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テーマ:世界を動かす国際金融(373)
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イングランド銀行や同銀行に特許状を与えたウィリアム3世に関して、少し古い本をいくつか引っ張り出して再読していた。やはり『民間が所有する中央銀行』で米連邦準備制度について詳しく報告した著者ユースタス・マリンズが、イングランド銀行についても詳しいように思えた。イングランド銀行について未読の人は次の日記から先にどうぞ。 イングランド銀行設立から見えてくるもの(2005年07月29日) http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200507290000/ マリンズの『民間が所有する中央銀行』は過去に何度か取り上げているので、興味のある人は過去の日記をお読み下され。ついでなので日本銀行に関する日記もURLを示しておきましょう。 連邦準備制度(2004年08月16日) http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200408160000/ 中央銀行の役目は、銀行システムを監視し、貨幣量を調節することである(2004年08月19日) http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200408190000/ 連邦準備制度(FRB)や、ヴォルカー元FRB議長について(2004年08月31日) http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200408310000/ 引き続き、連邦準備制度について…(2004年09月01日) http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200409010000/ ジェームス・べーカー元米財務長官・国務長官(2004年10月16日) http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200410160000/ 日本銀行の総裁とか日本銀行について(2004年08月28日) http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200408280000/ 日本銀行について少し…(2004年12月27日) http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200412270000/ さて、マリンズの『世界権力の構造の秘密』からイングランド銀行とウィリアム3世に関する部分を抜粋引用する。「※印」の部分は私である。なおこの本は、日本語版が1995年に出版されているので10年前のものであるが、原書は1992年に米国で出版されたものとのこと。これは第二版なので初版はもっと古い(84年ころ)と思われる。10年以上も前に出版された本書は、いま再読しても興味深い内容になっている(細部の検証は必要だと思うけど、引用部分で私の認識と大きく外れる個所はない)。 ● 裏切り者たちによる不名誉な「名誉革命」 ロスチャイルドが関与している他の企業もそうであるが、イングランド銀行は1694年の創立以来ずっと国際的陰謀とスパイ活動の中心となってきた。ただし、ロスチャイルドがイングランド銀行と関わりをもつにいたるのは、ようやく1812年のことだった。ワーテルローの戦いでイギリスが敗れたという根も葉もないうわさが、ロンドン証券取引所になぜかパッと広まると、これを利用してネイサン・マイアー・ロスチャイルドは財産を6500倍に増やしたのである。 イングランド銀行はもともと革命から誕生した。オレンジ公ウィリアム三世が国王ジェームズ二世を王座から追放した革命(名誉革命)である。イングランド銀行の特許状がウィリアム三世によって授与されて以来、国王に対する反乱は一度も起こっていない。革命には不可欠の資金源を支配下に収めてきたので、王室はずっと安泰だったのである。 国王チャールズ二世(在位1660~1685)はバッキンガム公爵(ジョージ・ヴィラーズ)以下の5閣僚(クリフォード、アシュレー、バッキンガム、アーリントン、ローンダーデイル……その名前を組み合わせるとCABAL(陰謀)ということばになる)のおかげで不安定な地位をなんとかもちこたえたが、陰謀を意味する新しいことば[CABAL]をつくりだしてしまった。 オラニエ公ウィレム1世(1533~1548)はサクソニー家のアン、ブルボン家のシャルロット、コリニー家の王女らと結婚すること数度におよんだ。 今日、ヨーロッパを支配する各王室および、領国をもたない王室もすべて、オレンジ公ウィリアム三世の直系子孫である。すなわち、オランダのユリアナ女王、デンマーク女王マルガレータ、ノルウェーのオラフ五世、スウェーデンのグスタフ、ギリシアのコンスタンティン、モナコのレニエ大公、ルクセンブルク大公ジャンなどである。 ※ アンソニー・サットンも、「ヨーロッパの王族はすべてサックス=コーバーグ=ゴータ家に起源があり・・」と言っていた。 シュローズベリー卿(チャールズ・トールボット)はチャールズ二世からもジェームズ二世からの重用されていたのに、革命で中心的な役割を果たした。1668年トールボットは1万2000ポンドを携えオランダに赴いてウィリアムを支持し、ともに帰還すると、国務大臣に任命された。シドニー・ゴドルフィンはジェームズ二世の最後の忠臣の1人であったが、ウィリアムのイングランド侵攻に先だって、サンダーランド公爵やポーツマス公爵夫人とともにウィリアムに通じ、のちにウィリアムによって大蔵省の長官に任命された。ノーサンプトン伯爵でロンドン主教のヘンリー・コンプトンはジェームズ二世によって失脚の憂き目に遭った。このためウィリアムに対するイングランドへの招請状に署名した。1688年にはもとの地位への復職がかなった。息子のフランシス・コンプトンは玉璽尚書となった。初代マールボロ公爵のジョン・チャーチルは、1688年の8月にはオレンジ公支持の態度を明らかにしていた。ところが一方では、ジェームズ二世の疑惑を鎮めるため、1688年11月10日、新たに忠誠宣誓書に署名している。1688年11月24日の革命にさいしては、オレンジ公ウィリアムの勢力に加担した。 ※ マールボロ公爵はウィンストン・チャーチルの先祖で、チャーチルの義理の娘がパメラ・ディグビーである。 ウィリアムはジェームズ二世の娘メアリーと結婚していて、正当なイングランド王位継承権をもっていたが、ジェームズ二世が王位にあるあいだは、権力を握ることは無理だった。そこで、1万名の歩兵と4000名の騎兵を引き連れて、イングランドに侵入したのだったが、大王国を征服するにしては小さな兵力であった。ウィリアムにつき従ったのは、チャーチル、ベンティンク(初代ポーランド伯爵)、シュローズベリー伯爵、ポルワース卿(今日子孫の1人はアングロ・アメリカン銀行の主要メンバー)だった。ジェームズ2世はフランスのルイ14世の宮廷に逃れ、廃位を宣言された。これがのちのイギリスの歴史で「名誉革命」と讃えられた事件である。 1694年ウィリアムはイングランド銀行に特許状を与えた。この時からいまにいたるまで、革命は一度も起きていない。英国のいかなる政治勢力も、そうした挑戦を支援できるだけの資金を集めることができなかったからである。 ● トン税法のペテンによってイングランド銀行が誕生した ウィリアム三世のもとには、イングランド側にも国王ジェームズ二世から寝返った支持者がいたが、アムステルダムから彼らにつき従ってイングランドにやってきた一団の強欲な金貸したちもいた。この連中はウィリアム軍への物資納入業者でもあった。ウィリアムが公務として最初にやったことの1つが、ソロモン・デ・メディナをナイト爵位に叙任することだった。マチャドはスペインで、ペレイラはオランダで、ウィリアム軍に糧秣を供給した。メディナが物資供給したのは、フランダースのマールボロ公だった。ヨセフ・コルティソトはスペインでゴールウェイ卿に物資を供給し、アブラハム・プラドは7年戦争のとき英国軍に物資を供給した。 ※ ソロモン・デ・メディナ、マチャド、ペレイラ、ヨセフ・コルティソト、アブラハム・プラド、これらの人物はユダヤだと思われ。 ウィリアム三世の治世でもっとも重要な事績は、1694年のイングランド銀行への特許状の授与であった。ただし、王の伝記作者たちのほとんどがこの顕著な事実を見落としている。当時、紙幣発行つまり通貨発行の権限をもつ中央銀行という概念は、すでにヨーロッパで根を下ろしていた。 アムステルダム銀行がはじまったのは1609年で、銀行の会員たちはウィリアムのイングランド侵攻を支援した。ハンブルク銀行は1619年に特許状を与えられた。スウェーデン銀行が紙幣発行業務をはじめたのは、1661年であった。これらの銀行を特許状によって設立した金融業者たちの先祖はヴェネツィアとジェノヴァの銀行家であった。世界の権力の趨勢がヨーロッパの北部へと移行するに連れて、金融業者たちもそのあとに従ったのである。たとえば、ハンブルクのウォーバーグ家の発祥は、ヴェネツィア最大の銀行家アブラハム・デル・バンコ一族であった。 イングランド銀行の特許状による成立についてはおもしろい技法が明るみに出ている。つまりイングランド銀行特許状はトン税法案(船舶トン数1トンごとに課税する法案)の一部に滑りこませてあったのだ。この技法はのちに議会操作の常套手段と化していく。特許状には次の条項がある。 「船舶のトン数に課せられる地方税と関税を、対フランス戦争の遂行のために総額150万ポンドを自発的に融資する者たちへの保証金とする」 ジェノヴァ銀行、ヴェネツィア銀行、アムステルダム銀行などヨーロッパのほかの銀行は主に預金銀行であったが、イングランド銀行は銀行自身の信用を貨幣に鋳造する業務をはじめた。通貨主義(マネタリズム)の走りである。まもなくイングランド銀行はシティーに金融勢力という「新興階級」を創りだした。この新興階級は、大土地所有に資産を依拠する旧来の金持ちたちに対抗する勢力であった。 ※ チェンバレンやブリスコウに代表される「土地銀行」企画者側は、イングランド銀行の企画をはげしく批判した。 イングランド銀行の設立株式の所有者500人のうち450人までがロンドンに住んでいた。世界に冠たる現在の金融センター「シティー」がその優位性を確立する夜明けであった。 ※ 上の日記「イングランド銀行の設立者たち:英国金融界に君臨したモンタギュー・ノーマン」に続きます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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