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思い思うは人の情―。
願い願うは人の愛―。 思いを伝える言の葉は、誰の心に息吹くやら―。 hope & desireの日記 [全7件]
好き。 実際、面と向かって言われると照れてしまう言葉ですね。 (まぁ、もっとも僕にはしばらく関係ないかな・・・。ん?なんでもない。) 自分の思いをまっすぐに伝えられる言葉、としては最高の言葉ですよね。 同様に嫌い、という言葉もありますが・・・。 「嫌よ嫌よも好きのうち」、とはよく言ったもんですが。 嫌なのに好き、と言われると「?」というものが頭に浮かんでしまいます。 嫌いなのに?好き、ってどゆこと?って。 嫌うものを好むとはどういうことか、というとですね。 正直、分かりません。 いや、人によって結論違うし。うん。 でも何かしら言えることは。 「嫌なんだけど、なんか惹かれてしまう自分がいる」ということでは、と思うんですよねぇ。 嫌いと思う反面、そう思ってしまうだけの何かを感じているんですよね? ということは、「嫌い」という愛情表現、とでも言えば良いのでしょうか。 嫌ってしまうんだけども、そう思う以外になんか共通しあう(というか共通してしまう)何かを持ち合わせているから、嫌いと思えるんでしょうね。 本当に嫌いな相手なら、口を利かないばかりか顔も合わせないでしょうから。 そういうことではないのでしょうか? それでは、また次回。
人の宿り火を奪ってこそ成り立つ自分だから。 人の光をもらってこそ成り立つ自分だから。 己の力だけでどうすることも出来ず、 己の力だけでは立ち向かうことすら出来ず、 ただ流され、ただ潰され、 その状況に反抗するために、奪う、得る。 そうさ、僕は弱い人間。 さらに弱いものからしか得ることが出来ない、弱い人間。 人の不幸を省みず、人の未来を省みず、 奪っていくのはこの身体、奪っていくのはこの心。 どんなに自分に言い聞かせようとも、 どんなに自分を押さえ込もうとも、 己の野心は底知れず、己の理性は紙一重。 人の不幸を嘲笑い、人の不幸を肴にし、 自分の欲に打ち勝てず、自分の良心傷つけて、 こんな僕には何がある?こんな僕に何を望む? 人を傷つけて傷つけられ、人を憎しみ人を笑い、 ただ混沌を願うだけの、己に何を期待する? 知れば知るほど暗くなり、 望めば望むほど悪くなる。 悪循環のその先に、何が待っているのだろう。 思い思うは人の情―。 願い願うは人の愛―。 思いを伝える言の葉は、誰の心に息吹くやら―。
人は互いに憎みあい恨みあうもの―。 そんな言葉をどこかで聞いたことがある。 日頃から「和」を唱えている(であろう)私には、やや理解しがたい内容であるが。 残念ながら、事実であると思う。 太古の昔より、人と人とが恨みあっていた、という事実がある。 つい先頃上映された「300(スリーハンドレッド)」だって、古代ローマの実際にあった戦争を基にしてして作られている映画なのである。 そう、人は平和を歌いながらにして戦争を、誰かを大事にしながら別の誰かを忌み嫌うものなのである。 悲しいかな、人はそうしたことを早200万年以上も繰り返してきた。 約200年にも及ぶこのいがみあいの歴史を、人は変えられることができるのだろうか。 おおよそ、不可能に違いない。 人類の危機が迫らない限り、地球という家の危機を感じない限り、全世界の人たちが手を取り合うことなど出来ないのである。 きっと、そんなこんなで未来も、ずっと・・・。 このいがみあいの歴史を克服するために出来ることはあるのだろうか。 出来ないことは無い。だが歴史を克服することは無理難題に等しい。 出来ること、それは「全てを包み込むことが出来るだけの、心の広さを持つ」こと。 何もかも(に近いほど)優しさでつつみこむことが出来れば・・・。 きっと、平和に近づけると思うんです。 それでは、また次回。
自分じゃない人を自分が表現する。 つまり演じる、ということ。 今日は「演じる」ということを自分なりに解いていきます。 役者、という者は演じることが仕事な訳です。 その演じ方がより上手い人がより評価されるわけで。 いかに(監督とか脚本家が)求める「ある人物像」に近づけるか、が求められていて、それに合わせられる「着こなし」が上手な人は才能のある方なんでしょうね。 さて、役者たるもの感じていたいもの。それは 「他者を生きる」こと、です。 自分以外のものを表現する以上、他者の存在を実感しないのはおかしいですよね。 いくらフィクションだろうが脚色された実在の人物だろうが、その人物はそこにいる訳で。 その人とどれだけシンクロできるか、というのはその人をどれだけ感じられるか、ということになるはずです。 某アニメじゃありませんが、シンクロすればするほど強い表現力になるんです。 感じあえる、分かち合える。 一種愛する気持ちすら芽生えたら、それはもう最高の演技となるのでしょう。 では、シンクロするには如何すれば良いのであろうか。 基本は「相手の気持ちを考えること」に他なりませんね。 あるいは「想像の豊かさ」というのも必要になってくるのでしょうね。 その「作られた現実」を「本当の現実」にいる私たちが表現するとき、何かしらすれ違いが起きるはずです。 そのすれ違いを超えられるだけの想像力、あるいは思想を持てる人こそ、役者なんですね。 それらを鍛えるには。 「本」ですね。 それも「物語」をたくさん読むこと。 もちろん「読む」というのは、ただ本を眺めるだけのことを指すのではありません。 読むということは、「本の内容を理解する、解釈する」ことだと思います。 物語の内容を理解する。そしてその情景を想像する。 これらを繰り返すうちに、知らず知らずに想像力というのは豊かになるものです。 さぁ皆さん、本を読みましょう!(笑) ま、自分は(まだ)役者ではないので、本当のところは良くわかりませんが。 ご意見・ご感想がありましたら、是非コメントにお書きください(笑)。 なお、アブナイサイトの宣伝はご遠慮ください m(_ _)m それでは、また次回。
今日は「失う」について、です。 失う、というとマイナスイメージですよね。 もちろん、その解釈であっていると思いますし、演算においては「失う」=「-」ですからね。 できることなら何かを失いたくは無いですし、むしろ色々なことを得たい、と思いますよね? ま、表面だけから見れば、「失う」ということをいい方向に見ろ、と言われてもさぞかし無理があると思います。 もちろん、この僕だって基本的には失いたくないですし、もし失うのなら俗に言う「ムダ知識」というのを切り捨てたい、と考えます。 そして、その失った分に色々と知識を詰め込んで・・・。 と、なるだけ自分に都合のいいようにありたいものですね。はい。 さて、「表面だけ」と言いましたがそれはどういうことか。 精神的な解釈をすれば。 「忘却する」ということで新しい「知識」を覚えることができる、ということ。 言うなれば、部屋にあるいらないものを処分するようなもんです。 失うことで何か新しいことを覚える、と言う点では必要不可欠な要素なんですね。 だって、良い思い出と同じように嫌な思い出も全部全部覚えていたら・・・。 恐怖ですよね、だって忘れたいものも忘れられないんですもの。 また、思想的に言ってしまえば。 「何かを代償にすることで、何か新しいものが手に入る」というような感じです。 お金が1番身近な例ですか。流石に詳しい例は省略します。 と、このように。 必ずしも「失う」ことは悪いことではない、ということなんですね。 むしろ何かを失ってこその私たちなんでしょうね。 失わないようにしたい。 そういう気持ちもありますね。 様々な思い出、物、情景、感情・・・。 それらを忘れないようにする為にはどうすればよいのだろうか? やっぱり、「心がけ」なのではないでしょうか。 「心がけ」と言うべきか、「大事にする」と言うべきか。 ”忘れたくない””これは覚えていよう”という気持ちがある限り、その気持ちが続く限り、それらを忘れることは無いのでしょう。 人は誰しも忘れていってしまうもの。 しかし、それを言い訳にするのは勝手すぎますね。 大事な人との約束は、守るようにしないといけないのですね・・・。 それでは、また次回。
えーと。挨拶はどうすれば良いんだろう。 今後省略していきますが、あしからず。 さて。 最近の若者と言うものは、と言いつつも、正直な話、小学生のことですね。 しかも全員が全員そうであると言えない話なのですが、聞いていただけると幸いです。 個人的な偏見かもしれませんが。 「我慢しない・できない」子供が増えたと思うのです。 だから何?、と言われればそれまでですが・・・。 僕はあえてつっこまさせていただきます(笑) これは、「ゆとり教育の賜物」だけとはかぎりません。 しかし、「ゆとっている」ことに変わりは無いのですね。 さ、どういうことでしょう。 ゆとり教育―。 ここでは”学校”を対象とします。 確か、ゆとり教育は「子供の考える力を養える」ための政策でした。 しかし皮肉にもこの間の全国一斉テストでは、この「考える力」が乏しいことが明るみになってきてしまいましたね。 それどころか、家庭内暴力、麻薬、万引き―、といった青少年犯罪も増えつつあり、 「考える」ということの軽視化がされてしまっている、ということも言える状況です。 では、「ゆとり教育」を変えれば良い方向に歯車は回ってくれるのでしょうか? 確かに、少しは良くなるかもしれないし、より良い人材が育てられる可能性も出てきます。 しかしながら、その”人材”とは学校だけに影響されるわけではありません。 そう、ここで注目されるのが「親」です。 親であるからこそ、我が子には良い思いをさせてあげたい、我が子にはより良い環境にしてあげたい―。 そう思うのが普通でしょう。子への愛、とは山よりも高く海よりも深いのですから。 しかし、深すぎたり高すぎたりすること(⇒過保護)は決して良くありません。 我が子を思うがあまりに周りが見えなくなる、それどころか、他人の子を陥れたくなる―。 それでは元も子もありません。 スポーツに限らず、社会に出てみれば確かに蹴落としてこそ、です。 しかし、その蹴落とし方に問題がある、というなら話は別です。 スポーツで言ってしまえば「反則行為」というやつです。 正当な力を持つべくして勝つ、というならまだ良いのですが。 ドーピング行為、障害行為、などといったことをしては「失格」ですね。 まさしく、それが生活行為にもほぼ同じ事が言えます。 他人の子を「親の力で」蹴落とす、というのは言語道断。 その子にも「親」がいるんです。 その子の親が同じことをしかねないし、それでは悪循環です。 そんなに蹴落としたいのなら、自分の子をもっと愛し、信じなさい。 愛すればこそ、信じればこその力を、きっとその子は手に入れるはず。 その力こそがとても強大なんです。 誰にも負けない、どんな逆風にも耐えられる、そんな力。 では、どうすればいいのだろうか。 ここでは2点挙げたいと思います。 1、「我慢」を教える 2、慈しむ心を説く この2点です。 それでは詳しく・・・。 1、「我慢」を教える 我慢、というとマイナスなイメージに捕らえがちですが、必ずしもそうではありません。 我慢してこその喜びがあるんですね。 例えば、貯金。特に何か物が欲しいときの貯金。 「○○を買いたいからこれは”我慢”しよう・・・。」ということは誰しもあるはず。 これは、その買った後に喜びが来る例ですね。 あるいは、欲しいと思っていたものが、欲しいと思ったときより安くなっていたとき。 これはそのとき買わずに済んでよかった、という安堵と喜び。 と、このように我慢は決して悪いことではありません。 しかし、僕が言いたいのは「欲しい物を抑える」ということではありません。 僕が言いたいのは、「思いとどまり、改めて考える」ということ。 何で我慢なのか?理由は明確。 我慢は、一種の「反省」であるから。 「~をしよう!」と思った心に「いや、まてよ」と警鐘を鳴らすこと、それが「我慢」。 ⇒「我慢」というのは自分を見つめ直す、大切なものである! 自分に警鐘を鳴らせる、自分を見つめ直せる人は、周囲を思える人でもあるものです。 警鐘をならす基準、それは周囲の心を読むことにもなります。 人を思える人になる、というのなら「我慢」は身に付けておきたいものです。 2、慈しむ心を説く 物を慈しむ、人を慈しむということは、自分だけでなく相手も重んじること。 相手を思ってこそ、相手の存在があってこその自分である以上、相手というのは大切に扱うべきなんです。 自分を計るには何が必要ですか? 自分を感じるには何が必要ですか? そう考えたときに、「それは他の存在なのだ」と思えれば、もう立派な人。 相手あってこその自分、自分あってこその相手。 嫌い、という事は、相手を「嫌い」という評価ではあるものの、相手が存在していることを認めているということ。 好き、というのは言うまでもありませんね。 このように、「慈しむ」というのはとっても大事なことなんですね。 「大事にする」という言い方もありますが・・・。 なんか長々と文を書いてしまいましたが、理解していただけたでしょうか? 皆様の心に留めて頂ければ幸いです。 日本人は今こそ「和」という文化を思い出さねば、と思います。 それでは、また次回。
初めまして。 えーと、自己紹介します。 hope & desire という者です。 なんか時々語ります。 (別名:轟雷、☆バッケ☆、ジャワ原人 など) 他サイトで「ジャワの秘宝」というのを書いてます。 えーと、ググると確実に出ます。 YAHOO!は知りませんが。 基本的には愚痴とか評論とかですので、 期待しすぎにはご注意ください。 こんな感じです。 これから長々とお世話になりますが、皆様よろしくお願いします。 それでは、また次回。 |一覧|Recommend Item
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