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明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 ご無沙汰していました。生きています。年末、30日に無事韓国から帰って来ていたのですが、次の31日にどうしてもTOHOシネマズの一ヶ月フリーパスポートを取らないと、ポイントが失効してしまうために映画館に行ってしまいました。それから四日間は怒涛の映画の日々でした。パスポート以外の三本含めて11本見たといえば、家に帰ってPCを開ける間もなかったということも分っていただけますでしょうか。 と、いうわけで、そのうちの一本に付いて紹介したいと思います。 「真夜中のカーボーイ」 去年の映画「マイ・バック・ページ」で、妻夫木演じる主人公が、この映画の感想を女子高生タレントから聞かれて、「最後がみっともない」みたいなことを言うと、彼女は反論し、「私はダスティンホフマンが怖い、怖いって云うところが好き、私はきちんと泣ける男の人が好き」と言うのである。この言葉は、この作品の最も重要な台詞で、私はこの半年ずっとこのことを考えて来た。やっと午前10時の映画祭で観ることが出来た。 果たして、ダスティンホフマンは、「怖い」と言ったときには泣いているわけではなかった。彼がボロボロ涙を流して泣いたのは死ぬ直前の失禁した事に気が着いた時だ。しかし、心の中では「怖い、怖い、死ぬのが怖い」と泣いていたに違いない。彼女は心の中で映画を観ていた。 「きちんと泣ける」とはどういうことだったのか。 ドングリさんから教えていただいたのであるが、ウィキペディアでは、アメリカンニューシネマについてこう書いている。 「 ヴェトナム戦争への軍事的介入を目の当たりにすることで、国民の自国への信頼感は音を立てて崩れた。以来、懐疑的になった国民は、アメリカの内包していた暗い矛盾点(若者の無気力化・無軌道化、人種差別、ドラッグ、エスカレートしていく暴力性など)にも目を向けることになる。そして、それを招いた元凶は、政治の腐敗というところに帰結し、アメリカの各地で糾弾運動が巻き起こった。アメリカン・ニューシネマはこのような当時のアメリカの世相を投影していたと言われる。 ニューシネマと言われる作品は、反体制的な人物(若者であることが多い)が体制に敢然と闘いを挑む、もしくは刹那的な出来事に情熱を傾けるなどするのだが、最後には体制側に圧殺されるか、あるいは個人の無力さを思い知らされ、幕を閉じるものが多い。つまりアンチ・ヒーロー、アンチ・ハッピーエンドが一連の作品の特徴と言えるのだが、それは上記のような鬱屈した世相を反映していると同時に、映画だけでなく小説や演劇の世界でも流行していたサルトルの提唱する実存主義を理論的な背景とした「不条理」が根底にあるとも言われる。 」 この作品の中でも、これらの世相は描かれてはいるが、ジョンボイトとダスティンホフマンは、断じて反体制人物ではない。ただ、社会の矛盾の中で隅に追いやられた者だ。偽カーボーイのボイトは、 働くのか嫌で有閑マダムに売春をするためにテキサスからニューヨークに来たのだ。その試みは失敗し、マイアミに逃げる途中でホフマンがなくなるのである。ホフマンは、未来のボイトだった。その事に最後までボイトは気がついていない。全く気がついていないのである。恐ろしいほどに彼は最後まで泣かない。 本当に泣いているのは、終始ボイトだった。泣くべきは、自分の人生を後悔し、立ち直らなくてはならなかったのは、ボイトだったのだ。 女子高生は、あの時ボイトを責めていたのである 。そして、作品自体は、妻夫木の号泣で終わった。「マイ・バック・ページ」は反省のかけらもなかった偽反体制人物の松山ケンイチを責めている作品になっていたのだが、実際のモデルである川本三郎は、本を読むと全学連シンパであった自分を全く反省してはいない。川本三郎も原作の中では泣いていない。 さて、現代の私は果たして「きちんと泣いた」だろうか。涙をこらえてかっこつけて、そして大事なものを落として未来にむかわなかっさただろうか。現代の原発を推進した人たちは果たして「きちんと泣いた」だろうか。私は泣いていないように思う。 「きちんと泣ける」このことが、いかに難しいか、私はこれらも考えていかなければならない。 │<< 前日へ │翌日へ >> │一覧 │ 一番上に戻る │ |