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(abi.abiさんより頂きました) ようこそいらっしゃいました この日記は、書評、映画評、平和論、考古学、旅の記録等何でもありの「ごった煮」日記です。 別にここは議論をするためのプログではありませんが、異論反論は歓迎いたします。 ただ私が「信頼して議論できる相手ではない」と判断した場合にはスルーさせてもらうことがあります。 もちろん、私がコメントしたりTBを送らせて貰った相手は無条件で異論反論に付き合わせてもらいます。(自分の家に招待して相手をしないなんて失礼ですものね) この方針は私の私生活の時間の確保のためです。 あしからずご了承ください。 なお、誹謗中傷、迷惑のコメント・TBは削除させてもらいます。 ![]() 九条を守ろう!プロガーズ・リンク ![]() Under the Sunに行こう くまの日記 [全2008件]
![]() 岩国駅ではこんなポスターが。確かに長門は金子みすずの故郷だけど、こんなポスター作らなくてもいいのに……。 ![]() 岩国駅で青年と別れる。電車待ち40分。電気屋に行ってトイレでスマホの充電をしようと思っていたら、ちょいと品物を見ている間に時間がなくなる。 ![]() 地元作家ということで、島耕作バスが動いていた。まあ、それはよいとしよう。けれども「岩国出身の社会派漫画家」とかいているのはどうだろうか。私に言わせれば「財界派漫画家」である。弘兼憲史は岩国の共産党の活動家を父にして生まれた。彼はそれに反発して東京に出たところがある。しかし、彼の初期の作品は岩国基地の悲劇をテーマにしたり、東映争議を背景にした映画作家の卵を描いた「夢工場」を描いたり、割と「社会派漫画家」になろうとした時期があった。しかし、島耕作や加治隆介などを描き出したころから、取材先が財界や政界になったせいか、急激に彼らの宣伝係みたいな作品しか書かなくなった。こういうのを「太鼓餅」というのではないか。デビュー当時期待していただけに、私は彼には厳しい。まあ、財界にコネを持たないと、こんなバスは動かないのかもしれない。 このときから、二ヵ月後に岩国市長選があった。市民はやはり財界派を選んだ。 ![]() 夕暮れ時に下関駅に着く。駅前のシーモール。 ![]() ここの国際ターミナルを使うのもこれが三回目。 フェリーは日本船「はまゆう」だった。前回は行きが韓国船だったからこの前と違う。ここから前回買っておいたw札を気楽に使おうと思っていた当てが外れた。ビールはロングが220円。これだけが免税エリアの特権。 ![]() 夕食はレストランでトッポキとチヂミを頼んでマッコリを飲んだ。全品300円だったが、全品それなりの味だった。 この日までは円。 340(バス) 2,500(青春切符) 220(ビール) 10,600(フェリー代と油加算、港使用料) 900(夕食) 計 14,560円 万歩計 6,624歩
去年12月の8日間の韓国の旅の記録、はよぉ、あっぷせいや!という一部の声があったので、途中で息切れするかもしれませんが、始めます。と、言っても今日明日はまだ日本です(^_^;)。ぼちぼちやります(←だんだん「カーネーション」弁になってきとるで) 12月23日(金)晴れのち曇り 今年は冬休みが掛かっているので青春切符が使える。金券ショップで二枚のみゲットした。フェリー代が往復約2万円だとすると、下関釜山コースは往復約2万五千円。実際はバス代や途中の食事代もあるからもう少しかかるがこれが現在考えられる一番安い岡山から韓国への行き方である。岡山には飛行機の超極安チケットがない。これが都内大阪福岡近郊だったならばまた条件も変わるだろう。ただ、私のルートは日本国内の移動のみで丸二日を使うのが難点である。 ![]() 倉敷駅からは新しくできたばかりの都市型アウトレットモール「アリオ」が見える。 ![]() 税金ドロボーのリボリ公園の生れの果てである(この写真は2007年の在りし日のチボリ公園)。思えば二回も選挙の争点になたけど、二回ともチボリ反対派が敗北。チボリを導入して失敗してそして誰も謝っていない。ある市民が「(導入当時の)渡辺市長は死んじゃったよね」としらりと言った時に「あの時お前はどんな態度をとったんだ」と言いたかったけど、大人なので止めました。でも、これは原発導入と同じ構造なのではないかな。誰も謝らない。 ![]() 8時40分倉敷駅出発、9時49分糸崎で一回目の乗り換え、広島駅を過ぎた時に私と同じように大荷物を抱えた青年が向かい合わせの席に座った。袖触れ合うも多少の縁、青年と少し話をする。彼は福岡から広島にやってきてこれから帰るのだという。彼はオレンジカードで汽車賃を節約していた。まだこのカードが出回っていること自体に私は驚いた。節約といってもたぶん一割ぐらいしか安くならないはずだ。広島電鉄とバス路線を見に来たのだという。 「写真とか撮るんですか」 「ええ、バスに関してはあまり得るものがありませんでした」 「韓国のバスはまた変わっていて面白いですよ。ダイヤグラムがないも同然だったり……」 「……。外国は興味がないんです」 「……。」 お互い趣味の世界は理解できない。そして奥深い。 ![]() 今回もリュックサックに四日分の下着、薄い上着をつめてプレゼント用のカップヌードル四個を入れて、韓国の地図、弁当を入れるとリュックはパンパンになった。これは動き回ることを重視した荷造りである。だが、ふと気がつくと電子辞書を持ってくるのを忘れたことに気がついた。韓国で買おうか、それとも古本屋で辞書を買おうか迷ったが、スマホの辞書アプリをインターネット圏外で試すと、例文が出ない85円簡単辞書のほうは圏外でもOKだった。これでやれるかどうかやってみよう。(←結局、とっても簡単な単語さえも出てこない使えない辞書だと分かった。ということに気がついたときは古本屋は遠く、この旅は辞書なしで過ごすことになってしまった)
京都市長選は脱原発候補が敗北に終わりました。 その隣の地域では「俺は独裁者だ、悪いか」と威張りちらす悪がきが今度は国会をも牛耳ようと、画策しています。 ちょっと滅入るので、こんな動画はどうでしょうか。 チャップリン「独裁者」の最後の演説です。 私は長いこと勘違いしていた。 チャップリンはこの映画で、単にヒトラーを揶揄しているのだと思っていた。 そうじゃない、換骨奪胎、彼はこの映画で人間の美しい心を「政治」の場で表現しようとしたのである。 ここにはキリスト教の最も良質な部分があるように思えます。2001年のブッシュの「悪魔の帝国を倒せ」と演説したキリスト教の精神とは対極のところにある精神です。結局宗教とは教義じゃない。人間そのものの中にある「可能性」なのではないでしょうか。 まろさんによると、 「英語の教師の中には、あの演説を生徒に全文暗記させる実践をやった人がいます。 実業高校ですから、低学力に悩む職場で。実に劇的な実践報告でした。 言葉の力が生徒たちを捉えていく過程が感動的でした。 あの演説を全文刷って親しい人に配布した人もいたとチャップリンの『自伝』にあります。」 とのことです。 確かにほとんど高校英語で語られています。 けれども、こんなにも「世界に立ち向かう正しいあり方」世界観を約3分の演説の中に凝縮している。ホントにいい授業だったろうと思います。
ひさしぶりに渡辺あや脚本「ジョゼと虎と魚たち」をビデオで見た。実質脚本家渡辺あやのデビュー作だと思う。 犬童一心監督 出演 妻夫木聡 池脇千鶴 上野樹里 新井浩文 新屋英子 気ままな大学生活を送っていた青年はある日祖母とあばら屋で二人暮らしをしている両足が不自由な20歳くらいの女性に出会う。彼女は自分の名前はジョゼだという。サガンの小説の主人公だ。祖母から「おまえは壊れ物だ」とずっと言われ続けていたジョゼは、一方では祖母が拾ってきた本や教科書で深海魚のような暗闇から僅かに社会を覗いていた。青年はジョゼの作る食事の美味さに驚嘆しながら、次第に興味を募らせていく。ある日、祖母が死んだと聞いた彼は彼女が初めてみせる寂しげな姿に同棲を決意する。 この映画の「衝撃」は最後の五分に尽きる。 おそらく、男性が観たのと女性が観たのでは感想が違っていたのではないか。ジョゼは口は悪いし、身体障害者だし、青年が同棲を決意した時に、「若者の打算」と「若者の優しさ」がこの映画のテーマなのかと私は思った。 ところが、最後の五分で、青年はジョゼから「捨てられる」のである。そういう台詞はでてこない。むしろ、青年がジョゼから離れていくという映像になっている。しかし、観客の男はことごとくジョゼから「捨てられた」と思ったに違いない。男にとっては「非常にきつい」映画だった。 2003年の作品である。妻夫木はこれでブレイクした。上野樹里は高校生だったはずだが、大学生として少し背伸びをした演技をしていてぎこちない。池脇千鶴は三十路の今とほとんど童顔は変わっていないが、ベッドシーンもこなし、圧倒的な存在感を示す。最後の顔は深海の海から青空の下大海原を泳ぐ魚のように生き生きとしている。 渡辺あやの数ある脚本の中でも、私的にはやっぱりこれがベストだ。ほんの僅かな台詞で人生の過去から未来までも想像させる。また、脇役がことごとくキャラがたっている。ジョゼの隣に住む「変態のおっちゃん」や「小学生の少女」までその後の人生を想像させるように描いている。 先週から「カーネーション」はオハラ三姉妹の「ライバル関係」が描かれだした(今までの彼女たちの姉妹喧嘩や丁寧に描かれてきた性格描写があるために非常に説得力のある脚本になった)。これが糸子の人生にどのように絡んでいくのか、朝ドラの「最後の五分間」は果たして訪れるのか。少なくとも、今までもこれからも「聖人君子」のような主人公は描かないだろうと思う。
「運命の人 3」山崎豊子 文春文庫 「大野木です。最高裁から通知が届きました」? いつもと変わらぬ静かな声に、上告が認められたのかと体を乗りだしかけたが、大野木弁護士はそれから長い間、沈黙していた。 「先生ー」 「決定は上告破棄です」 「そんな!そんな馬鹿な」 沖縄返還密約事件を描くTBSの「運命の人」プロデューサーの瀬戸口克陽氏はこのドラマの本質に付いて「マスメディアも本来は闘うべきだったのに防戦一方になり、本質がすれたまま、男女の問題として展開していった。国民にとってもっとも大事なものはなにかという大きな視点に立つことは出来なかったのか。きちんと検証すべきだと思います」原発問題で、真実を自ら明らかにしようとしない政府や官僚らの姿に「40年経った今も、基本的構造は何も変わっていない」と語ります。(赤旗日曜版1月29日号) ? 第三話が終わった。弓成記者はあっさり逮捕された。これからしばらくあまり面白く無い裁判劇になるが、果たしてどのように料理するのか。? ? さて、第三巻は丁寧に裁判経過を追っています。判断は読者が出来るぐらいの材料は出ている。 TVの問題意識は良し、もう同じ轍は踏んで欲しくない。 「もっとも大事なことは何か」 沖縄の人々の命の問題である。 沖縄の人々の地方自治の問題である。 宜野湾市長候補の伊波洋一さんは、そのふたつを大事にする人だ。防衛局長が職務権限で圧力をかけようと、負けられない闘いではある。 そして、それを突きつめていけば必然的にアメリカのいうなりに、沖縄を犠牲にしようとする、琉球のときから繰り返し繰り返しつかわれる「捨て石」という位置づけ。これにきキッパリ、ノーという人が求められている。伊波洋一さんはそういう人だ。
![]() たまたま今日の朝日新聞を読むと、池澤夏樹が先日交通事故で亡くなったテオ・アンゲロプロスを追悼していた。池澤夏樹は12本の映画の字幕(それはほとんど全てということだ)を担当している。私も大ショックだったが、彼の喪失感の比ではない。珍しくテオ・アンゲロプロスについて何も語っていない文章だった。 私とアンゲロプロスとの出会いは「ユリシーズの瞳」だった。上映中の八割は寝ていた。最悪と言って良い。 その後、幾作品かを経て、「エレニの旅」に出会う。二回観た。映画的体験はめったに起きることでは無い。池澤夏樹が「旅芸人の記録」を観た時の体験を「自分はたぶんこれを一割も理解していないけれど、何かとんでもなく大きくて奥の深い映画だ、ということは分かった」と書いている。私もまさにそう感じた。「難解といえばまさに難解だが、拒絶されたのではなく強い力で引き込まれた。出来れば全部が分かるまで何度でも観たいと思った」と書いている。まさに私もそう感じた。 後、一日かけて「旅芸人の記録」(五時間以上の作品)を観る機会をもらった。寝ることなんて出来なかった。ただ、二割理解出来たかどうか。 いかん、こんなことを書いたらテオ・アンゲロプロスについて何も語っていないのと一緒だ。私は池澤夏樹とは違い、語るべき語彙を持たないのである。仕方ない。映画館で観て欲しい。それだけしか言えない。 「エレニの旅」から始まる三部作は永久に完結しない。亡くなった時、そのことを一番悲しんだ。今日の池澤夏樹の文で未公開の「第三の翼(仮題)」があることを知った。クランクインして一ヶ月で監督を失った「もう一つの海(仮題)」もあったことを知った。出来ることなら、未完のままでいいから、なんとか観たいと思う。
渡辺謙さんがダボス会議でこの様にスピーチしている。 「 国は栄えて行くべきだ、経済や文明は発展していくべきだ、人は進化して行くべきだ。私たちはそうして前へ前へ進み、上を見上げて来ました。しかし度を超えた成長は無理を呼びます。日本には「足るを知る」という言葉があります。自分に必要な物を知っていると言う意味です。人間が一人生きて行く為の物質はそんなに多くないはずです。こんなに電気に頼らなくても人間は生きて行けるはずです。「原子力」という、人間が最後までコントロールできない物質に頼って生きて行く恐怖を味わった今、再生エネルギーに大きく舵を取らなければ、子供たちに未来を手渡すことはかなわないと感じています。 私たちはもっとシンプルでつつましい、新しい「幸福」というものを創造する力があると信じています。がれきの荒野を見た私たちだからこそ、今までと違う「新しい日本」を作りたいと切に願っているのです。今あるものを捨て、今までやって来たことを変えるのは大きな痛みと勇気が必要です。しかし、今やらなければ未来は見えて来ません。心から笑いながら、支え合いながら生きて行く日本を、皆さまにお見せできるよう努力しようと思っています。そしてこの「絆」を世界の皆さまともつないで行きたいと思っています。」 ![]() 渡辺謙さんが私と同世代ということを知った。はからずも、「ALWAYS 三丁目の夕日'64」と同じことを言っている。三丁目の三浦友和演じるお医者さんが言うのです。 「私たちは、上の方ばかり向いている。けれども、(無料診療所で無償の医療をしている六ちゃんの恋人のように)その前にすることがあるのではないでしょうか。幸せ、って何なんでしょうね」 この作品は、三作目にしてベスト作品になりました。あまりにもベタ名展開ですが、「完成度」が高いのです。お勧めです。 ハンカチどころか、分厚いタオルを持っていったほうがよろしいかと思います。
![]() 現在中国と北朝鮮の連合軍の5個師団が、西日本の分離・支配と大阪占領をめざし金沢市と鳥取県米子市に上陸を開始。侵攻阻止の防御戦闘を実施する陸自中部方面隊を、米太平洋陸軍(ハワイ)・第1軍団前方司令部(神奈川・キャンプ座間)指揮下の米軍地上部隊が支援し、“侵略軍”を打破すべく作戦を遂行中です。 戦線は中国地方に展開され、岡山県では津山盆地が戦場となっています。 別に嘘八百を言っているわけではない。今月1月24日から2月6日まで、自衛隊4500人と米韓の1500人が、コンピューターネットワークとシュミレーションを利用して、共同図上演習をしているのである(明確に中国、北朝鮮と言っているわけではない。念のため)。 作戦名はヤマサクラ61という。去年の八月に発表された要項は以下の通り。 日米共同演習 シナリオ判明2011年8月30日(火)「しんぶん赤旗」 陸上自衛隊と米陸軍が来年初めに予定している共同指揮所演習「ヤマサクラ61」(YS61)が、中国を想起させる国による日本侵略を想定したシナリオで行われることが29日までに分かりました。(以下は記事を読んでください) 赤旗記事にもあるように、もともと荒唐無稽な作戦ではある。それならばなぜこんな演習を行なうのか。この演習の目的は、アメリカ軍がアジア・太平洋地域の即応態勢強化を位置づけていることに関係している。「日本防衛」の枠を大きく超えて、全世界で活動するアメリカ軍の訓練の場であり、アメリカが行なう戦争に日本を参加させるためのものである。 1月22日には、伊丹で800人の反対集会を成功させている。 今日は岡山県平和委員会が県に反対の申し入れを行なった。 こうやって、自衛隊はアメリカ軍の手足のように動く準備が出来上がっていく。 一機99億とも280億ともするF35戦闘機を45期購入することを政府は決めた。何が「身を切る覚悟」だ。F35の主要性能は「ステルス」だということだ。つまり忍者戦闘機。そんなのが日本上空で必要か?ここにも「日本を守るため」防衛費を聖域化していることの「大嘘」がある。
「親鸞 激動篇」五木寛之 講談社 この一月に単行本が出たばかりであるが、読者モニターでいち早く読ませてもらった。 激動篇では、親鸞の壮年時代を描く。35歳の時に越後に流罪になったあと、むしろそれからが親鸞の思想が花開くときだったようだ。 関東常陸の国へ足場を移し、念仏の教えを広めていたとき、弁円という修験者が親鸞の暗殺に赴く。 弁円は親鸞のかおをまっすぐ見ていった。 「われらは山中修験の功徳を世間の人びとに伝えて生きている。病気平癒を祈り、家内安全、五穀豊穣を願う。そのための呪文と、そなたたちの念仏と、どこが違うのだ」 「われらがとなえている念仏とは、依頼祈願の念仏ではない。阿弥陀さま、おすくいください、と念仏するのではないのだ」親鸞の言葉に弁円は戸惑いを覚える。 「われらの念仏とは、自分がすでにして救われた身だと気づいたとき、思わず知らず口からこぼれでる念仏なのだ」 おそらく親鸞の「革新」とは、かつてそして今でも日本人に根付いている「現世利益」を徹底的に否定し、純粋な阿弥陀信仰を追い求めていった処にあるのだろう。坊さんの頭の中にでは無く、それを日常生活の中にひろめて行くのは、どうしたのか。五木版「親鸞」は、それを哲学書では無く、エンターテイメントで描き切った。 エンターテイメント性を重視しすぎて、越後では親鸞が本来否定しているはずの「雨乞い」を大々的に行う羽目なる。失敗すれば命がない、しかし親鸞は目の前の困っている民を見捨てきれず行なってしまうのだ。そして最後の最後に奇跡が起こる。雨が降らなかったら降らなかったで、親鸞の思想が試される面白い展開になったはずなのだが、五木寛之は前巻を終わらす必要があったのか劇的な展開を用意してしまった。‥‥‥そういう弱点はあるものの、とっても面白く読める、というまさに「庶民のための」親鸞像を打ち立てる。 此処には、今までに良く描かれた「聖人親鸞」の姿はない。混沌とした中世の時代の中で、走り、怒り、悩み、おののき、間違い、後悔し、それでも真実を求めてもがいている念仏者の姿がある。あまりにも人間的な親鸞がいる。 黒面法師との三度目の対決も描かれる。母親を殺し、殺人拷問を好み、仏塔を焼き、悪を反省せず、最後まで念仏に耳もかさない極悪人も果たして「すくわれる」のか。前巻とはまた一歩進んだ親鸞の言葉を読むことが出来る。 悪人正機説、はここで一応の完成を見ているようにも思える。しかし、それを実践の場で確かめるのは次の章を待たなければならないのかもしれない。何しろ、黒面法師との最終決着はまだついていないのである。 この黒面法師、この作品のもう1人の主人公なのだろう。どの様に決着がつくのか、とっても楽しみである。 最後のあたりで、「歎異抄」を書いた唯円が登場、次回に楽しみを持たせている。
「親鸞 下」講談社文庫 五木寛之 「仏様より呼びかけられてする返事だから、仏よりいただいた念仏、というのですね」 「そう思う」 綽空は自分で自分の言葉を確かめるように、二、三度うなずいた。 「それが他力の念仏だ。自力の念仏とは、仏たすけたまえ、とこちらから呼びかける念仏。これまで範宴のころ、比叡のお山までわたしがずっととなえておったのは、その自力の念仏であった。いまはちがう。よばれれば何度でも、はい、と返事をする。一度の呼びかけできっぱり信心がさだまる幸せ者は、いちどの念仏でよかろう。だが迷い多く、煩悩深き悪人のわれらは、呼ばれた声をすぐ忘れたり、とかく逆らったりしがちなものだ。そんな情けない愚か者には、二度、三度と呼びかけられるのが仏の慈悲。だから一度念仏しただけでも往生できる。まして、呼ばれるたびに何度でもはいと愚直に答える者が、どうして救われないことがあろうか。念仏は一度がよいか、それとも多く念仏するのがよいか、などと議論するのは、そもそもおかしいと私は思う。一念なお往生す、いわんや多念においてをや、と法然さまがおっしゃねのを聞いたことがあるのだよ」 法然の弟子になった直後の綽空のころは、一念と多念についてはこのように明確に答えていた親鸞であるが、「でも、悪人が救われるなら悪事はやり放題、というもの達には、なんと申しましょう」という問いには明確に答えることができない。 悪人正機説の当然出てくるこの問いに対して明確に答えるのは、「激動編」を待たねばならない。しかし、最終決着をつけるのは現在連載中の最終の巻きなのだろうと思う。 下巻では親鸞が法然の弟子になり、やがて法然と同時に京の都を追われるまでを描く。 |一覧| |
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