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ラッコの映画生活

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2007.07.02
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カテゴリ:フランス映画
LA PIANISTE
Michael Haneke
131min

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寸評:重く、痛く、苦しい作品。名作には違いないが、映画を見ることに何らかの「楽しさ」を求める人には決してお勧めできない。ハネケの映画が苦しいのは、ストーリーが重いからなのではなく、観客をエンターテインするよりも巻き込もうとする作りだからだ。

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ミヒャエル・ハネケの映画というのは、ある個人や社会の中にある相矛盾する欲求や要素、それは本来何らかの形でバランスを保ち、統合されていることが望ましいのだが、その統合の不能性に陥っってしまった、いわば統合失調症を描いているとは言えないだろうか。そしてそれを描いて見せるだけではなく、観客を自問に追い込み、観客をその葛藤に巻き込む作りなのだと思う。この監督はオーストリア人だが、フランスで映画を撮ることが多く、この『ピアニスト』も舞台はオーストリアのウィーンであるのにフランス系の俳優を使ってフランス語で撮られている。ウィーンと言えばフロイトでもあり、この作品では社会の問題よりもフロイト的世界とでも言おうか、個人の内面を題材としている。

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この作品には原作がある。この映画よりも後の受賞だがオーストリアの女性作家、2004年ノーベル文学賞受賞のエルフリーデ・イェリネク(Elfriede Jelinek)の小説だ(Die Klavierspielerin)。この作家は過要求の母親に育てられ精神発達のバランスを崩し、それで文学を書き始めた人らしいが(彼女の著作を読んだことはない)、この作品は彼女の自伝的小説ということだ。映画もイザベル・ユペール演ずるピアニスト・ピアノ教師エリカとアニー・ジラルド演ずる母親との壮絶なバトルで始まる。仕事を終えて帰ってきた四十過ぎの娘を「仕事が終わってから3時間も何をしていたんだい」と問いつめ、叱責し、勝手に娘のバッグの荷物検査はするわ、部屋に入って娘の買ったオシャレな服を見つけて非難し、破ってしまったり。「親にそんな口をきくなんて」などと、ひっつかみ合いの壮絶な喧嘩になるのだけれど、最後は「ごめんなさいね」と抱き合って和解してしまう。成人した四十過ぎの娘と母親の喧嘩というよりも、小さな娘と母親の喧嘩だ。(後でわかるのは、母親の部屋はドアに鍵がかかるけれど、娘の部屋には鍵はない。余談だけれど、鍵はなくとも洋館のドアは内開きだから、ドアの前に箪笥とか置いてしまえば閉じこもれるんですね。)

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そんなエリカが母親と連れ立って知人の私的なサロン演奏会のようなものに行く。建物の下で母娘は同じ演奏会にやってきたブノワ・マジメル演ずる若いワルターに出会うのだけれど、母娘は先にエレベーターに乗って扉を閉じワルターを乗せない。これがヨーロッパ映画によく出てくる鉄格子・金網張りで、中が見えるオシャレな(?)旧式のエレベーター。ワルターはエレベーターの周囲をめぐる螺旋階段を昇って、枠越しに途中の階の踊り場で母娘と目を合わす。これが檻の中の母娘と外のワルターといった趣きで、殻に籠って外界(ここでは端的に愛情の対象としての若い異性)を拒絶する母娘を象徴しているのだろう。

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サロンではエリカもワルターもピアノを演奏し、何故かワルターはエリカに接近する。その様子になんとなく警戒した視線を向ける母親。そしてこの後ワルターはエリカがピアノ科の教授を勤める音楽院で試験を受けてエリカの生徒となり、彼女に迫っていく。この辺の何故、つまりかなり年上のエリカにワルターが好意を持ったことの何故は、あまり明確ではない。恐らく抑圧した彼女の性、抑圧のゆえにある種強い形で発散された性に惹かれたとでも言おうか。

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そう、彼女は過要求で権威的・支配的な母親に、ピアノ、ピアノ、ピアノ、だけで、残りの欲求はすべて抑圧する形で育てられ、また今もそれが続いている。(以下ネタバレあり)女の性の欲求の抑圧、それはエリカの中で男性的な原理でなされてきた。厳格な規律主義であり、またサディズムでもある。自らの性器をカミソリで切って出血させたり、ポルノショップの個室で前の男性が屑篭に残した精液のついたティッシュを嗅いで恍惚とする、そんな屈折した形でしか女性の性を発散できない。そんなエリカが普通に女を求めるワルターと上手く関係を持つことなどできるわけがない。彼女はワルターと部屋に閉じこもり、ワルターに対して支配的に接して、しかしその支配的・命令的枠のもとに、ベッドの下に隠し持っている性具を差し出して自分をいたぶるようにワルターに願う。ワルターがこれについていけるはずはなかったが、マゾヒズムという形で女性の性を男に提示すること、これが彼女としては精一杯のことだったのだろう。

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途中の経緯は書かないが、この映画では「血」が象徴としての意味を大きく持たされている感じがした。その他は浴室のバスタブといい、コンツェルトハウスのトイレといい、音楽院のエリカの白く殺風景な部屋といい、アイスホッケーのスケートリンクといい、最後のコンツェルトハウスのガラス張りの玄関といい、クールで感情を排除したような環境、またピアノの鍵盤を弾く手を真上から即物的に撮ったり、全体としてクールで感情がない。そうしたクールで色的には白い中に描かれる赤い「血」。それが内面の欲望・情念の噴出として描かれているのではないだろうか。(以下結末をバラしてます)最後にエリカは自分が怪我をした生徒の代役でピアノを弾くはずの会場のロビーで、白いブラウスの上から持ってきたナイフで胸を軽く刺す。赤い血が白いブラウスにわずかに滲む。これは恐らく彼女の自殺、つまりこれまでの自分の自殺でだろう。内なる欲望の象徴としての赤い血を外に滲み出させる。そして代役という、自分以外のものを演じることを拒否し、新しい本当の自分として生きることに向けて会場を去っていったのではないだろうか。

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Last updated  2007.07.09 00:10:04
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