よしの こうのてっとう
芳 野 河野鉄兜
さんきん きょうだん よる りょうりょう
山禽 叫断 夜 寥寥。
かぎ な しゅんぷう うら いま しょう
限り無きの 春風 恨み未だ 銷せず。
ろが えんげん りょうか つき
露臥す 延元 陵下 の 月。
まんしん かえい なんちょう ゆめ
満身 の 花影 南朝 を 夢 む。
詩文説明
真っ暗やみの中に、しじまを破って山鳥が一声高く鳴い
た。延元陵(後醍醐天皇)の辺りに吹き寄せる春風は
生暖かく吹いて、後醍醐天皇の恨みが未だに籠っている
ように感じられる。朧月の明かりがこの陵下を照らす中、
せめて今宵一夜でも御霊をお慰め申そうとの露天に寝
ころび、全身に桜の花影につつまれながら、いつしか
うつらうつらと眠りに入り、南朝時代の夢を見ていた。
※延元陵とは御醍醐天皇の御陵を指します。
右側の後方は 金剛山寺蔵王堂。
※「注」この風景は詩文の内容に合わせて合成したもので
ありまして実際とは異なります
吉野朝皇居跡と御醍醐天皇像
山一面の桜 吉野山。 右図は、(後醍醐天皇の不思議な夢と楠木正成の登場)
紫宸殿の庭先に常磐木の葉が茂っている。特に南側の枝が勢いよく、その下に大臣以下の高官が居並んでいる。
南に面した上段に畳を敷いたお座席があるが誰も座っていない。そこに童子が現れて涙ながらに「日本国中、束の間
も御身お隠しなさる場所がございません。あの木の陰の南
に向いたお席が、あなたの為に設けられた玉座でございす」といって天空遙かに飛び去ったところで夢から覚めた。「木に南と書けば『楠』とう字になる。その木陰に向かって座れ というのは、楠という字にゆかりのある人を召して国を
治めよという事に違いない」とこの夢を解かれ寺の僧に尋ねると河内の国(大阪府)の金剛山の麓に楠木多門兵衛正成という武名を謳われた者がいるとのこと、正しく夢のお告げの通りだと喜び呼び寄せることになった。楠正成を尋ね出し、楠木正成は感激して参上した。
(まさしく太公望の再来のようですね。中国殷時代の「覆水盆に返らず」の言葉を残した呂尚(太公望)は周の文王が父の太閤がいつか聖人が現れて周の国を興してくれる
と云っていた。ある猟に出る時占いにより、「覇王の輔ならん人物と出会う」とでた。渭水の畔で釣りをしていた老人と出会い、話して行く内にこの人が父が求めていた
人物に違いないと悟り「どうか私の師父となって導いて下さい」と頼み込む。このことで、呂尚は太公望と呼ばれるようになった。現在釣り人の事を太公望と云ってますが、
この故事から来たものです。呂尚は文王の師となって周の繁栄をもたらした。 後醍醐天皇の夢と良く似てますね)
奈良吉野の如意輪寺にある河野鉄兜の詩「芳野」の掛軸。
右は神戸兵庫区にある湊川公園にある楠木正成像。
作者説明
幕末の漢詩人。名は羆。字は夢吉。通称絢夫。号は鉄兜・秀野。播州(兵庫県)網干余古浜に医科河野通仁の三男として生る。15歳にして一夜百詩を賦し神童と称せられた。
吉田鶴仙・梁川星巌に師事。24歳で江戸に出、諸家と交わり頭角を現す。 一時才名と轟かし、誇り礼を失するところが有った為、酒の席上議論となり剣を 抜いて襲われそうになったが宗像蘆屋が身を以て庇い危機を脱したことも有った。
以後、讃岐・大阪・山陽・九州に遊び、木下韓村・草場はい川・広瀬淡窓らを歴訪し帰藩、家塾を開いた。医家よりも詩人として名高い。43歳没。