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「新戦略」を徹底検証する!! 【新若頭補佐のプロフィール】 大勢力の中で 磨かれた異能の親分 宅見組、山健組、弘道会という大組織で早く から頭角をあらわした実力派の輝かしい軌跡 今回、若頭補佐に昇格したのは入江禎・二代目宅見組組長、高山清司・二代目弘道会会長、橋本弘文・極心連合会会長の3人である。 入江若頭補佐は昭和19年12月9日生まれの60歳。出身は愛媛県宇和島市で、地元の高校を中退後、大阪に出て賭場に出入りしていた時に、当時宅見組長が所属していた山口組系福井組の関係者と知り合い、その縁で組員になったといわれる。昭和53年1月に宅見組長が福井組若頭から山口組直参に昇格した際に、宅見組長の盃を受け、いきなり宅見組若頭補佐に登用されている。 一見、温厚そうに見えるが、松田組との「大阪戦争」で報復戦に打って出て、一和会との「山一抗争」でも配下の組員が一和会系幹部を射殺するなど、武闘派としても知られる。 宅見組で本部長を務めた後、昭和59年に若頭となり、当時、四代目山口組若頭補佐として、さらに平成元年の五代目体制発足後は若頭として多忙を極めた宅見組長に代わって宅見組の要役として対外的な交渉など組運営を実質的に仕切ってきたという。宅見組が急速に勢力を拡大させていったのも、山口組若頭の率いる組織であるというブランドだけでなく、入江組長の功績が大きかったというのが、関係者の一致した見方だ。宅見組長はその実績を高く評価し、何度も直参昇格を持ちかけたが、入江組長は「ずっと親分についていく」とこれを固辞したと伝えられる。 平成9年8月、宅見組長が中野会ヒットマンに暗殺されると、跡目は難航するとの見方が出ていたが、「四十九日法要」直後の宅見組緊急総会で入江組長の二代目継承を内定。山口組本家も最高幹部会でこれを承認し、同年10月25日に継承式、盃直しを行い、12月に渡辺五代目から盃を受け直参に昇格した。中野会に対する報復攻撃でも系列組織が武闘派ぶりを見せ付けている。 直参昇格後の平成13年12月には総本部当番責任者に登用され、幹部候補として注目されていた。 高山若頭補佐は昭和22年9月5日生まれの57歳。地元・愛知県の出身で、昭和42年に当時、名古屋で強力な地盤を築いていた弘道会の前身である弘田組傘下の有力組織だった佐々木組に加入。佐々木組若頭を経て昭和51年に佐々木組が菱心会と改称すると理事長に就任、同会傘下に高山組を結成し、さらに弘田組の直参となった。 当時、名古屋を中心とする中京地区は地元独立組織と弘田組が激しい抗争を繰り広げ、司・弘田組若頭も長期服役を余儀なくされているが、高山会長もまたこの過程でめきめきと頭角を現し、昭和55年に弘田組若頭補佐に登用された。 四代目の座を巡る暗闘の過程で山口組から一和会が分裂した昭和59年、弘田武志組長が引退を決意、司会長がその地盤を引き継ぐ形で弘道会を結成すると、引き続き若頭補佐を務めると同時に、渉外委員長を兼任した。さらに平成元年に五代目体制が発足し、司会長が五代目山口組若頭補佐に就任するのに前後して、弘道会若頭となった。 司会長は当時、「若頭補佐として本家のことで忙しく、(弘道)会のことはすべてカシラに任せている」と周囲に語るなど、全幅の信頼を置いていたという。その後、弘道会が急速に勢力を拡大、組員4000人を超え山健組に次ぐ勢力となったのも、高山会長の手腕によるところが大きいという。 水面下で司若頭誕生に向けて大きく動き出していた今年初め、高山会長は自ら率いる高山組を後進に譲り、自らは総裁となった。その直後の3月、今度は司会長の跡を次いで二代目弘道会会長に就任、翌4月に直参に昇格している。同時に司若頭は二代目弘道会総裁となり、弘田組組長として引き続き執行部の一翼を担うこととなり、5月に若頭に就任したのだった。そうした意味では、司若頭の誕生と高山若頭補佐の人事は一体のものであったといえよう。 橋本若頭補佐は昭和22年1月8日生まれの58歳。昭和38年ごろに当時、大阪の独立組織であった南一家吉田組に加入したが、吉田組解散を機に自ら橋本組を結成。「喧嘩に負けたことがない」という武闘派ぶりが注目され、昭和51年に子分を引き連れ初代山健組に加入した。 山本健一初代が死去し、渡辺芳則二代目体制になると、自らの組織を極心連合会と改称、その力量が高く評価され、若頭補佐、若頭代行を歴任。平成元年に渡辺組長が山口組五代目となり、桑田組長の三代目山健組体制となると若頭に就任している。 山健組勢力の拡大に余り関心を示さなかった山本初代に代わり、山口組内で最大勢力にまで押し上げたのは、渡辺二代目、桑田三代目、そしてこの2人の組長を最高幹部として支えてきた橋本会長の力量によるところが大きいというのが、周囲の一致した見方でもある。また、山一抗争では報復戦に兵隊を送り込むなどイケイケぶりが目立つが、経済的手腕も秀でたものがあり、渡辺五代目の信頼も厚い。 桑田組長が銃刀法違反事件の共謀共同正犯の罪に問われ社会不在となると、文字通り留守を預かる「司令官」として活躍、さらに山健組勢力を拡大し、現在の7000人体制を築き上げた。桑田組長の有罪が確定すると、平成15年5月にその後を睨んだ山健組の組織改革が断行され、橋本会長は初めて設けられた組長代行のポストに就き、組長不在の山口組最大勢力を切り盛りしてきた。 かなり以前からその実力が認められ、直参昇格の噂が絶えなかったにもかかわらず、直参昇格が今年4月となったのは、桑田組長が社会不在になったことで、山健組をまとめていく必要があったためとみられている。満を持しての直参昇格、そして若頭補佐昇格といえ、巨大組織をまとめてきた手腕が、新執行部の中でどう生かされるのか、注目されている。 今回の若頭補佐人事で注目されているのが、3人の出身母体である。入江組長の二代目宅見組は前若頭が率いてきた組織であり、二代目体制になる際に、後に直参となった天野洋志穂組長率いる天野組が独立したことなどから、一時より組員は減ったとはいえ、山口組内でも有数の勢力である。 そして高山会長の二代目弘道会、そして橋本会長の所属していた山健組は、山口組一、二を争う勢力を有しているのは言うまでもない。 「長年にわたって若頭不在が続き、今や当代も休養中ということもあって、新執行部の当面の課題は組織固めだ。となれば、派閥のバランスを考えた今回の人事はまさに絶妙のものといえる。とりわけ高山会長、橋本会長は直参に昇格してわずか2ヶ月での執行部入りで、これまでの最短記録であった渡辺五代目のそれを大きく上回っている。まさに迅速、かつ大胆な人事だ」(事情通) さらに、これまで69.4歳だった執行部の平均年齢が、67.0歳にまで若返ったことも注目に値するだろう。 ※ 直参昇格の噂があった井上邦雄・山健組若頭(四代目健竜会会長)ですが、P.27に「井上若頭が桑田組長の養子となり、戸籍上も実子となっていることもあって、『山健組の跡目として残したのではないか』との観測が広がっている」とありました。 どうなる五代目山口組若頭(2005年02月01日) http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200502010000/ 五代目山口組の若頭が決定した(2005年05月11日) http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200505110000/ 山口組若頭とは何か(2005年06月06日) http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200506060000/ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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