【後藤 又兵衛】
話をもどします。徳川軍はすでに狭隘部を過ぎ、大軍を展開しようといている最中でした。大坂方の作戦は、すでに失敗しています。味方の到着が遅れているという状況でしたが、これ以上の進軍を許すわけにはいかないと感じた又兵衛は、進撃を遅らせる遅滞戦術をとります。
敵の大軍を少しでも食い止めるには、陣取りが勝敗を分けます。わずかな丘陵である小松山を敵軍より奪い取るより他に策はありませんでした。夜陰に乗じて「道明寺の戦い」の火蓋が切られました。霧の中、奇襲を受けた徳川方は【奥田忠次】らが討ち死に、進軍に混乱が起きます。一時的ですが又兵衛の作戦は成功します。
しかし、後方より伊達軍一万五千が援軍に入ると、状況が変わります。数にものを言わせる戦術に次第に追い詰められた後藤隊は、部隊としてのまとまりを欠くようになります。又兵衛は、その中にあって部隊を叱咤し巧みに指揮を取ります。
馬上で見事な采配を振る又兵衛が目立たないはずはありません。伊達軍との乱戦の中、【片倉 重長】(片倉景綱(小十郎)の嫡男)率いる鉄砲隊に銃撃され、腰を撃たれ歩行不能となった又兵衛は、部下に介錯を命じて自刃したといいます。享年五十六歳。
その後、大坂方の真田隊他の主力部隊が到着し、見事な野戦を演じます。その夜、幸村は自分の着陣が遅れた事で、又兵衛を死なせてしまったと、【毛利 勝永】の前で号泣したそうです。それほど魅力ある武将であり、戦況を左右する人物であったということなのでしょう。
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最終更新日
2008年03月17日 22時47分27秒