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2005年09月03日
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山口組 「盃直し」「継承式」

山口組の新時代を告げる六代目体制構築に向けた“親子、兄舎弟の縁儀式”、いわゆる「盃直し」は、8月27日の大安の日、山口組総本部で厳かに執り行われた。五代目から六代目への「継承式」も同時に執り行われ、新体制になった山口組はここに、六代目時代の新たなスタートを切った。


山口組トップに就任した司忍組長(63)と直系組長が改めて「兄・舎弟」や「親・子」の盃を交わす『盃直し』の盃儀式と、先代の渡辺五代目から司六代目に山口組当代を禅譲する『継承式』が、8月27日午前、神戸市灘区の山口組総本部で執り行われた。

ヤクザ社会では、8月度は、冠婚葬祭などの義理事は行わないのが慣例である。一般社会同様、“夏休み”となるのだが、その8月に決行されたのである。

「司六代目は今年5月に若頭に就任したあと、矢継ぎ早に組織改革を行ってきたが、六代目に就任した以上、一気に体制を固めようということではないか。まして自身、銃刀法裁判を抱えているだけに、最高裁判決が出る前に、1日でも早く六代目体制を確立したいということだろう」(事情通)

『盃直し』は組織内部のことなので、ヤクザ社会の慣習にとらわれなくてもいいかもしれないが、『六代目継承式』ともなると、友好団体の親分衆も列席する。さらに、後見人、取持人、推薦人、見届人、媒酌人などの人選もあるし、こうした関係者への依頼も多少の時間がかかるため、8月中に執り行うのは不可能ではないか、と見られていた。

ところが、山口組関係筋からの情報によると、「盃直しと継承式を同時に行うことになった」ということだった。


渡辺五代目の引退・司忍組長の六代目就任の電撃人事から1ヵ月。名実ともに全国最大のヤクザ組織のドンとなった司六代目の胸中に去来したものは、はたして何だったのだろうか。この日の儀式をつつがなく終えたことにより、山口組は六代目という新体制をスタートさせた──。



【司六代目「新執行部」の全貌】

組長   司 忍

最高顧問 岸本才三(岸本組)
顧問   石田章六(章友会)
顧問   大石誉夫(大石組)
顧問   西脇和美(西脇組)
顧問   尾崎彰春(心腹会)

舎弟頭  野上哲男(二代目吉川組)
舎弟   英 五郎(英組)
舎弟   古川雅章(古川組)
舎弟   後藤忠政(後藤組)
舎弟   石川 尚(名神会)
舎弟   玉地健治(玉地組)
舎弟   堀内伊佐美(堀内組)
舎弟   川合康允(川合組)
舎弟   勝野重信(勝野組)

若頭   高山清司(二代目弘道会)
総本部長 入江 禎(二代目宅見組)
若頭補佐 瀧澤 孝(芳菱会)
若頭補佐 橋本弘文(極心連合会)
若頭補佐 鈴木一彦(旭導会)
若頭補佐 寺岡 修(侠友会)
若頭補佐 青山千尋(二代目伊豆組)



※ 三代目山健組の桑田組長は、跡目を井上邦雄・若頭に譲って組長を退き、「山健組総裁」という立場になった。したがって山健組は、井上氏が組長となって四代目山健組がスタートしているが、現在までのところ最高幹部にその名前を見つけることはできない。


総本部長(若頭と舎弟頭を兼務)として組織運営の中心を担ってきた岸本才三(岸本組)組長は『最高顧問』に就任し、司六代目ならびに新執行部の“相談役”的な立場で六代目体制を支援していく。

『顧問』には、五代目体制で「舎弟頭補佐」として執行部を支えてきた石田章六(章友会)、大石誉夫(大石組)、西脇和美(西脇組)に加え、三代目時代からの直参で“五代目舎弟”だった尾崎彰春(心腹会)の計4人が就任した。

注目の『舎弟頭』には、野上哲男(二代目吉川組)が就任した。当初は、山健組の桑田氏が就くのではないかという見方もあったが・・・。
野上組長は五代目体制で総本部長の補佐役である「副本部長」として執行部を支えてきた1人。当初は六代目体制での顧問就任も噂されていたという。

野上舎弟頭のほか、司六代目から舎弟盃を受けた六代目舎弟は、英五郎(英組)、古川雅章(古川組)、後藤忠政(後藤組)、石川尚(名神会)、玉地健治(玉地組)、堀内伊佐美(堀内組)、川合康允(川合組)、勝野重信(勝野組)である。英組長、古川組長、後藤組長の3人は、五代目体制で司六代目と共に若頭補佐を務めていたことから、“六代目舎弟”に直った。石川会長は三代目時代からの直参で、五代目誕生と同時に舎弟に直ったが、司六代目からも舎弟盃を受けた。他の4人の舎弟は、いずれも三代目時代から山口組三代に渡って若中となっていた直系組長たち。

「今のところ、舎弟頭補佐の人事については何も伝わってきていないが、いずれ“六代目舎弟”のなかから選出されるのではないか」という見方もあるが、三代目時代、舎弟頭が存在していても舎弟頭補佐はいなかった歴史もある。従って、舎弟頭のポストがあるから舎弟頭補佐ポストも必要、というわけには必ずしもならないようだ、と『週刊実話』は書いている。

高山清司若頭と共に新執行部の重要な役割を担う『総本部長』には、若頭補佐の入江禎(二代目宅見組)組長が就任した。

※ 高山清司・若頭、入江禎・総本部長、橋本弘文・若頭補佐の3人の“軌跡”は「新若頭補佐のプロフィール」にあります。


入江総本部長と共に高山若頭を支え、執行部の中核メンバーとなる『若頭補佐』には、瀧澤孝(芳菱会)、橋本弘文(極心連合会)、鈴木一彦(旭導会)、寺岡修(侠友会)、青山千尋(二代目伊豆組)の5人が就任した。瀧澤総長は五代目体制から引き続いての就任だが、他の4人はいずれも五代目体制で直参に昇格した“五代目世代”の直系組長であり、大幅な世代交代が図られたことになる。現在の5人から年内にもあと2~3人、若頭補佐に昇格させるかもしれないという話もあるようだ。

5人の新若頭補佐の簡単なプロフィールを『週刊実話』から紹介(転載)する。



● 瀧澤孝総長は、昭和59年、竹中四代目誕生で直参に昇格しており、若頭補佐の中では唯一の“四代目世代”。三代目山口組直参だった実兄が引退し、その地盤を引き継ぎ、名門博徒・国領屋下垂一家の九代目を継承しての直参昇格だった。平成元年、五代目体制発足と同時に、その実績を買われて若頭補佐に登用され、関東ブロックのブロック長に就任。平成3年には渡辺五代目が名付け親となって、「芳菱会」と改称した。

「宅見事件」後、銃刀法違反事件で共犯に問われ、長期社会不在を余儀なくされた。だが昨年3月、1審で無罪判決を受け、ようやく現場復帰を果たした。銃刀法裁判(控訴審)を抱えているが、山口組の活発な関東進出で何かと外交的に大変な関東地区の若頭補佐だけに、調整能力に長けた瀧澤総長の手腕に期待が寄せられている。


● 橋本弘文会長は、今年4月に渡辺五代目の出身母体である山健組の組長代行から直参昇格。6月に若頭補佐に抜擢されたばかりで、新進気鋭の若手幹部だ。初代山健組当時から若手行動派として知られ、二代目山健組では長年に渡って若頭補佐として活躍。のちに若頭代行を務め、三代目山健組では若頭として勢力拡大に手腕を発揮した。平成9年に桑田組長が銃刀法違反事件で逮捕されて以来、組長不在の大組織を統率し、15年5月には組長代行に就任した。「喧嘩には負けたことがない」という典型的な武闘派。


● 鈴木一彦会長は、五代目舎弟だった赤石秀雄総長が平成3年10月に除籍処分となったことから、旧関保会の地盤を引き継ぐ形で「旭導会」を結成、同4年2月に直参昇格した。旭川で愚連隊として暴れ回ったのち、17歳で稼業入りし、20歳で赤石総長の盃を受けた。その後、数年間は旭川を離れて関東で生活し、関東ヤクザの手法を学んだりして旭川に戻った。すぐに頭角を現し、昭和47年には、赤石分家として親分の名乗りを許されたという。

金融・不動産などを手がけて経済力をつけ、昭和55年頃には関三代目の跡目代行となり、赤石総長の有力な跡目候補となった。旭川を本拠に、旧関保会当時からの地盤をしっかりと守りながら、道内に揺るぎない勢力を張っている。山口組では初めて北海道で最高幹部が誕生したことで、周辺関係筋に与える影響力は大きいとあわれている。


● 寺岡修会長は、舎弟頭補佐を務めていた西脇和美組長の西脇組(神戸)から平成4年2月に直参昇格したが、もともとは三代目山口組直系だった細田組の出身である。昭和58年7月に細田利明組長が引退、組解散となったことから、縁あって西脇組長の盃を受けて西脇組に加入した。

細田組傘下だった昭和57年10月、淡路島を舞台に五代目大嶋組との間で流血の“淡路島抗争”を繰り広げ、若手武闘派として一躍、注目されるようになった。この抗争をきっかけに勢力を拡大し、同島に勢力を張っていた大嶋組が解散してからは洲本市を本拠に揺るぎない地盤を構築した。

直参昇格後、若手実力派としてメキメキと頭角を現し、「総本部当番長」に登用された。まもなくして「組長秘書」に抜擢され、将来の山口組を担うホープとして将来を嘱望されるようになり、最高幹部候補の1人と目されていた。


● 青山千尋組長は、平成5年3月に死亡した五代目山口組顧問の伊豆健児組長の跡目を継承して直参昇格した。福岡県飯塚市の出身で、少年期より暴れん坊で鳴らした。昭和53年頃、“九州のドン”と呼ばれた伊豆組長の知遇を得て、盃を受けないまま伊豆組長に付いて回るようになったという。その人柄に惚れ込み、54年末に正式に盃を受けたが、伊豆組長は青山組長の器量を高く買い、若衆ではなく初めから舎弟として迎え入れたほどだった。当時、33歳の若さだった。持ち前の才覚を発揮し、やがて「伊豆組の参謀」と呼ばれるようになり、平成元年からは同組若頭として組織の発展に貢献した。

直参昇格後、着実に地歩を固め、戦後生まれの若手実力派組長として注目されるようになり、長らく「総本部当番長」を務めていた。若頭補佐昇格で、今後「中四国・九州ブロック」が新たに「中四国ブロック」と「九州ブロック」に分割されるようなことがあれば、「九州ブロック」のブロック長に就任するものと思われる。



※ 続きます。続きは以下です。

「六代目山口組本家直系若衆」







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最終更新日  2005年09月04日 02時58分00秒
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