定することでしょう。 どんな場合でも実在と自分とが一致するなどということはありえないはずですが、そのずり落ちている危機をのり超えようと模索する営みを批評と呼ぶべきでしょう。 平野遼の主題は、そういう批評しか受けつけない重さを観る者に常に突きつけてきました。 眼に見える光を光と思い込む人は、平野遼の思考の構造はおそらく見抜けないでしょう。 彼が魔術師であるとか仕掛けの名人とかであるためではなく、魔術も仕掛けもなく正攻法で己に向き合い、己を宇宙の一角に佇立させて一歩も退かないことで、近付いてくる者がそれに圧倒され、難解だと思い、画面と自分との距離が定まらず、立往生をすることにもなるのです。 その人はやがて自分の中の真の批評眼に思いあたるでしょう。 つまり、見て感想を言えばそのまま批評になる、と思い込んでいた愚かさに赤面し、真の批評が描いた画家の人間としての総量にわけ入ってはじめて成立するものだ、と知らされるに違いありません。 平野遼は己に忠実である分だけ、他者に対すると同じく己自身への批評を鋭くさせ、その濃度に応じて批評を詩に置き換えていく画家です。 詩的とか詩人的資質とかで片づけては、平野遼は見えてきませんし、絵という具体物の前に立っていても、そこに平野遼は不在です。 厳密に、批評を詩に高め、人間の不滅の要素に関与していく画家の、その自己断罪と自己表出の劇をのぞきえたとき、人は研ぎすまされた刃のような鏡に自分を映すことができるでしょう。 その刹那から平野遼と出会えたことになります。 念のために書き添えておきますが、批評と詩は同一ではありません。 『批評は詩に似ている。それはほとんど裏返しの詩に他ならない。 批評は、詩という母から一つの必然として生み出され、生み出された瞬間から母親である詩を否定しはじめる毒なのだ。 だから互いに背中あわせに立つ批評と詩の間を隔てる空間は常に歪んでいる。 この歪みは決して修正されえない』としても、平野遼は画家であることによって、批評と詩とをつなぎ、その両者の間の溝を埋める祭司になれるのです。 いわゆる批評家になるわけでもなく詩人になるわけでもなく、以て非なる二つを連結させることで、実在するものと自分との不一致を恩寵をもって埋めようとしているかのようです。 批評だけでも不可能なことを、批評を詩に置き換えるという独断によって平野遼は通俗の批評を受けつけぬ座を占め、そこに屹立したのではないでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014.02.23 19:05:20
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