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テーマ:九州 旅と食(1337)
カテゴリ:旅の記録
12月18日(日)二日目 下関~板付~前原~呼子
下関海峡わたるのにもっとたいへんかと思っていたら、簡単に渡れた。これなら6時ごろ出発すればよかった。福岡の国道は全然大丈夫。「ワープ」をしようとして通行止めが解除されているインターから入ろうとすると、突然雪景色で大回りを余儀なくされた。なんやかんやで大宰府インターに着いたのが11時ごろ。今日は一日弥生時代の遺跡めぐりである。 福岡平野に弥生のクニを想像する 迷った。金隈(かねのくま)遺跡。資料館に電話してやっとたどり着く。弥生時代の共同墓地の遺跡で、資料館に入ると目の前に甕棺墓や土こう墓がずらっと広がっており、圧倒された。穴、穴、穴。そして甕棺の中に残る人骨。あと200年後、私の村の共同墓地を発掘するとこのような賑わいを見せるのだろうか。 すぐ近くの福岡埋蔵文化財センターの資料も少し見て、有名な板付(いたつけ)遺跡に至る。弥生の田んぼと住居がセットで出て来て、稲作の開始時期から弥生後期までのムラの様子がよく分かる標準的な遺跡である。復元田んぼを見てみる。弥生初期の菜畑遺跡の田んぼより一回り大きい。現在の田んぼとほぼ変わらない。あぜの作り方。水の引き方。補強の杭の打ち方。今でも田舎に行けば同じような田んぼを見ることができる。(写真の緑部分の溝は雨水対策で作っているので意味はないとのこと)資料館には、当時のムラをジオラマで再現している。内環濠の中に20数件ほど住居があるだけで、なぜこの村を囲ったのか不明である、と書いてある。この中に守るべき人がいたのだろうか。投弾や石剣は実用の大きさを持っている。明らかに戦争には備えている。すぐ近くに邪馬台国時代の奴国の中心地だといわれている須玖岡本遺跡がある。奴国の幹部がいたムラだったのだろうか。それにしても、福岡の都市部にこれだけの遺跡がちゃんと保存されているには感心した。車で移動して、かなり広い弥生のクニがあったのだということを実感した。 お風呂屋さんで道を訊く ラーメン長浜御殿。400円。美味しかった。(写真失敗) 野方遺跡に寄って、更に紹介があった呼子の名護屋城に行かなくちゃ、と走り出すとなんかとんでもないところへ。(春日市のあたりをうろうろ)急いては事を仕損じる、ちょうどお風呂屋さんがあったのでそこで汗を流すと同時に道を訊く。今度こそ大丈夫だと思っていたら大渋滞。おまけに近くまで行っても、場所が分からない。野方遺跡は諦めた。 伊都のクニで支石墓文化を考察する ふと思いついて前原(まえばる)の伊都歴史博物館が最近新築されたことを思い出す。弥生時代、伊都の国があったことが確定している地域である。日本最大の青銅鏡が何枚も出ているということでも有名。結果大正解だった。非常にいい博物館だった。二日後に見る国立歴史博物館もそうだが、アジアと日本の関係をしっかり見据えた展示構成になっているし、ゆったりとした展示とボランティアの常駐があり、しっかり解説してくれた。こういう博物館はホント助かる。 私が注目したのは支石墓である。朝鮮半島各地で支石墓がつくられていたのは約2500年前まで。そして入れ替わるように弥生時代早期、九州北部に支石墓が作られるようになる。数年前私が朝鮮前羅南道で見た世界遺産の支石墓群は石の重さ100tクラスがざらにあり、脚の部分が高いのが特徴である。この伊都の国にも11の支石墓が分布している。彼らが稲作を持ってきたといわれるが、しかし支石墓は稲作とともには広がらなかった。 写真は伊都の国でも巨大な支石墓になる井田用会支石墓。神社の中にあった。ここの支石墓は何れも支える脚が短い。しかも墓の下に甕棺があるという。小型化と見えないところに埋葬する、既に朝鮮半島と価値観は変わっている。それでもこの墓を作るためには何百人と人手を要したはずだ。人々の階層化は既に2000年前以上から始まってはいた。 私の小説の習作を紹介(^^;) 私はかって朝鮮半島を旅したときに同時に支石墓をつくった人たちと吉備の国を結びつける壮大な小説の練習版を旅ノートといっしょに(1)(2)(3)と書いたことがある。しかし、支石墓文化と吉備を結びつけるのはやはりムリがあったと反省した。むしろ支石墓文化との断絶の中に日本列島の文化の秘密があるのかもしれないと思うようになった。 この日は呼子の道の駅桃山天下一で泊まる。 この日の移動距離、242km。疲れた。でも充実していた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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