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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2013年04月02日
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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
 前回からの続き。

 ☆  ☆  ☆

 木梨精一郎、とよぶ男がいる。黒駒の勝蔵をつつき甲府城占領させようとした西郷腹心で東征軍の参謀に昇進していた。が戦は、巧くない。だから東北遠征は、大村益次郎の長州に指導権を奪われた。

 「口惜しい」と私学校生徒も彼が煽動したのだ。

 (ハヤト族は大和ちゅうとは、民族が違う。ひとまず薩摩ば独立させ、やがて九州を割拠し日本から分離させるしかない)と大山格之進は鹿児島県令として、集めた税金を中央政府へは送らず私学校へ提供。別府晋介、辺見十郎太、村田三介ら旧陸軍少佐を区長に任命した。

 「ハヤト国」として文武帝の頃に独立していた薩摩隼人の中にも、明治になると大久保利通のごとく新政府の実権を握って旧島津を思わぬ者もいた。川路の正之進もハヤトなのに逆に密偵を次々と送りこみ、火薬や武器を、大阪へ明治10年1月29日輸送替えしようとした。

 「大村益次郎はとうに殺したる。もう恐いものはなか」と私学校生徒へ演説。

 「虫よ・・・・・・・、虫よ、五ふし草の、根を絶つな。絶たば己も共、に死なん」と一万三千の薩摩健児は出陣した。さて、明治10年2月15日、熊本へ、宮崎とう天の兄の指揮する市民軍も参加し進軍。が、谷千城は必死になって熊本城を守った。

 「敬天愛人」の西郷の、遺墨から温厚な大人物に仕立てて、私学校の若者に坦がれやむをえず大久保新政府に対して出陣したと今はする。

 しかし皇国史観による教育用西郷論である。己の写真や肖像画の一切も焼きすてて、「サツマの為に」とハヤトとして出陣した。西郷軍政下に薩摩国は、独立した。

 そうなると明治7年2月の江藤新平の乱に組し佐賀県から逃げてきた者や明治9年の神風連残党も熊本から逃げこんできた。そして鹿児島は、「易世革命は西南から」と今の山口県までを含む新国家創立の意気に燃えていた。

 「樺山三円は、西郷の幼時からの友ゆえ熊本鎮台参謀長にせい」

 西郷の実弟従道をば、陸軍郷代理にした大久保はガンジガラメにし西郷を苦しめた。

 孫が丸紅専務になって棘腕をふるうだけあって大久保は、薩人を、みな敵にする愚は避け有栖川宮を征討総督。第一旅団長 野津鎮雄。第二旅団参謀 野津道貫。別働第一旅団長 高島鞆之助。別働第二旅団長 黒田清隆。別働第三旅団長 川路利良。別働第五旅団長 大山巌。みな薩人のみを選んだ。

 熊本城攻撃に敗れ田原坂で戦い三万の若者をなくし城山へ戻っても、まだ西郷隆盛は、「革命は最後まで死力つくすべきでごわす」と花々しく陣頭にたっていた。

 通俗史では、「東方に向かい頭を下げ切腹した」とする。実際は最後まで薩摩を守ろうと地元優先。桐野利秋、村田新八が倒れた後、腹と股を撃たれ別所晋介に肩をかり戦い、討死したのである。

 ☆  ☆  ☆

 というように、通説の西郷とは180度異なる像が浮かびあがる。この話を知ると、確かに通説では、西郷があまりにも善人にされ、神格化されているようにもみえる。

 例えば、西郷が米国のワシントンを尊敬していたという話があるが、この西郷の薩摩独立を目指した話から、ワシントンを尊敬していた理由がわかり、西洋に追従し中央集権国家をつくろうとする大久保と仲違いした理由もわかる。

 ワシントンはメーソンリーでもあるが、新興国アメリカのために、メーソンを利用した人物である。清濁併せ呑む人物といえる。

 つまり、西郷が、この話のように、島津の殿様に従い、あくまで地方分権独立国家をつくろうとしていたと考えれば、大久保の殿様を無視し、中央集権国家をつくろうとする方針と仲違いするのは当然の成り行きといえる。薩摩藩での置かれた立場の違いともいえるが、当時の主流は、殿様に従うのが常識だったので、西郷の方が常識的立場だった。

 勿論、このような見方だけが全てではないので、また違った観点からみるために、他に興味深いサイトから、以下に抜粋紹介する。

 ☆  ☆  ☆

大室寅之祐=東京明治天皇と現皇室その2

 1863年8月18日の政変により長州尊攘派、七卿とともに京都より追放される。そのため朝敵となった長州藩在京勢力は 三条実美ら七卿をともなって長州麻郷の大室家に落ち着いてかぞえ14歳になったばかりの寅吉を見て喜び滞在中非常に かわいがって日々をすごしたという。

 (1863年8月~9月頃)その後1863年寅吉は奇兵隊に参加。 1863年から1864年まで伊藤俊輔が大室家に立ち寄るようになった。

 1865年1月寅吉かぞえ16歳の時、錦の旗と南朝の首飾りをつけマンジュウを作りに行くと言って萩へ行き高杉晋作による功山寺挙兵に参戦。見事に勝利する。

 弟の庄吉のほうはそのため別府村の高城家にあずけられて別居する事になった。この庄吉が実家の大室家に帰ったのは 1866年10月末頃、俊輔が寅吉(玉)を麻郷から連れ出した後のことであった。

 萩の杉家(松蔭の実家)へ玉を移し 松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすことにした。(護衛は力士隊)この時期に麻郷では寅吉が行方不明になったというので大騒ぎになった。麻郷村の人間が手分けして探した。

 (庄吉はこのとき上関宰判所へ呼び出され大庄屋時政藤五郎の取調べを 受けて小役人たちに拷問されたが歯を食いしばってがんばりとおし、遂に行方を白状しなかったという。)

 そして、1866年10月末頃まで戸籍名大室寅吉は、このころ大室寅助と改名し一時、松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすため 俊輔が麻郷から玉を連れ出し萩の杉家(松蔭の実家)へ移し1867年3月下旬「玉」は田中光顕や力士隊に守られて萩から周防高森に移る。

 手紙がきて寅助(寅之祐)が 上洛するから大室弥兵衛が高森までおみまいにいったが寅助(寅之祐)にあえず、 麻郷へ帰ったという。それから「玉」は一時期通化寺の遊撃隊屯所に滞在していたが、岩国新湊から英国船で品川弥二郎や中岡慎太郎とともに上京して1867年4月13日、二本松の島津屋敷に入った。

 しかし新撰組に捕まりそうになったので1867年10月17日に寅助を寅之祐と改名し 亡命するため女装した「玉」が芸者風に変装した女官たちを連れて京都を脱出。

 西郷らの忍者部隊にまもられて英国船などにのり一同は1867年10月下旬、田布施町麻郷の大室家に帰ってくるのである。それが、「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて麻郷に帰ってきて・・」と 書かれた例の資料が出てきた話に通じる。(鹿島昇先生調べ)

 1867年11月倒幕出兵軍、海路進発11月初旬には薩摩の軍船2隻が麻郷米出浜に着岸し、兵800を率いて上陸してきた島津久光と、博多から同乗してきた三条実美ほかの五卿も合流した。(麻郷に島津久光の薩摩屋敷跡あり。)

 11月13日藩主島津忠義が自ら率いる薩摩藩主力3000は倒幕のため鹿児島から4隻の巨船にのって西宮に上陸。

 (1867年11月15日慶喜追討に反対してた坂本龍馬と中岡慎太郎が伊藤博文、山縣有朋、井上馨、3名によって暗殺される。)

 11月25日長州藩は近代的装備の第一陣1200の兵を藩船7隻に 分乗させて三田尻を発し第二陣1000人の部隊は陸路西宮へ進軍した 。

 先の島津忠義軍と西宮で合流し大洲藩は勤皇藩として西宮の藩邸に長州薩摩軍を無血上陸させるなど貢献した。そして一同は鳥羽伏見の戦いのため準備をした。大室寅吉が大室寅助、寅之祐と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。

 このような倒幕軍の 進発予定が麻郷に届いて「玉」および奇兵隊一条勝子以下三条ら五卿、島津久光、薩長同盟幹部一同は打ちそろって1867年12月9日、田布施町麻郷井神の高松八幡宮にて 「王政復古の大号令」を発し新調の錦旗を掲げる官軍(薩長諸隊)の出陣式を行った。

 (だから通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。)

 (今でも麻郷には三条実美らが滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。)

 午後の小御所会議もそうで、通史にある京都御所での話ではない。このあと12月下旬彼らは室津(上関町)から英国船など2隻に乗船し薩摩の軍船2隻と合流し、おくれて京都をめざした。

 鳥羽伏見の戦いの時、明治天皇自ら閲兵したというのはウソで戦い中大室寅之祐は大阪湾に浮かぶ軍艦の上に立っていた。(護衛は第二奇兵隊)鳥羽伏見の戦い中(1月3日)、慶喜軍が砲撃してくるから大阪に上陸できなかったという。

 その後、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍勝利。このとき寅之祐が大阪に初上陸。(大阪に明治天皇上陸の記念碑あり。)一同は京都御所をめざす。 1月8日慶喜は松平容保、松平定敬ら重役連と軍艦開陽丸にのり江戸に逃げ帰った。

 1月10日のあけがた京都御所にいた睦仁(京都明治天皇)は御所を脱出。鹿島昇が 京都明治天皇は暗殺されたと書いてたがウソで維新後、京都明治天皇は比叡山方面の某寺で僧として生き延びた。同日入れかわるようにして大室寅之祐が軍隊を引き連れ京都御所に入った。

 旧暦1868年(慶応4年)1月10日から1月15日までの間人事の一新が京都御所で行われた。

 この一新が「明治維新」の語源となる。(手柄のあった奴に論功賞をあたえた。) 慶応4年1月15日、大室寅之祐が新明治天皇として正式に御所ですりかわって即位。15日以降の明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。

 ☆  ☆  ☆

 というように紹介した話は明治天皇替え玉説の話で、幕末は各藩、幕府が私闘を繰り広げていたことがわかる。そこには、現在のような統一国家の概念はほぼ皆無で、薩摩は薩摩国を、長州は長州国を、幕府は幕府国を打ち立てることに血眼になっていたことがわかる。

 結局、殿様が上位につくと、統一国家の呈をなさないので、薩摩の大久保と、長州の桂は、島津と毛利の両殿様を体よく隠居させ、自分たちの言いなりになる幼少の明治帝を、統一国家のシンボルとし、日本が統一国家になったことを示すために、財政が破綻しているにも関わらず、対外戦を始めたのである。

 西郷は、その流れにあくまで反対し、西南戦争となり、朝敵の汚名を着ることになるが、西郷を利用した大久保の策略だと考えるとわかりやすい。しかし、大久保の策略は、薩摩に露見し、長州に利用され、暗殺されてしまう。

 このようにみていくと、明治の元勲たちの権力闘争の醜悪さだけが浮かび上がるので、通説のような美談が、教えられてきたのだろう。大本営発表の伏線は明治からできていた。学校で習う日本の歴史ほど如何わしいものはない。それも暗記だから、一種の洗脳で、始末が悪い。





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Last updated  2013年04月03日 09時43分41秒
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