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修公の日記

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2008年03月24日 楽天プロフィール Add to Google XML

◆高橋 紹運
[ 名将列伝 ]    

【 高橋 紹運】天文十七年(1548年) ~天正十四年(1586年)
【統率】95【戦闘】96【政治】54【智謀】76

※能力は1~100。
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 天文17年(1548年)、九州豊後の大名【大友 義鑑】の重臣・【吉弘 鑑理】の次男として生まれます。永禄10年(1567年)、中国の毛利氏の調略により大友氏の家臣であった【高橋 鑑種】が謀反を起こし、これに呼応し豊前、筑前、肥前の国人たちが連携して反乱を起こしました。

 父・鑑理や兄の鎮信と共に出陣して大いに武功を挙げ、当主・宗麟の命令で高橋氏の名跡を継ぎ、姓を高橋と改めます。さらに岩屋城と宝満城の2城を与えられ大友氏の中核をなすようになります。


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最終更新日  2008年03月24日 23時30分48秒


2008年03月17日

◆後藤 又兵衛
[ 名将列伝 ]    

【後藤 又兵衛】


 話をもどします。徳川軍はすでに狭隘部を過ぎ、大軍を展開しようといている最中でした。大坂方の作戦は、すでに失敗しています。味方の到着が遅れているという状況でしたが、これ以上の進軍を許すわけにはいかないと感じた又兵衛は、進撃を遅らせる遅滞戦術をとります。

 敵の大軍を少しでも食い止めるには、陣取りが勝敗を分けます。わずかな丘陵である小松山を敵軍より奪い取るより他に策はありませんでした。夜陰に乗じて「道明寺の戦い」の火蓋が切られました。霧の中、奇襲を受けた徳川方は【奥田忠次】らが討ち死に、進軍に混乱が起きます。一時的ですが又兵衛の作戦は成功します。

 しかし、後方より伊達軍一万五千が援軍に入ると、状況が変わります。数にものを言わせる戦術に次第に追い詰められた後藤隊は、部隊としてのまとまりを欠くようになります。又兵衛は、その中にあって部隊を叱咤し巧みに指揮を取ります。

 馬上で見事な采配を振る又兵衛が目立たないはずはありません。伊達軍との乱戦の中、【片倉 重長】(片倉景綱(小十郎)の嫡男)率いる鉄砲隊に銃撃され、腰を撃たれ歩行不能となった又兵衛は、部下に介錯を命じて自刃したといいます。享年五十六歳。

 その後、大坂方の真田隊他の主力部隊が到着し、見事な野戦を演じます。その夜、幸村は自分の着陣が遅れた事で、又兵衛を死なせてしまったと、【毛利 勝永】の前で号泣したそうです。それほど魅力ある武将であり、戦況を左右する人物であったということなのでしょう。

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最終更新日  2008年03月17日 22時47分27秒

2008年03月10日

◆後藤 又兵衛
[ 名将列伝 ]    

そのような不遇な生活が終わりを告げる時がきます。大坂冬の陣が起こると家康から法外な恩賞を条件に誘われたが、又兵衛は感激するもこれを拒絶して大坂城に入ります。又兵衛入城は、大坂方を大いに奮い立たせると共に喜ばせました。

 現在では、【真田 幸村】の方が有名ですが、当時は実践経験、武勇や名声においても、入城した浪人の中で又兵衛が随一でした。冬の陣では鴫野・今福方面を【木村 重成】と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。実践経験の少ない兵士に、鉄砲の撃ち方を指導するなどしたといいます。また、秀頼も又兵衛を信頼していたといいます。

 翌年、大坂夏の陣では、大和路方面・国分での迎撃作戦の先鋒として二千八百の兵を率いて出陣、道明寺方面から進撃するであろう徳川軍を、大坂方複数の部隊で各個撃破する手はずになっていました。霧のため真田軍らが間に合わず、作戦時刻に到着出来たのは後藤隊だけでした。

 それには濃霧も原因でしたが、一番の理由は、部隊行軍に各部隊長、および兵士が慣れていないという事でした。このような逸話があります。馬上で川を渡河するのに苦戦する兵士を見た又兵衛は、その兵士の川上を進み流れを緩くして渡河させた事があったそうです。

 歴戦の勇士である又兵衛の指揮が、関ヶ原から十五年経った当時では群を抜いていたということ、この戦いが初陣という兵士たちが、かなりいたという事もいえるでしょう。このため、到着時刻がバラバラになり、兵力の逐次投入という戦術であってはならない形で、大軍で迫る徳川軍に逆に各個撃破されてしまう最悪な状況に追い込まれてしまうのです。  


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最終更新日  2008年03月10日 22時05分36秒

2008年02月21日

◆後藤 又兵衛 その2
[ 名将列伝 ]    

 後に罪を許されて、再び黒田氏の家臣として仕え、豊前宇都宮氏との戦い、朝鮮出兵や関ケ原の戦いなどに従軍、関ケ原では三成隊の剛槍使い【大橋 掃部】を一騎討ちで破るなどの武功で大隈城一万六千石の所領を与えられます。「黒田二十四騎」や「黒田八虎」の一人に数えられた。

 しかし如水の子・【黒田 長政】とは非常に折り合いが悪く、その確執から孝高の死後、又兵衛は一家揃って黒田家を出奔しました。朝鮮の役で、長政が敵将と組合川中に落ちたとき、又兵衛は傍にいたのにまったく加勢しなかった事や、関ヶ原での鉄砲隊長という職にありながらの一騎打ちなどが、確執の原因と言われていますが、本当に馬が合わないというのが理由ではないかと思います。

 しかもこの時、長政は又兵衛に対して奉公構という措置を取ったため、又兵衛の智勇を惜しんで全国の大名(細川忠興・福島正則・前田利長・結城秀康など)から召し出しがかかったにも関わらず、いつも長政に仕官を邪魔され、家族とともに長い浪人生活を余儀なくされ、乞食の身に零落するほど生活が逼迫したといいます。 


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最終更新日  2008年02月21日 08時46分13秒

2008年02月19日

後藤 又兵衛
[ 名将列伝 ]    

【後藤 基次】永禄三年(1560年) ~元和元年( 1615年)
【統率】91【戦闘】94【政治】32【智謀】72

※能力は1~100。
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 【黒田 孝高】の家臣。通称は又兵衞。【母里 友信】と共に黒田家の双璧。「黒田二十四騎」や「黒田八虎」としても有名。播磨別所氏家臣・【後藤 基国】の次男。

 幼少の頃、父を亡くしたことから、父の友人であった【黒田 孝高】に引き取られます。しかし、孝高が【荒木 村重】によって幽閉された際に、叔父・基信がその子の基徳・基長兄弟(又兵衛のいとこ)とともに村重方に属したために、又兵衛は一族の謀反を起こした件により連座される破目となり、一時、黒田家中からの退去を余儀なくされます。別所家の家臣であったため、そのような形になったのでしょう。




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最終更新日  2008年02月19日 21時54分28秒

2007年10月19日

◆宇佐美 定満◆
[ 名将列伝 ]    

 毎日少しづつですが、先に紹介した武将について個人的な考えをまとめていきたいと思います。まあ、私的な想いという奴ですけど(笑)

 宇佐美といえば、越後上杉家の重鎮。そういえば、僕が初めて知ったのは信長の野望・武将風雲録でした。ナイスなヒゲ面にいかにも知将と言うような画像に、かなり使い込んだ記憶があります。

 もちろん、上杉家に武田のように知将がいないと言う事もあったのですが、欠かすことの出来ない軍師でした。謙信と宇佐美のコンビでよく戦をしたものでした。

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最終更新日  2007年10月20日 00時30分33秒

2007年10月18日

◆宇佐美 定満◆
[ 名将列伝 ]    

◆宇佐美 定満◆

宇佐美氏は伊豆宇佐美荘から出た一族。枇杷島城城主。駿河守。軍略に優れ、幼い頃の謙信を指導したとも言われています。上杉二十五将の一人。

定満は延徳元年(1489年)、宇佐美房忠の子として生まれます。下克上は、越後の地でも例外でなく父・房忠は越後守護・【上杉 定実】の復権を目指して【長尾 為景】と戦い、永正十一年(1514年)に戦死します。

定満は越後守護の上杉氏の一門である上条上杉家に仕え、天文四年(1535年)に【上条 定憲】と共に上条上杉氏の再興を目指して為景と戦います。為景を大いに苦戦させます。一時期は、為景を四面楚歌の状況までに追い込みますが、天文五年(1536年)に定憲が死去すると、戦う大義がなくなり為景に降伏した。

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 為景の死後、その子の【長尾 晴景】、そして【長尾 景虎】(上杉謙信)に仕えます。天文十九年(1550年)、景虎に反抗した一族上田長尾家の【長尾政景】を屈服させるのに戦功があった。謙信の重臣として、上杉家で高い地位にあったようです。枇杷島殿と書状などには名が挙がっています。


 後の川中島の戦いにおいては、武田のキツツキ戦法を見破り、戦を有利に運ぶ要因を作ったとも言われています。永禄年間にはすでに老齢で現役から隠退していたといわれます。

 
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 永禄七年(1564年)、坂戸城近くの野尻池で【長尾 政景】と舟遊びをしている途中湖に転落し共に溺死。彼の死後に宇佐美氏は没落して枇杷島(琵琶島)城も廃城になった。

 あえて謙信に敵対したことのある政景を粛清するため、我が身を犠牲にして政景を葬ったと言われています。事故説、謙信の陰謀説など存在しますが、現在でも詳細は定かではありません。享年七十六歳。

 また、これ以前の永禄五年(1562年)、武蔵上尾原における北条氏との戦いで戦死したとも伝えられています。

 

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 江戸時代、紀州藩に仕えた軍学者【宇佐美 定祐】が、当時流行していた信玄の軍法と称する甲州流軍学に対抗して、謙信の軍法として越後流軍学を唱えた時、自身の先祖と称する宇佐美駿河守定行(うさみ するがのかみ さだゆき)という人物を謙信の軍師にして越後流軍学の祖であるとし、架空の軍師【宇佐美 定行】の名が広く知られるようになりますが、そのモデルは実在の武将である定満でした。川中島の合戦屏風にも、登場しています。


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最終更新日  2007年10月19日 01時33分07秒

2007年07月30日

◆長尾 政景
[ 名将列伝 ]    

◆長尾 政景

上杉景勝の実父。上田長尾氏の当主で越後坂戸城主。大永六年(1526年)、上田長尾家の当主【長尾 房長】の子として生まれます。【長尾 景虎】(上杉謙信)の遠縁に当たります。妻は謙信の姉仙桃院。上杉二十五将の一人として数えられます。

 天文十六年(1547年)、【長尾 晴景】と謙信(当時は長尾景虎)が対立すると、政景は晴景側につく。政景が晴景の妹・仙桃院を娶っていたことや、上田長尾氏と対立していた古志長尾氏が謙信側だったことなどからと考えられます。天文十七年(1548年)、晴景は謙信に家督を譲って隠居します。


 天文十九年(1550年)、謙信が家督を継いだことに不満を持って謀反を起こすが、天文二十年(1551年)、謙信の猛攻に遭って降伏した。これには、かつて謙信の父・為景と争い引退にまで追い込んだ自負があったからだといえますが、当時の状況はすでに謙信有利であったのを見切れなかったのでしょう。

 以後は謙信の重臣として活躍し、謙信留守中の春日山城を預かるなど一定の信頼を得ることになります。
 


 弘治二年(1556年)に家督を捨てて出家しようとする謙信を説得しておし止めるなど、様々な功を挙げた。しかしながら、その家柄とは裏腹に、上杉家での序列は高くなく以前の裏切り行為を謙信が重く見ていたからだと考えられます。裏を返せば、政景自身の能力を買っていたとも考えられます。上杉家家中の不安要素の一つであったことは間違いがないでしょう。

 永禄七年(1564年)、坂戸城近くの野尻池で溺死した。享年三十八。これには、舟遊びの最中、酒に酔っていたため溺死した説、謙信による暗殺説、【宇佐美 定満】による謀殺説などいくつかの説があるが、真相は分かっていない。 





【編集後記】

 凄い雨です。ここ2日間はなんというか、濁流のようでした。きっとこの天気が過ぎるといよいよ梅雨明けするのでしょうが、そうすると本格的に暑い夏がくるんでしょうねえ。決してビーチボーイズではない僕は、スタバで読書をする日々になりそうです。

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最終更新日  2007年07月30日 23時19分54秒

2007年07月28日

◆里見 義堯
[ 名将列伝 ]    

◆里見 義堯

 しかし、その北条家が今川・武田と三国軍事同盟を結ぶと状況は一変するのでした。後顧の憂いがなくなった氏康の関東侵略は、いよいよ本格化し、永禄三年(1560年)には、上総に侵攻した北条軍に久留里城を包囲されてしまいます。


 里見家にとって危機的な状況でしたが、【上杉 謙信】の北条追討軍の関東侵攻により、状況を打開する事に成功しました。嫡子【里見 義弘】は、上杉軍に合流し、小田原城攻略に参加しています。


 以後、上杉軍と歩調を合わせるように、関東で北条軍と戦う事になる義堯でしたが、永禄七年(1564年)第二次国府台の合戦に大敗北し、これまで支配してきた上総を失う事になります。


一時的な衰退を招きましたが、徐々に勢力を盛り返し、逆に侵攻してきた北条軍を三船山の戦いで打ち破り、見事旧領を回復する事に成功しました。さらに、水軍の増強や北条包囲網の外交をするなど、北条家と徹底的に戦う姿勢を貫きました。


 天正二年(1574年)、久留里城で亡くなります。享年六十八歳。義堯の死は、里見氏を大きく揺さぶり以後衰退をまねく遠因になります。器量に優れ、常に関東の副将軍になるという野望を抱いていたそうです。ともかく、彼生存中は、いかに強大な北条家とはいえ、関東統一は果たせないだろうと言われていました。


 里見家の無念は、やがて滝沢馬琴の南総里見八犬伝として、蘇ることになるのでした。
 




【編集後記】

 暑い暑すぎる・・・夏日ですねえ・・・海のあまり好きでない僕にとっては非常に厳しい季節です。さて、そろそろ新作を製作しようと考えております。来月にはいくつか完成させたいと思いますので、楽しみにしていてください!


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最終更新日  2007年07月28日 23時03分15秒

2007年07月22日

◆里見 義堯
[ 名将列伝 ]    

◆里見 義堯

しかし、その期間は長くは続きませんでした、氏綱と対抗するために先に記述した小弓公方【足利 義明】と手を結び、義堯は関東副将軍を自称し北条氏との対立を深める事になります。やがて、天文七年(1538年)上総の国府代において氏綱・氏康親子と戦う事になります。これを、第一次国府代の戦いと言います。



結果は、北条軍に敗れ、義明は戦死。義堯はその報に接するとすぐさま軍を返したため、敗北したとはいえ軽微の被害ですんだのである。冷徹で状況判断に優れた武将であったことが分かります。

 

以後、下総や上総に積極的に進出し、上総の久留里城を居城として里見家の最盛期を築き上げました。それに、対して宿敵である氏綱の嫡男【北条 氏康】は、里見氏傘下の国人領主に対し調略を繰り返し、大規模な離反が発生した。


この事態に対し義堯は、国人たちの抵抗を鎮圧し越後の【上杉 謙信】と手を結ぶなど、あくまでも氏康の侵略に抵抗する構えを見せるのでした。



【編集後記】

 ちょっぴり久しぶりの更新です。夏ということでTシャツの売れ行きが良いですねえ!!おかげさまで、嬉しい悲鳴です!そろそろ新作の構想も考えておりますので、そちらもぜひ楽しみにしてくださいね!

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最終更新日  2007年07月23日 01時16分56秒


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