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「親鸞 下」講談社文庫 五木寛之 「仏様より呼びかけられてする返事だから、仏よりいただいた念仏、というのですね」 「そう思う」 綽空は自分で自分の言葉を確かめるように、二、三度うなずいた。 「それが他力の念仏だ。自力の念仏とは、仏たすけたまえ、とこちらから呼びかける念仏。これまで範宴のころ、比叡のお山までわたしがずっととなえておったのは、その自力の念仏であった。いまはちがう。よばれれば何度でも、はい、と返事をする。一度の呼びかけできっぱり信心がさだまる幸せ者は、いちどの念仏でよかろう。だが迷い多く、煩悩深き悪人のわれらは、呼ばれた声をすぐ忘れたり、とかく逆らったりしがちなものだ。そんな情けない愚か者には、二度、三度と呼びかけられるのが仏の慈悲。だから一度念仏しただけでも往生できる。まして、呼ばれるたびに何度でもはいと愚直に答える者が、どうして救われないことがあろうか。念仏は一度がよいか、それとも多く念仏するのがよいか、などと議論するのは、そもそもおかしいと私は思う。一念なお往生す、いわんや多念においてをや、と法然さまがおっしゃねのを聞いたことがあるのだよ」 法然の弟子になった直後の綽空のころは、一念と多念についてはこのように明確に答えていた親鸞であるが、「でも、悪人が救われるなら悪事はやり放題、というもの達には、なんと申しましょう」という問いには明確に答えることができない。 悪人正機説の当然出てくるこの問いに対して明確に答えるのは、「激動編」を待たねばならない。しかし、最終決着をつけるのは現在連載中の最終の巻きなのだろうと思う。 下巻では親鸞が法然の弟子になり、やがて法然と同時に京の都を追われるまでを描く。 [読書フィクション(12~)]カテゴリの最新記事
東京新聞の連載で、ずっと読んでいました。五木寛之って直木賞の感じで、親鸞が窮地に立たされると、割と劇画チックな方法で解決するのが気に入らないけど、念仏への親鸞の考えなんか、よく説明されてましたね。最終的には念仏者は生きているうちに救われるけど、悪人が死ぬ時に念仏を唱えると、死後の世界で救われる、、、に落ち着いた?最後にやっと唯円?が出て来て「出家とその弟子」の世界になりそう。次を期待してます。下の次は「完」でしょうかね?(2012年01月25日 10時16分29秒)
薔薇豪城さん
> 東京新聞の連載で、ずっと読んでいました。五木寛之って直木賞の感じで、親鸞が窮地に立たされると、割と劇画チックな方法で解決するのが気に入らないけど、念仏への親鸞の考えなんか、よく説明されてましたね。 じつは、次の「激動篇」を、読者モニターで既に読んでいます。親鸞は雨乞いを否定しているのだけど、せざるを得なくなります。雨が降らなくて、絶体絶命の時に雨が振り出すのです。ちょっと都合が良いですね。 最終的には念仏者は生きているうちに救われるけど、悪人が死ぬ時に念仏を唱えると、死後の世界で救われる、、、に落ち着いた?最後にやっと唯円?が出て来て「出家とその弟子」の世界になりそう。次を期待してます。下の次は「完」でしょうかね? ----- 悪人正機説は、言葉では完成しているようですが、最終的決着は完結編に持ち越しているみたいです。(2012年01月26日 01時10分54秒)
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善悪の判断の違いの人がいる。その 善悪の因果が 未来になる。悪いことの結果が 恐ろしい。BATIとはあるのだろうか? 宗教研究会(名前検討中 (2012年04月20日 22時43分16秒) │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |