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カテゴリ:邦画(08)
雪が降っています。正月明けからこの方、土日月毎に大小含めて降っています。でもこれは特別異常気象ではない。ほんの20年ぐらい前までは、比較的温暖な岡山でもこれが毎冬の風景でした。
無音で降り積もり、景色が変わっていくのを眺めていると、日本に生まれてよかったな、と思います。 昨晩「デスノートthe Last name」をテレビをしていて、なんとか後半の一時間を見ました。改めて、漫画版よりは金子修介監督の映画版のほうが、言いたいことを全部言いつくした優れものであるということを認識しました。 物語の筋は、「人の死を決定づけるノート“デスノート”。退屈な死神が人間界にノートを落とし、拾ったのは世界に退屈しているエリート大学生、夜神月。」(goo映画より)そして、月と天才探偵「L」との頭脳戦がはじまるわけです。 昨年映画「デスノート」前後篇が公開されて、漫画版も店で品切れ騒動を起きるぐらいヒットしたとき、前と後の間に私も漫画版を全巻読み終えました。でも、感想を早く書かなくっちゃと思いながら、ほったらかしにしていました。 書きたいことが多くて、めんどくさくなったからでありません。これほどまでに若者に支持され、セリフが多く緻密な物語のように一見思えるのだけれども、読み終えた感想は、「なんて薄っぺらな漫画なんだ」ということでした。人気に後押しされて一応手塚治虫漫画大賞の選考作品にはなりましたが、何の賞も取りませんでした。当然です。若者は二手三手先を読む理知的な展開に翻弄され、ゲーム慣れをしたものでも「すごい作品だ」と感心していたようです。あるいはテーマとして、「正義の殺人は成り立つか」ということをほ掲げていたので、なんか深いものがあると勘違いしていた人もいるようです。結果はちゃんちゃら可笑しいものでした。 先が読めないのは当たり前で、物語の途中でどんどん「デスノート」のルール「付け加え」があるのです。最初から「顔と名前を思い浮かべながら名前をノートに書けば、その人の死は自由に操ることができる」というだけのルールのままで通したならば、誰でも最後の結末は予測することができたでしょう。でもあのようなルール変更があれば、たとえ50手先を読むことができる将棋の有段者でも結末を予想することはできなかったに違いありません。じゃあ、テーマ的に深いものがあるか、ということなのですが…。 テーマは昔から何度も何度も問われた古臭いものです。夜神月(ライト)は言います。「正義さえあれば、殺人は許される。法律で裁くことができていない悪は無数にある。(証拠不十分で釈放された殺人鬼、汚職代議士等々)。選ばれしものなら、彼らを殺すことは許されていい。そのあとにこそユートピアは来るはずだ。その証拠に私がキラによる裁きを始めてから犯罪率が70%も下がったではないか」 これは、ドストエフスキー「罪と罰」のラスコーリニコフが「戦争で多くの人を殺したナポレオンは英雄である。選ばれた優秀な人間は人を殺すことができる」といって金貸し老婆を殺したこととほぼ同義の考え方だろう。 古臭いけれども、これはこれで本当に重要な問いだ。 私の「罪と罰」観であるが、ラスコーリニコフは最後の最後まで、老婆に対する罪を自覚していなかったと思っている。だから、実はいまだにこの問いに対する答えは出ていないのである。(もし出ているのなら、「正義の戦争」に対して誰もが明確に肯定あるいは否定をすることができるだろう) では漫画版では、その問いにどうこたえているだろうか。 実はほとんど答えていないのである。もちろん、問いを発した主人公の夜神月は最後には死ぬ。しかし、なぜ死んだのか、あたかも「ゲームに敗れたから死んだのだ」としか取れないような終わり方なのである。もっとひどい取り方は「弱い者は死んでいい」というようにさえ取れる。原作者は、答えを放棄している。あるいは、とんでもない考えの持ち主なのだろう。 しかし、映画版は違う。敵役の天才探偵「L」は、デスノートを二冊とも焼却処分にしているので、結局正義の殺人自体を否定したという形になっている。夜神月の父親で警視の夜神総一郎は、息子の問いに対してこのように答えている。「確かに法律は完全じゃない。けれども人類の歴史の中で、ここまで努力して完全なものに近付ける努力をしてきた。それを否定するおまえは間違っている」と。紋切ではあるが、とりあえず、法治思想の最良部分であろう。これは漫画の原作者よりも、映画の監督のほうがよっぽと「大人」である、ということの証なのだろうと思う。 さいきん、テレビは数年ごとに「幼児化」してきている。倖田來未の羊水発言にしてもそうだ。代議士の発言じゃないのだから、きちんとした謝罪は必要だろうが、「次の犠牲者を探す」的な取り上げ方はどうかと思う。問題はこのテレビの視聴率至上過ぎの考え方だろう。あるいは、あのような漫画が売れる、ということなのだろう。 漫画版「デスノート」は去年のフィーバーがうそのように今は店の本棚に普通の漫画と同じように並んでいる。読者は結局、「デスノート」の底の浅さを見破っていた。と、私は思いたい。この並び方に私は今は微かな「希望」を抱いている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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