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カテゴリ:考古学
20日の朝日新聞の追悼欄に岡山大学名誉教授、考古学者の近藤義郎氏の記事があった。
私の尊敬する考古学者の一人である。「発掘50年」という本の紹介でもその一端を紹介したが、戦後の考古学史のエポックとなった発掘を数多く手がけた。当然私も幾つもその遺跡を記事にしている。 古代製塩の実態を明らかにした喜兵衛島(香川県)、延べ一万人が参加し戦後の国民的歴史学の一翼を担った月の輪古墳(岡山県)、「超大物」の弥生首長墳丘墓である楯築墳丘墓(同)、最古の埴輪を追った都月坂1号墳(同)。それらの成果は「前方後円墳の出現をもって古墳時代と考える」と説いた著書「前方後円墳の時代」(1983)に結実する。 前方後円墳と吉備・大和 70代になって発行された「前方後円墳と吉備・大和」(吉備人出版)では、吉備の弥生時代の祭祀の中心である特殊器台と共に実に多くの人間が大和に移り住む。吉備の中心は大和に移った。という説を唱えた。近藤先生は「考古学と古代史のあいだ」の白石太一郎氏とは違い、決して文献を利用しない。よって、邪馬台国の「や」の字も出ない。純粋に「物」の証拠のみでそういうことを言ったのである。そこから、二世紀から三世紀にかけて日本列島に何が起こったのか、明らかにするのは後世の仕事である。 私は佐原真によって「考古学の視点から平和を論じる」ことを学び、近藤義郎によって「吉備の地方から国つくりを考える」視点を学んだ。考古学を学び始めてまだ10数年、二人にはこれからもお世話になる。 近藤義郎が亡くなったのは4月5日(84歳)だが、その死は遺言で半年伏せられたという。お別れの会の予定もないというほどの徹底振りである。秋に私もその報を接し、岡山の実に多くの人間が「何をそこまでしなくても…」という感想を持った。ある教え子は「先生らしいといえば先生らしいんですが…」という。先生の教え子で「怒られなかった学生はいなかったんじゃないでしょうか」という。他人に対する以上に、自らに厳しい人だった、と宮代記者は書いている 来年さくらの季節にもう一度、都月坂一号墳を探しにいきます。先生安らかにお眠りください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年12月22日 23時22分52秒
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