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キッチンに1人、外に2人でした。 ドイツ人の顔でもわれわれ日本人の顔でもないぞ!。 この画像は、翌日、男性のメイルアドレスに送りました。 《左上画像》 廊下で、かたまって飲んでる連中もいた。 白く光ってるのは、飲み残しのワイングラス。 《左下画像》 地下のキッチンでスタッフが、食事を温めたりしてた。 見てたら、食べ残しを、各皿から集めて、また、 新しい皿に盛りなおしてくれていた。 奥のドアを出ると、庭に出られるんです。 夏、ガーデンで食事する時には、ここを使います。 アンダルシア、Andaluciaのtorres8はフーとここで、 よく料理を作りました。 《右上画像》 地下の補助キッチンですが、ディシュ・ウオッシャーから、 オーブンまで揃ってます。 アンダルシア、Andaluciaのtorres8の脱線! イラン・イラク戦争(1980年~1988年)での 出来事 イラクのサダム・フセインは、イランへの攻撃を激化させた。 『テへラン上空を航行する航空機はいづれの国のものであろうと、 48時間後からは全て撃墜する』 突然のサダム・フセイン声明 1985年3月、イランに住んでいた日本人は、 パニックに陥り、脱出するため、慌ててテヘラン空港に向かった。 世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、 どこも満席、自国民優先で日本人を乗せてくれる航空機はない。 これは、国際社会の常識。 日本政府の反応はいつものように遅かった。 外務省が救援機派遣を「日本航空」に頼むが、 日航は「危ないから行けない」と回答した。 無差別撃墜のタイムリミットまで、残り2時間となった。 取り残された邦人は、孤立無援の状況となり、 全員テヘランで取り残されるのかと思われた土壇場、 テヘラン空港へ乗り入れる、2機の旅客機があった。 その旅客機は、邦人215人を搭乗させ、近くの安全な国の空港ではなく、 なんと成田に向け飛び立った。 それは、トルコ航空機であった。 トルコ航空のパイロット、乗務員は「死」を覚悟して母国を飛び立ったという。 なぜトルコが危険を冒して、日本人を助けに来てくれたのか? クリックしてやってくださいネ!御協力ありがとうございます! ⇒ BBSへのご返事遅れてすみません! できれば、コメント欄に書き込んでいただけるとすぐご返事できると思います 日記の内容には関係ないことでも大歓迎です。 勝手なこと言ってごめんなさい! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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