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「赤刃」長浦京 講談社 初めて読者モニターなるものに挑戦した。単行本の見本誌(プルーフというらしい)という四六版の簡易製本で読んだ。しかし、しっかり275頁ある読み応えのある時代小説である。2012年1月5日、刊行予定(つまり読んでから一ヶ月たって今は市場に出ている)。 小説現代長編新人賞受賞作品らしい。 江戸初期、徳川家光の治世。百を超える<辻斬り>の災禍に、江戸の町は震撼していた。殺戮集団の主犯は、戦国の英雄、元津藩士の赤迫雅峰とその一党。幕府が送る刺客は次々と返り討ちにあい、老中・松平伊豆守は切り札となる<掃討使>に旗本・小留間逸次郎を任命する。赤迫対逸次郎、血塗られた闘いは連鎖し、やがて市中は戦場と化す……。 「命とはそれほどに価値あるものか。他人の命が惜しくないように己の命も惜しくない。なあ、そもそも命を惜しむとはどういうことだ、教えてくれ逸次郎」 赤迫一味のひとり、稲津はそう言って死んでゆく。 赤迫の行いのどれもが、樽木屋の目には美しく映った。下品に切り散らかすだけでない、気高さがある。つい先ほど音羽を討ち取ったときの、刀の運び、槍さばき、磨かれた舞のようなそのそれらの動きのすべてが、狂気とは忌むものではなく麗しいものだとうったえかけているようだった。本能のままに生きた末にあるものが絶望ではないと、赤迫は、この男は感じさせてくれる。 「何を狂ったことを。おまえは狂っている」 「そうとも狂っている。武士などという狂った存在は、この太平な世に必要ない」 最初、比較する作家で思い出したのは、作家初期は鬱屈した心情を作品に投影した藤沢周平だった。しかし、やがて似て非なるものだと思う。はるかにドライでそして非情な人物が登場する。次ぎに思い出したのは、末期がんを宣告され闘病生活中に作品を残した稲見一良だった。彼も初期の作品は晩期のファンタジーではなく、異種格闘家が山の中で生命の奪い合いを行う「ソー・ザップ!」という作品を残している。長浦氏も闘病生活のあとにこの作品を書いたという共通項がある。ただ、「ソー・ザップ!」で死人は出るが、それは主要人物だけだった。この作品のように、社会も壊れてしまえ、というような怪物は出てこない。次ぎに思い出したのは、去年の映画「十三人の刺客」の刺客たちの標的、明石藩主の松平斉韶である。斉韶が一番赤迫と共通項がある。ただ、赤迫のほうがはるかに自覚的である。 この作品の主人公は逸次郎であるが、力点はあきらかに、辻斬りを百人以上行い大名の嫡子を誘拐して幕藩体制に公然と挑戦状を送っている赤迫一党の「狂気」に向けられている。これも地下鉄サリン事件、秋葉原事件のような大量殺人事件が起こりえる現代日本に出るべくして出た時代小説なのかもしれない。著者は現在難病と闘っていると云う。おそらく、その体験が死を乗り越えた先にあるものへの「何か」に向かったのだろう。「生きるとは何か、死ぬとは何か」その問いかけがこの作品の中にある。ただ、私はそれがすべての権威を破壊し、「狂気」に走る方向に向かった赤迫をああういう死に方で終らしてフォローしなかったのには、共感しない。いまのところ、逸次郎はただの狂言回しでしかない。逸次郎の妻とのエピソードをもっと膨らましていたならば、別の物語になったのではないか。 ちなみに講談社に感想文として送ったのは、以下の文です。 字数が限られていて、とても意は書きつくせない(字数を合わせるため上の文章を若干削っています)。 この作品の主人公は逸次郎であるが、力点はあきらかに、敵役赤迫一党の「狂気」に向けられている。これも地下鉄サリン事件、秋葉原事件のような大量殺人事件が起こりえる現代日本に出るべくして出た時代小説なのかもしれない。著者は現在難病と闘っていると云う。おそらく、その体験が死を乗り越えた先にあるものへの「何か」に向かったのだろう。「生きるとは何か、死ぬとは何か」その問いかけがこの作品の中にある。ただ、私はそれがすべての権威を破壊し、「狂気」に走る方向に向かったのには共感しない。逸次郎の妻とのエピソードをもっと膨らましていたならば、別の物語になったのではないか。 [読書フィクション(12~)]カテゴリの最新記事
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