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カテゴリ:比較文化論101
前回の日記を書いて以来、いろいろな考えが頭の中を走馬灯のように走り抜けて行きました。久々に、自分の過去へ遡っての脳内旅行にでも出かけてみますか。
その昔、私は世間の皆さんと比べて、いささか長めに「学生」をやっておりました。 今は、ごくありふれた日本人家庭のおか~さん・兼・送迎運転手@米西海岸、そんなところです。ま、自分としてはそれよりも自称・素人心理研究家+精神世界のワンダラ~、という側面の方が中核部を占めているような気がしますけれど...。 元々がボヘミアン気質とでも言いましょうか(←物は言いよう...。)、大雑把で、束縛を嫌う人間です。 なので、 「長い文章を、理路整然と、業界のフォーマットにきちっと沿うような形で書ける」 という能力の持ち主には、無条件に敬礼!!!したくなります。そうした能力を(努力の末に、もしくは優れた遺伝子の助けによって)獲得した方って、純粋に素晴らしい!!!あんたはエライ!!!...と思います。大真面目に。 この際だから、はっきり言ってしまいましょう。 私、ずーーーっと長い事、 「学術論文をまともに書ける人」になりたかったのです。 今でもたま~に、いつかそうなれたら嬉しいなぁ~...なんて、ちょっと未練がましく思うことがあります。その頻度は徐々に減りつつありますけどね。(年のせいか?) いわゆる「エッセイ風」の駄文、くだらない感想文、それから日記に手紙文...といった類の、フォーマットにはまらない、無手勝流な文章はいっくらでも長々と続けられます。いくらでも。 でも、【学術論文】となると、どういうわけなのか、身体も脳味噌も硬直化してしまい、筆が一向に進まない。金縛りにあったような、という表現そのものの状態に陥るのでした。 推測するに、私はきっと、前世のどこか(ヨーロッパ圏内希望)で学者業をやっていて、くどくどと余計なことを細かく書き過ぎたため、当時の為政者や教会の上層部などの怒りに触れてしまい、それが原因で命を落とすようなことがあったんじゃないでしょうか(笑)。 ...そんな前世をでっち上げたくなる程、あの頃の私は「理詰めで書く」&「他の人が書いた、面白くもない先行論文・先行研究をコツコツと満遍なく読む」ことが大嫌いでした。 【あのー、これ、研究者の卵としては、言語道断!あり得ない!なんですけど~。】 でも、論文の締切日を前にして、学生仲間のみんながそうした金縛り体験をするか??? と言うと、勿論、そんなことは決してありません。だって、「長々と学生やりたがる連中」っていうのは、元々論文を書くという作業がちっとも苦にならない、そんな人が大部分ですから。 (持てる能力や適性を無視して、分不相応な世界に入り込もうとした当時の私は、傲慢と劣等感のカタマリでした。天は、「金縛り」という形でもって、そんな私の生き方に警告を発していたのですね。今だからわかります。) 友人の中でも、特に秀才の誉れが高かった一人(英語圏出身)は、こう言っていました。 「締め切りが近付くと、論文執筆のために揃えたこっちの研究書、あっちの論文が段々と憎たらしくなってくる。そして、『よくもここまでつまらない文章で、自分の時間を盗んでくれたなっ!何としても、仕返ししてやらねば、この怒り、治まらないっ!!!』...といった具合に、徐々に自分を奮い立たせていく。 【←うぅむ...これって、試合開始前、戦闘意欲を徐々に高めていくボクサーのようですね。】 先行研究? うん、もちろん、自分の専門分野の【権威】と言われるような学者の仕事には満遍なく目を通すよ。だって、『えい!これでもか!これでもかっ!』と、自分なりの論旨展開でもって、その【権威】の言い分をバッサバッサと切り捨てるのが痛快だからね。」 これを聞いた時、「私には全くあり得ない発想だぁ...。」と、ただ、ただ、驚くことしかできませんでした。【権威】と呼ばれる人に、一矢を報いるのが痛快、とはねぇ...。 それに引き換え、つまらない論文や本は「不都合な真実☆」と軽視し、期限ギリギリまで接触を先延ばしにしようと試みる(←それがマズイんだってば!!!)私・黒犬べーやん...。 要するに、「学者」「研究者」という仕事には、少しも向いていなかったのです。大学卒業後の進路を決める時、 「好きな本がたくさん読めて、それをきっかけとして色々な人と語り合えることができるような、そんな仕事がしたい。」 で、出した結論。「大学の先生がいいんじゃない?」...このお目出度さ加減には、父ちゃん情けなくって涙出てくるわ(←あばれはっちゃくの東野英心さん風で)。 前回書いた通り、 「長文をガンガン読めるようになると、いいことがいっぱいある!」 この信念は変えるつもりはないです。実際、私の人生にもいいこといっぱいありましたし。 でも、「長文を多読できる能力 イコール 知力が高い」 の図式は、必ずしも成り立たないですよね。それは強調しておかねばなりません。 だって、ロマンス小説が大好きで、月に二十冊は軽く読んじゃう、というその辺のおばちゃんが「知力高い」とは、誰も思わないでしょ?量を読めばいい、ってものでもないのです。読み物の質はちゃんと選ばないといけません。 「詩人のひらめき的知性」と呼ばれる、知性のはたらき...。こちらだって、世界の歴史・日本の歴史を広く見回してみると、随分多くの貢献を果たしてきました。芸術、特に短めの詩歌などは、こうした知性無しでは生き延びてこられなかったでしょう。 そう。知性にも、いろいろな形があるのです。一概に、「こっちが上!」とは言えませんよね。 そうは言っても、【詩人のひらめき的知性】だけではど~にもこ~にも勝負できない、そういう分野は、現代社会に数多く存在します。これは厳然たる事実です。残念ながら。 学問・研究の世界はまずその典型ですね。国際間の政治や、ビジネス上の駆け引きも、また然り。言葉の力でもって相手をねじ伏せることができない人は、「敗者」となります。 将来、海外へ飛び出して、現地の学生に混じって専門的な勉強をしたいと思っている方。そういう若い方ならば、外国語でもって読み、書き、意見を戦わせる力は、その後の全人生を左右すると言っても過言ではありません。 少しでもそうした進路に進む可能性のある人(今後、大量に出てくると思います。)には、、 「できるだけ若いうちから、長文を大量に読みこなせるだけの力を付けておいたほうがいいよ。まずは日本語の本で基礎体力作りをしておこうね。外国語はその後で!」 って、言葉をかけるでしょうね。 もし、自分はあまりそういった事が得意でない、と気付いても、それはそれ。あなたには恐らく他に得意なことがあるでしょう?そちらにエネルギーも、時間も、傾ければいいだけのことです。【長文読解+論理的思考+長文執筆】の陣営とは全く反対の方向で、自分の才能を見つけましょうよ。 私みたいに、いつまでもウジウジと「あれもできなかった、これもできなかった...。」なんて引きずるなんて、ナンセンスです。悩んでいる暇があったら、他に自分には何ができるどうか、それを積極的に探した方がいいんじゃないでしょうか。「書を捨てよ、町へ出よう」と言い切った寺山修司は偉大だわ(笑)。さすが詩人。 さて。タイトルに掲げておいて、ここまで引っ張るか~!?(笑)と思うのですが、そろそろ出すとしましょう。 元・小学校の図工の先生(しかも数学大好き!)でもあった、画家の安野光雅さんが、面白いことをおっしゃっていたので、それを最後に紹介したいと思います。 【送料無料】はじめてであうすうがくの絵本(1) 【親子で愛読しているシリーズです。親戚の子ども達にもプレゼントしました。】 対談の相手は、教え子であり、数学者でもあり、故・新田次郎&藤原てい夫妻の(二人とも作家)ご子息でもある、藤原正彦さんです。 【送料無料】世にも美しい日本語入門 「安野 むかし教員をやっていた頃、ローマ字の教科書があって、私にはすらすら読めないし、こんなものやらない方がいいと思っていました。それなのに、子ども達はなんと、ローマ字で印刷したものを、平仮名を読むのと同じ速さですらすらと読むんです。 『本を読む』ということは、まず運動神経なんだな、とつくづく思いました。 小学生のような柔軟な時代に、目の運動神経で文字を早く、いっぺんにパッと読めるように慣れていくということが大事ですね。慣れていない子は一字一字読むから遅いんです。でも慣れれば日に日に、どんどん早くなっていきます。」 (安野光雅・藤原正彦「世にも美しい日本語入門」、ちくまプリマー新書、2006、p.28.) ...この一節で、パッと目の前の霧が晴れたような気がしました。 運動神経! そうか!アメリカで、「読め、読め、読め!」をさかんに推奨する先生方は、そうした「読書は運動神経」という説の信奉者だったのですね。な~るほど! それから、少し後に登場する藤原先生の発言には、まさに「我が意を得たり」の思いでした。 「藤原 私が安野先生に教わったのは昭和二十年代末ですが、はるかに[黒犬べーやん注:小学校の国語の時間数が]多かったですね。国語が二時間ある日もありました。いまは二十年前の一九八〇年に比べても半分です。このように急坂を落ちるように減っています。 それに伴って思考力も落ちていく。情緒力も落ちていく。そのうちに人を深く愛すことすらもできなくなってしまうのではないでしょうか。それくらい落ちてきています。(...)」 (前掲書、p.31) 「ちくまプリマー新書」は、基本的に中・高生を読者層と考えているようですが、むしろこれは大人の方、特に子どもと関わる機会の多い方にこそ、ぜひ、読んでいただきたいですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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