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2011.02.04
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カテゴリ:歴史・偉人
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則天武后(623?~705)

○略歴

 武則天(ぶそくてん)は、唐の高宗の皇后。中国史上唯一の女帝となり、武周朝を建てた。日本では則天武后(そくてん ぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。一方最近の中国では、彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。幼名は媚娘。諱は武照。乳児としての武照の容姿が極めて美しかった。将来の皇后を期待した武照が幸せな生活を送ったのは父が死去する8歳までだった。父の亡き後、媚娘は異母兄弟に虐げられる生活を送ることとなった。少女期の武照は漆黒の長髪、特徴的な切れ長で大きな目、雪のような肌、桃色の唇、薔薇色の頬、大きな胸、見る者を魅了する媚笑、聡明な頭脳を備えていたと史書に記録されている。14歳で太宗の後宮に入り、当初は太宗の寵愛を受けていた。しかし、唐朝に災禍をもたらすことを恐れた太宗は次第に武照を疎遠にしていった。武照は太宗の子である李治(後の高宗)を籠絡、李治は妄信的に武照を寵愛するようになる。太宗の崩御にともない道教寺院(道観)で修行することとなった。655年(永徽6年)6月、王皇后らは武照を呪い殺そうとした。その後高宗は王皇后を廃し武照を皇后に立てた。皇后となった武則天は病気がちな高宗に代わり垂簾政治を行った。出自を問わない才能を発掘する一方で、武則天は娘の太平公主や薛懐義・張易之・昌宗兄弟といった自身の寵臣、武三思・武承嗣ら親族たる武氏一族を重用し、その専横を招いた。漢代の呂后、清代の西太后とともに「中国三大悪女」の一人に数えられる。










●晩年考

 晩年の武則天は病床にあることが多くなり、指導力の衰退が顕かになってきた。この状況に唐復活の機運は高まり、神龍元年(705年)、宰相・張柬之により武則天は譲位を迫られ、中宗(高宗との間の子)が復位し、国号も唐に復する(一時「周」としていた)こととなった。しかし武氏勢力は李氏を始めとする朝廷要人と密接な姻戚関係を構築していたこともあって、唐朝再興に伴う粛清は部分的なものであり、太平公主(娘)や武三思など武氏勢力の多くは朝廷内での地位を保持した。そのため武氏勢力との宥和の必要性もあり、唐王朝は退位した武照に則天大聖皇帝の尊号を贈り、その後まもなく武照は死去した。706年(神龍2年)5月、乾陵に高宗と合葬された。乾陵の地下宮殿には貴重な文物が当時のまま残っていると期待されているが、発掘の予定はない。





奉先寺大仏(洛陽郊外、高宗の発願で造営、像の容貌は武則天がモデルと言われる)



 ★皇后になった武則天は監禁されていた王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きにした後、生き返らないように四肢切断の上、「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込ませた。王と蕭は酒壷の中で数日間泣き叫んだ後絶命したという。・・・残忍で、恐ろしいですねぇ。毛沢東夫人で文化大革命を指揮した江青にも通ずる?






 参考:Wikipedia








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最終更新日  2011.02.10 05:21:07
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