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「親鸞 激動篇」五木寛之 講談社 この一月に単行本が出たばかりであるが、読者モニターでいち早く読ませてもらった。 激動篇では、親鸞の壮年時代を描く。35歳の時に越後に流罪になったあと、むしろそれからが親鸞の思想が花開くときだったようだ。 関東常陸の国へ足場を移し、念仏の教えを広めていたとき、弁円という修験者が親鸞の暗殺に赴く。 弁円は親鸞のかおをまっすぐ見ていった。 「われらは山中修験の功徳を世間の人びとに伝えて生きている。病気平癒を祈り、家内安全、五穀豊穣を願う。そのための呪文と、そなたたちの念仏と、どこが違うのだ」 「われらがとなえている念仏とは、依頼祈願の念仏ではない。阿弥陀さま、おすくいください、と念仏するのではないのだ」親鸞の言葉に弁円は戸惑いを覚える。 「われらの念仏とは、自分がすでにして救われた身だと気づいたとき、思わず知らず口からこぼれでる念仏なのだ」 おそらく親鸞の「革新」とは、かつてそして今でも日本人に根付いている「現世利益」を徹底的に否定し、純粋な阿弥陀信仰を追い求めていった処にあるのだろう。坊さんの頭の中にでは無く、それを日常生活の中にひろめて行くのは、どうしたのか。五木版「親鸞」は、それを哲学書では無く、エンターテイメントで描き切った。 エンターテイメント性を重視しすぎて、越後では親鸞が本来否定しているはずの「雨乞い」を大々的に行う羽目なる。失敗すれば命がない、しかし親鸞は目の前の困っている民を見捨てきれず行なってしまうのだ。そして最後の最後に奇跡が起こる。雨が降らなかったら降らなかったで、親鸞の思想が試される面白い展開になったはずなのだが、五木寛之は前巻を終わらす必要があったのか劇的な展開を用意してしまった。‥‥‥そういう弱点はあるものの、とっても面白く読める、というまさに「庶民のための」親鸞像を打ち立てる。 此処には、今までに良く描かれた「聖人親鸞」の姿はない。混沌とした中世の時代の中で、走り、怒り、悩み、おののき、間違い、後悔し、それでも真実を求めてもがいている念仏者の姿がある。あまりにも人間的な親鸞がいる。 黒面法師との三度目の対決も描かれる。母親を殺し、殺人拷問を好み、仏塔を焼き、悪を反省せず、最後まで念仏に耳もかさない極悪人も果たして「すくわれる」のか。前巻とはまた一歩進んだ親鸞の言葉を読むことが出来る。 悪人正機説、はここで一応の完成を見ているようにも思える。しかし、それを実践の場で確かめるのは次の章を待たなければならないのかもしれない。何しろ、黒面法師との最終決着はまだついていないのである。 この黒面法師、この作品のもう1人の主人公なのだろう。どの様に決着がつくのか、とっても楽しみである。 最後のあたりで、「歎異抄」を書いた唯円が登場、次回に楽しみを持たせている。 [読書フィクション(12~)]カテゴリの最新記事
あしあと がわりに・・・
親鸞の「革新」とは、かつてそして今でも日本人に根付いている「現世利益」を徹底的に否定し、純粋な阿弥陀信仰を追い求めていった処にあるのだろう。 革新を実戦する上の、心の拠り所ではあったんだろうな・・・ と思いました。(2012年01月27日 10時53分18秒)
Maryam F Dさん
>あしあと がわりに・・・ > >親鸞の「革新」とは、かつてそして今でも日本人に根付いている「現世利益」を徹底的に否定し、純粋な阿弥陀信仰を追い求めていった処にあるのだろう。 > >革新を実戦する上の、心の拠り所ではあったんだろうな・・・ >と思いました。 ----- それは単なる「信仰」なのだと思います。 日本人ほど、信仰に現世利益を求める民族はいません。 けれども、キリスト教などは純粋に天国に行きたいだけの為にあらゆる艱難忍苦に耐えている人が大勢います。 日本でそういう純粋な信仰を自覚したのは、中世では親鸞一人であった、というのは加藤周一氏の言です。(2012年01月27日 22時04分25秒) │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |