|
|
|
|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
│<< 前へ │次へ >> │一覧 |
◆宇佐美 定満◆
宇佐美氏は伊豆宇佐美荘から出た一族。枇杷島城城主。駿河守。軍略に優れ、幼い頃の謙信を指導したとも言われています。上杉二十五将の一人。 定満は延徳元年(1489年)、宇佐美房忠の子として生まれます。下克上は、越後の地でも例外でなく父・房忠は越後守護・【上杉 定実】の復権を目指して【長尾 為景】と戦い、永正十一年(1514年)に戦死します。 定満は越後守護の上杉氏の一門である上条上杉家に仕え、天文四年(1535年)に【上条 定憲】と共に上条上杉氏の再興を目指して為景と戦います。為景を大いに苦戦させます。一時期は、為景を四面楚歌の状況までに追い込みますが、天文五年(1536年)に定憲が死去すると、戦う大義がなくなり為景に降伏した。 ------------------------------------------------------------------------ 為景の死後、その子の【長尾 晴景】、そして【長尾 景虎】(上杉謙信)に仕えます。天文十九年(1550年)、景虎に反抗した一族上田長尾家の【長尾政景】を屈服させるのに戦功があった。謙信の重臣として、上杉家で高い地位にあったようです。枇杷島殿と書状などには名が挙がっています。 後の川中島の戦いにおいては、武田のキツツキ戦法を見破り、戦を有利に運ぶ要因を作ったとも言われています。永禄年間にはすでに老齢で現役から隠退していたといわれます。 ------------------------------------------------------------------------ 永禄七年(1564年)、坂戸城近くの野尻池で【長尾 政景】と舟遊びをしている途中湖に転落し共に溺死。彼の死後に宇佐美氏は没落して枇杷島(琵琶島)城も廃城になった。 あえて謙信に敵対したことのある政景を粛清するため、我が身を犠牲にして政景を葬ったと言われています。事故説、謙信の陰謀説など存在しますが、現在でも詳細は定かではありません。享年七十六歳。 また、これ以前の永禄五年(1562年)、武蔵上尾原における北条氏との戦いで戦死したとも伝えられています。 ------------------------------------------------------------------------ 江戸時代、紀州藩に仕えた軍学者【宇佐美 定祐】が、当時流行していた信玄の軍法と称する甲州流軍学に対抗して、謙信の軍法として越後流軍学を唱えた時、自身の先祖と称する宇佐美駿河守定行(うさみ するがのかみ さだゆき)という人物を謙信の軍師にして越後流軍学の祖であるとし、架空の軍師【宇佐美 定行】の名が広く知られるようになりますが、そのモデルは実在の武将である定満でした。川中島の合戦屏風にも、登場しています。 ランキングに参加しております!クリックしていただくと、順位が上がり励みになりますのでぜひ、押してください!よろしくお願いします!
最終更新日
2007年10月19日 01時33分07秒
│<< 前へ │次へ >> │一覧 │ 一番上に戻る │ |