後に罪を許されて、再び黒田氏の家臣として仕え、豊前宇都宮氏との戦い、朝鮮出兵や関ケ原の戦いなどに従軍、関ケ原では三成隊の剛槍使い【大橋 掃部】を一騎討ちで破るなどの武功で大隈城一万六千石の所領を与えられます。「黒田二十四騎」や「黒田八虎」の一人に数えられた。
しかし如水の子・【黒田 長政】とは非常に折り合いが悪く、その確執から孝高の死後、又兵衛は一家揃って黒田家を出奔しました。朝鮮の役で、長政が敵将と組合川中に落ちたとき、又兵衛は傍にいたのにまったく加勢しなかった事や、関ヶ原での鉄砲隊長という職にありながらの一騎打ちなどが、確執の原因と言われていますが、本当に馬が合わないというのが理由ではないかと思います。
しかもこの時、長政は又兵衛に対して奉公構という措置を取ったため、又兵衛の智勇を惜しんで全国の大名(細川忠興・福島正則・前田利長・結城秀康など)から召し出しがかかったにも関わらず、いつも長政に仕官を邪魔され、家族とともに長い浪人生活を余儀なくされ、乞食の身に零落するほど生活が逼迫したといいます。
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最終更新日
2008年02月21日 08時46分13秒