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カテゴリ:洋画(07)
『善き人のためのソナタ』という映画がはねたあと、近くの公園に弁当を食べに行った。GWの始まりの昼下がり、後楽園をぐるりと囲む旭川はゆたりと流れ、岡山城がかむなび山(聖なる山)の操山を借景として黒くそびえていた。満足して弁当を捨てるゴミ箱を探す。数年前には確かにあったはずの場所にない。公園のどこにもゴミ箱が無い。
「しかたないなあ」 とゴミ箱を探して街に出る。あった、岡山で老舗のラーメン屋の前にダストボックス。近づいてびっくりする。入れ口をガムテープでしっかり止めているではないか。この段階でやっと役所の明確な意思を知る。 「それほどまでにテロが怖いのか?数年前と比べて市民が何か悪いことをしたとでもいうのか?」 ぶつぶつ言いながら、コンビニを探す。まさかコンビニのゴミ箱まで撤去していることは無いだろう。おお、あった。セブンイレブンの前にカンカン入れとともにゴミ箱。私はやっとじゃまくさい弁当ガラを処分してほっとする。今日は、コンビニの前がいつもとは増して明るく感じる。コンビニにしてもこのようなちょっとした便利がカスタマーサービス(顧客満足)の一環なのだろう。役所にしても、街の中にコンビニは適当な位置に配置されているからちょうどいいのだろう。けれども、ふと思う。 なぜコンビニなのだ?なぜコンビニだけが許可されているのだ? コンビニが行政に献金などで圧力をかけた?けれども、ゴミ処理費用は馬鹿にならないコストがかかるはず、費用対効果でそれは無いだろう。役所は街中のコンビニのゴミ処理費用は例外としただろうか。そんな報道は耳にしたことが無い。 少し視点を変えて考えてみる。 なぜコンビにだけはゴミ箱の設置が許可されているのか? テロの危険性なら、人が多く出入りするコンビニのほうが危険ではないのか。いや、待てよ。人が多く出入りする‥‥‥?コンビニの前は明るい‥‥‥?24時間開いている‥‥‥?そしてコンビニの大きなガラス面から中を見ると壁と天井の角のところにある黒い物体がわずかにこちらに向いている。そうか。コンビニには監視カメラがあった。おそらくカメラのひとつは店の中から外のほうにも向いているのだろう。何しろ、雑誌万引きを監視する必要がある。そうか、だからこそコンビにだけはゴミ箱設置が「許可」されているのだ。 それほどまでに いつの日から 我々は監視されなければ 「許可」されない存在になってしまったのか いつの日から 我々は監視されることを 「許して」しまったのか 今日私は、外からのゴミをここコンビニに捨てた事は「許された」のだろう。けれどもそれも許されなくなる日は近いのではないだろうか。先日、岡山ではタバコポイ捨て禁止条例が制定された。同じ理屈で、やがてあらゆるゴミは「地球環境のために持ち帰り」「自己責任で」処理をしなければ罰せられることになるだろう。そのためには、あらゆる行動は監視され、機械だけでは間に合わないので密告を奨励することになるだろう。 ある日「これぐらいはいいだろう」と思ってした私の行為はたちまちのうちに国家公安委員会によって知られることになり、共謀罪の成立を待たなくても、その先例つくりの一環として逮捕されるだろう。そして取調室で「おまえ、実はよからぬことを計画しているだろう?」と凄まれ、「黙秘しても無駄だよ、吐いちまいな。この監視ビデオの記録がある限り、起訴は出来るんだよ。今吐いたら、罰金刑で済ましてやるからさ。知っているかもしれんが、日本の刑法じゃあ、起訴されたら99.9%は有罪になるんだぞ。へっ、へっ、へっ。」(参照映画「それでもボクはやってない」)と脅される。私ついに折れる。「ごめんなさい。私が悪うございました。実はゴミを捨てただけではなくて、畏れながら○○も○○も、しいては国家に歯向かう○○まで計画していて、さらにはブログで○○のようなことまで書いていました‥‥‥」 ‥‥‥だんだん話が妄想の世界に入ってきたので(コンビニでゴミ箱を見つけるところまでは事実です)そろそろ本題(?)の映画の感想を書きます。(すみません。あまりにも長い前ふりでした*_*) 「善き人のためのソナタ」 監督・脚本 : フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク 音楽 : ガブリエル・ヤレド 出演 : ウルリッヒ・ミューエ 、 マルティナ・ゲデック 、 セバスチャン・コッホ この映画は、東ドイツ末期の監視体制がどこまで徹底して行われたか、その中で体制側の人間だった国家保安省(シュタージ)局員のヴィースラーが何故変わることが出来たのかを描いた映画である。 ヴィースラーの短い呟きがかえって彼の心の中の嵐を語っていて見ごたえがあった。結局、長い間インテリとして信じてきた体制の正義を超える価値観を植えつけたのは、決定的だったのは、感情のこもった音楽であった。 現在30歳以上の日本人の多くは社会主義国家は恐ろしいところだと教え込まれてきたと思う。ものがない国、自由が無い国、監視社会、管理国家‥‥‥。しかしこの映画を見て判るようにこれほどまでの管理社会でもやはり「西側」の書物は比較的容易に手に入れることは出来たようだ。西側のラジオはたとえ役所の地下作業所でも容易に聞くことは出来た。問題は社会主義国家なのではない。国家のありようなのだと思う。アメリカやイギリスを例に取るまでもない、自由なはずの現代日本においても、いつの間にか「監視社会」になっている可能性があるということは、上で書いた通り。 「美しい国」で私の妄想が本当にならないよう、出来ることは少しでもしていきたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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