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栄光の名馬たち

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Kyuboの日記 [全24件]

2010/07/26楽天プロフィール Add to Google XML

ディープインパクト


ディープインパクト

 

2004年12月19日阪神競馬第5競走の2歳新馬戦(芝2000m)で武豊を主戦騎手に据えてデビュー。

2着のコンゴウリキシオーに4馬身の差を付けてデビュー戦を勝利。

レース後、厩務員の市川は、このデビュー戦の強い勝ち方に「派手にやってしまった」と消耗を
心配したが、レース後すぐに息が戻っていたので「クラシックでも戦える」と思ったという。

競馬評論家の井崎脩五郎が、翌日に行われたイベントで「今まで(=数十年間)見てきた中で、
一番『これは強い』と思ったレースは?」と振られ「昨日のディープインパクトの新馬戦」と答えたほど
の圧勝であった。

続く2005年1月22日・京都での第2戦目の若駒ステークスは最後方から競馬をしたが、直線で一気に
突き抜け5馬身差勝利。

この勝ちっぷりで、ディープインパクトの名が一気に全国区となった。

更に中山での第42回弥生賞。関東では初出走となったが2歳王者のマイネルレコルトや京成杯を制した
アドマイヤジャパン以下に、クビ差ではあったものの鞭を一回も振るわずに勝利し、クラシックの最有力馬
に躍り出る。

第65回皐月賞では、単勝支持率が63.0%(オッズは1.3倍)と、1951年のトキノミノルの73.3%に次ぐ
史上2位となった。

直線では、レースで初めて鞭が入り(4角で一瞬気を抜く場面があったので鞭を入れたと武豊
は証言している)、2着のシックスセンスに2馬身半の差をつけ勝利。

迎えた東京優駿、当日の東京競馬場には14万人もの観衆が押し寄せた。

左回りコースは初出走となったが単勝支持率は73.4%(オッズは1.1倍)とハイセイコーの持っていた
当競走における単勝支持率最高記録を更新する人気となった。

直線では一頭先に抜け出したインティライミに残り200m地点で並んでから同馬を突き放して
5馬身の差をつけ、前年のキングカメハメハに並ぶ2分23秒3のレースレコードタイで優勝し、1992年の
ミホノブルボン以来となる史上6頭目の無敗の二冠を達成した。

武豊はインタビューで「感動しています。この馬の強さに…」と言い、レース後の記念撮影では指を
2本立てて二冠をアピールした。

 

秋初戦となった神戸新聞杯は、2着シックスセンスに楽に2馬身半の差をつける完勝。

そして三冠のかかった2005年10月23日の第66回菊花賞。

直線ではアドマイヤジャパンを差し切り2馬身差をつけて優勝。

シンボリルドルフ以来、21年ぶり史上2頭目の無敗での三冠馬となった。

ちなみに、ゴール前での馬場鉄志アナウンサーの実況「世界のホースマンよ見てくれ!
これが!日本近代競馬の結晶だ!」は2005年のFNSアナウンス大賞を受賞した。

菊花賞後は、史上初となる無敗でのグランプリ制覇を目指し、古馬と初対決の有馬記念
に出走した。

ハーツクライに半馬身及ばず2着に完敗、8戦目にして初黒星を喫した。

2005年の活躍をうけ、この年のJRA賞では年度代表馬および最優秀3歳牡馬に選出された。

関西競馬記者クラブ賞も受賞した。

 

2006年初戦の阪神大賞典ではデルタブルースやトウカイトリックを寄せ付けず3 1/2馬身の差
で優勝。

4月30日、続く第133回天皇賞(春)。

第4コーナーで早くも先頭に立つと、上がり最速の3ハロン33秒5の脚を
繰出し、リンカーン(2着)に3 1/2馬身の差をつけ優勝し、レース史上最高の単勝支持率75.3%
に応えた。

勝ち時計の3分13秒4はレコードタイムで、1997年の第115回競走においてマヤノトップガンが記録した
3分14秒4のレコードを1秒更新した。

5月8日、凱旋門賞出走に向けた海外遠征プランが発表され、その前哨戦として6月25日に京都競馬場
で開催される第47回宝塚記念に出走する事となった(宝塚記念は例年、阪神競馬場で施行されるがこの年
は阪神が芝コースの外回りの新設工事に伴い京都で代替開催となった)。

当日の京都競馬場は雨で馬場が悪くなっていたが、直線では馬場外目を鋭く伸び2着の
ナリタセンチュリーに4馬身差を付け優勝した。

なお三冠馬がこのレースを制したのはシンザン以来41年ぶりとなる。

 

そして8月9日、凱旋門賞出走のために帯同馬のピカレスクコートと共に出国し、現地時間9日
午後2時56分にフランスに到着した。

9月13日には凱旋門賞が開催されるロンシャン競馬場でも調教が行われた。

10月1日、凱旋門賞は8頭という史上2番目の少頭数で行われた。

レースでは好スタートを切り、今までの控える競馬とは違い道中2~3番手でレースを進めると、
残り300m地点で一旦先頭に立ったものの突き放すことはできず、残り100m地点でレイルリンクに、さらに
ゴール直前でプライドにも交わされて3位入線に終わった。

敗因として武豊は「直線もハミを取っていなかった。いつもならある、もうひとつのギアを出すこと
ができなかった」と語っている。

また、レース上がり5ハロンが56秒台と非常に先行馬にとっては厳しい流れであり、先行した馬で
ディープインパクト以外は沈んでしまっている。

ところが、レース後の理化学検査ではフランス競馬における禁止薬物イプラトロピウムが検出され、
ディープインパクトは失格になった。

この遠征について競馬評論家の石川ワタルは、「禁止薬物の詳細に無頓着なままフランスへ行き、
世界最高峰レースに敢然と立ち向かう構図」「世界の眼からはドン・キホーテ的な立ち居振る舞いに見える
ことだろう」と評した。

 

ディープインパクトは10月4日にフランスから日本に帰国し、競馬学校で検疫が行われた。

そして10月8日に池江によって10月29日の天皇賞(秋)が復帰初戦の予定とされたため、特例により
同レースが開催される東京競馬場で着地検査が行われた。

10月11日には2006年限りで現役を引退することが発表され、51億円(8500万円×60株)のシンジケート
が組まれ種牡馬となることが決定した。

この額は日本で繋養された種牡馬としては史上最高価格である。しかしそのわずか数日後、上述の
禁止薬物騒動が起こり、調教自体は続けられたものの、ディープインパクトの周辺は天皇賞どころでは
ない雰囲気となってしまった。

結局、「帰国してから日が浅いので」(池江談)天皇賞を回避し、同馬による同年・春秋連覇の夢は
消え日本国内での復帰初戦は第26回ジャパンカップにずれ込む事となった。

正式に凱旋門賞失格が通告されたのはその直後である。

迎えた11月26日の復帰戦ジャパンカップでは、2005年の有馬記念以来となったハーツクライとの再戦
に注目が集まった。

競馬マスコミは両馬の再戦を煽ったが、ディープインパクトは上述の薬物騒動→凱旋門賞失格の
ゴタゴタがまだ払拭されておらず、ハーツクライも、陣営が同馬に喘鳴症の兆候がある事を明かす

(この時点では、レースには影響ないはずというスタンスであった)等、世紀の再戦というにはやや
影のあるムードだった。

ディープインパクトの単勝支持率は61.2%で、日本国内で走ったレースの中では最も低かったが、
これでもジャパンカップ史上最高の支持率だった。

なお、同レースは海外からは当年のカルティエ賞年度代表馬ウィジャボードを含む2頭しか出走せず、
日本馬を合わせても11頭しかいないという、ジャパンカップとしては少数立てのレースとなった。

(理由はディープの強さを他の厩舎が知っていたことにより出走回避が相次いだ為)

レースはディープインパクトが終始最後方で待機、直線に向くと内に入ったウィジャボードを初めと
する他馬を一気に捲くり、直線残り400mあたりからムチの連打で追い込み、残り200m付近でドリーム
パスポートを差し切り、2馬身差をつけ優勝した。

レース後は武豊がウイニングランを行い、ファンに健在ぶりをアピールした。

そして表彰式に出るときに武豊はファンと一緒になって万歳三唱をした。

記念撮影では武の5本指に金子オーナーの1本指が加わって六冠を表す6本指が出来た。

一方、再戦ムードを盛り上げたハーツクライは、陣営の予測以上に喘鳴症が進行しており、まったく
見せ場なく10着に敗れた。

 

そして12月24日、引退レースとなる有馬記念に出走した。

事前に行われたファン投票では119,940票を集め2年連続1位、かつファン投票で選ぶレースとしては
3レース連続(2005年有馬記念・2006年宝塚記念・2006年有馬記念)1位となった。

引退レースとして注目が集まったこのレースで単勝支持率は70.1% (オッズ1.2倍)と1957年に
ハクチカラが記録した76.1%に次ぐ史上2位となった。

レースでは道中は後方3番手につけ、3コーナーから追い出して直線で早々と先頭に立つと、最後は
流しながらも2着ポップロックに3馬身の差をつける圧勝で、見事に有終の美を飾った。

武豊が「生涯最高のレースができた」(翌日のスポーツニッポンの手記にて)と言うほどのレース内容
だった。

また、このレースでシンボリルドルフやテイエムオペラオーに並ぶ中央競馬GI7勝の最多タイ記録
(史上3頭目)を達成し、獲得賞金ランキングでもテイエムオペラオーに次ぐ単独2位にランクイン
した。

この後、ウイニングランは行われなかったが、記念撮影では武の5本指に金子オーナーの2本指が
加わって七冠を表す7本指が出来た。

そして有馬記念当日の全競走が終了した後に引退式が行われた。

約5万人のファンが見守る中、同日の有馬記念のゼッケンを付けて登場し、ファンに最後の勇姿
を披露した。

2006年のJRA賞では2年連続の年度代表馬(2002年・2003年のシンボリクリスエス以来の2頭目。
啓衆社賞・優駿賞時代も含めると5頭目)および最優秀4歳以上牡馬に選出された。

JRA賞選考委員会の記者投票では総得票数289票のうち年度代表馬で287票、最優秀4歳以上牡馬で
288票を獲得した。

昨年に続き関西競馬記者クラブ賞も受賞した。

 

2006年12月25日付で競走馬登録が抹消され、2007年から北海道勇払郡安平町の社台スタリオン
ステーションで種牡馬となった。

現在ディープインパクトは、父サンデーサイレンスや、ノーザンテースト、リアルシャダイが過ごした
功労馬厩舎で過ごしている。

2007年2月14日には社台スタリオンステーションで引退後初めての一般公開が行われ、会場には
約1200人のファンが集まった。

2008年5月8日平成20年度顕彰馬選出投票において競馬担当記者による投票で186票中164票を獲得し、
28頭目の顕彰馬(競馬殿堂入り)に選出された。

それを記念してJRA競馬博物館の1階メモリアルホールにおいて「祝 ディープインパクト号殿堂入り
記念展」が5月17日より開催され、馬主服の複製や東京優駿とジャパンカップ優勝時装着した蹄鉄などが
展示されている。








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Last updated 2010/07/27 11:57:50 AM
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2010/07/01

ハイセイコー
[ 名馬 ]  

3歳時(1972年)



1972年7月12日大井競馬場でデビューし、6連勝。その内容は、常に2着馬に7馬身以上の着差をつける
圧勝で、初戦と4戦目はレコード勝ち。

いずれのレースにおいても騎手が本気で追うことは無かったという。

青雲賞というレースに勝った(1600メートル)ことから、現在は同馬を顕彰しハイセイコー記念という
名称に替わっている。



4歳時(1973年)



1973年1月12日、ホースマンクラブに5000万円で購入され、中央競馬への移籍が決定。

同月16日に鈴木勝太郎厩舎へ入厩した。

移籍の経緯については諸説あり、日刊競馬は初めから予定されていたものであったとする。

また作家の赤木駿介は、ホースマンクラブの代表者が大井競馬の関係者から、条件次第ではハイセイコー
を購買できるという噂を聞きつけたのがきっかけとなったとしている。

陣営は、移籍初戦として東京競馬場で行われる東京4歳ステークスに出走出来るものならしたかったが、
当時の中央競馬には『地方から移籍した競走馬は移籍後1ヶ月間レースに出走する事が出来ない』という
ルールがあった為に出走は不可能であり、弥生賞への出走を決定した。

弥生賞では1番人気に応える形で勝ったものの、レース内容は地方在籍時のような圧倒的なものではなく、
後位からじりじりと伸びるというものであった。

レース中の反応も悪く、騎手の増沢末夫は敗戦を覚悟したと言う。

弥生賞の内容に不満を覚えた陣営は、中2週で3月25日のスプリングステークスに出走させた。

しかし、ここでも勝ちはしたものの、期待するほどのパフォーマンスを見せる事は出来なかった。

2走とも上がり3ハロンが39秒台という事が落胆させる材料ともなった。

厩舎関係者によると、弥生賞・スプリングステークスおいてハイセイコーが苦戦した原因は、
馬場(ダートと芝)の違いに適応しきれていなかった事。

そしてハイセイコーの「ハミ受け」(ハミのくわえかた)が悪かった事だという。

しかし皐月賞前までにハミ受けの矯正に成功し、4月15日の皐月賞に臨んだ。

レースでは序盤は好位を進み、第3コーナーで早くも先頭に並びかける積極的な戦法をとりクラシック
初戦に勝った。

皐月賞勝利後は5月27日の東京優駿(日本ダービー)が目標となった。

しかしその前に東京競馬場で行われるトライアルのNHK杯に出走する事となった。

ハイセイコーには日本ダービーが行われる東京競馬場での出走経験が無く、後述のように初めての場所
で物見をする癖があったため、スクーリングのためにNHK杯に出走しておこうと考えたからである。

前述のルールにより、東京競馬場を経験出来なかった事がここに来て響いてきたのである。

レースでは終始インコースに閉じ込められて中々抜け出す事が出来なかったが、ゴールまで200mを
切った地点から鋭い伸びを見せ、ゴール手前でアタマ差抜け出してカネイコマ(皐月賞2着)、
ディクタボーイ、サンポウらをまとめて交わし、かろうじて勝利を収めた。

しかし、苦戦しながらも『並みの馬なら負ける所を勝った』と専門家によって高く評価され、
日本ダービーでは圧倒的な1番人気に支持された。

レースでは第3コーナーで早くも前方への進出を開始し、直線で一時は先頭に立ったものの、
タケホープ、更にはイチフジイサミに相次いで差され、勝ったタケホープから0.9秒離された3着
に敗れた。

『レースに使われ続けたことで疲労が蓄積していた』『増沢騎手が早くスパートさせすぎた』
『人気があり過ぎて大胆な追い込み作戦がとれなかった』等(増沢自身は一番後者の説を自著で主張して
いる。)敗因について様々な推測を生んだ。

また、血統論者からは、母の父が短距離血統のカリムだから距離適応の限界が露呈したという見方が
多く示された。

なお、調教師の鈴木は厳しいローテーション、血統による距離の限界の可能性を認めた上で「左回りが
苦手だった」ことを敗因の1つに挙げている。

また、優勝したタケホープに騎乗した嶋田功は「単にローテーションが詰まっていただけでなく、無敗
で来ていたので出るレースすべて勝つつもりで仕上げなければならなかったはず。それが疲労につながった
のでは」と語っている。

夏場は北海道へ移送せず、東京競馬場で調整されることとなった。

北海道の調教コースは半径が小さかったため大型馬のハイセイコーが足を痛める危険があり、また涼しい
北海道から本州へ移送する際に暑さで参ってしまう可能性もあったからである。

9月18日、クラシック最後の一冠である菊花賞を目指し、前哨戦である京都新聞杯に出走させることが
決定し、関西へ向けて出発。輸送中、調教師、調教助手、厩務員の3人がともに馬運車に乗り込むという
異例の体勢で輸送された。

10月21日に行われた京都新聞杯では1番人気に支持されたがトーヨーチカラの2着。

陣営はハイセイコーの道悪馬場適性に出走前まで疑問を持っていたため、道悪であったが馬場の外目を
通って差すことを選択したが勝ち馬には届かない格好となってしまった。

敗れたものの休養明けで久々のレースであったため陣営はこの結果を悲観しておらず、11月11日の
菊花賞に出走。

先行して直線入り口で最内を走り、馬場の中央を伸びたタケホープと内外大きく分かれて殆ど同時の
ゴールインだった。

結果、ハナ差の2着に惜敗した。

その差は僅か13cmという。敗戦を惜しんで「2分の1ハナ差負け」と言った者もいた。

12月16日の有馬記念にはタケホープが出走せず、ハイセイコーは古馬を差し置いて1番人気に
支持された。

レースはハイセイコーとタニノチカラが互いを牽制しあう展開となったために2頭よりも前方でレース
を進めたストロングエイトとニットウチドリ(同年の桜花賞、ビクトリアカップ優勝馬)に有利な展開と
なり、ハイセイコーは2頭を捉えることができず、3着に敗れた。

この年、ハイセイコーは競馬ファンのみならず一般社会をも巻き込んだブームの立役者となったこと
が評価され、優駿賞(現在のJRA賞)の「大衆賞」(現在のJRA賞特別賞に相当)を受賞した。

ちなみにこの年の年度代表馬はタケホープが獲得した。



5歳時(1974年)



1974年1月20日、アメリカジョッキークラブカップに出走。

タケホープに2.1秒引き離され、生涯最低着順の9着に敗れた。

タケホープ出走を聞きつけて、急遽参戦したとも言われている。

3月10日、中山記念に出走。

不良馬場の中、トーヨーアサヒに2.0秒、タケホープに2.2秒差をつけ優勝した。

5月5日、天皇賞(春)に出走。同競走に備えてハイセイコーは4月初頭に栗東トレーニングセンターへ
輸送され、体調は非常に良好であったが、レースが行われる予定の週に厩務員がストライキを起こし、
レースの施行日が一週間延期された。

その間に体調を崩してしまい、結局レースはタケホープが勝ち、ハイセイコーは1.0秒差の6着に
敗れた。

6月2日、宝塚記念に出走。

デビュー以来始めて単勝1番人気をストロングエイトに明け渡したものの、レコードタイム(2分12秒9)
を記録して2着に5馬身差で圧勝した。

陣営はこのレースにタケホープが出走していなかった事を悔しがり、「タケホープには出せない
レコードタイムだ!」と、テレビインタビューで豪語していた。

なお、このレコードはメジロライアンが1990年に更新するまで保持されていた。

同月23日、高松宮杯に出走。管理調教師・鈴木勝太郎の息子で当時調教助手であった鈴木康弘
(現・調教師)によると、当初は東京競馬場へ帰り休養に入る予定であったが、体調が良かったため名古屋
のファンへ顔見せをするために出走に踏み切ったという。

61キロの斤量を克服し、アイテイエタン以下に快勝した。

高松宮杯出走後は東京競馬場で休養に入り、秋初戦は10月13日の京都大賞典に出走。

2番人気の4着に終わった(1着はタニノチカラ)。

続いて天皇賞(秋)に出走予定であったが、11月9日のオープン戦でヤマブキオーの2着した後に
鼻出血を発症したために1ヵ月の出走停止処分が下され、出走を断念した。

この事はNHKのニュースでも報じられている。このオープン戦ではタケホープ(3着)に先着
している。

12月15日、引退レースの有馬記念に出走し2着。調教助手が認める程の調整の失敗があり、
最も重い540キロの太め残りで参戦し、辛うじて連対を果たした。

優勝馬はタニノチカラ。なおこの時、八大競走の中では初めてタケホープにクビ差で先着。

史上初の生涯獲得賞金2億円馬となった。レースはタニノチカラの独走だったが、フジテレビは
ハイセイコーをずっと追い続け、増沢の歌う『さらばハイセイコー』を挿入歌として放送するなど、
レース放送としては極めて特殊な構成となっていた。

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Last updated 2010/09/30 4:24:36 PM
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2009/12/18

トウショウボーイ
[ 名馬 ]  


4歳(1976年)

 

初戦は4歳を迎えた1976年1月31日、東京競馬場の新馬戦で迎えた。

直前の調教では1600mで1分45秒という当時の新馬としては破格のタイムを出し、素質馬として注目を
集めていた。

当日は1番人気に支持されると、池上昌弘を鞍上にスタートから逃げ切り、2着に3馬身差を付けて
初戦勝利を挙げた。

この競走には後にTTGの一角としてライバル関係となるグリーングラス(4着)と、後にミスターシービー
を産むシービークイン(5着)が出走しており、「伝説の新馬戦」としてしばしば語られる。

続くつくし賞(2月22日)、れんげ賞(3月20日)もそれぞれ4、5馬身差で圧勝。

同時期、関西では5戦5勝という成績を挙げていたテンポイントがクラシックへの最有力馬と目されて
おり、これに対してトウショウボーイは関東所属馬の筆頭格とされた。

当年の皐月賞は、4月18日に例年開催の中山競馬場で施行される予定だったが、これが春闘の最中に
当たり、開催3日前に厩務員組合と調教師会の交渉が決裂。

組合側がストライキを宣言して開催は順延となり、翌週25日に東京競馬場で行われる運びとなった。

これで調整に狂いが生じたテンポイント陣営に対し、トウショウボーイは順調に競走当日を迎えた。

当日の1番人気はテンポイント、トウショウボーイは2番人気であったが、レースでは先行策から最後
の直線半ばで抜け出すと、テンポイントに5馬身差を付けての圧勝を収めた。

走破タイム2分1秒6は、同じく東京開催で行われた第34回競走(1974年)において、同父の
キタノカチドキが記録したタイムを0秒1更新するレースレコードであった。

この卓越したスピード能力と、首を低く下げて走る独特の走法から、競走後にはマスコミから
「天馬」との異名を付され、以後これが定着した。

皐月賞の圧勝を受け、東京優駿(日本ダービー)当日は単枠指定(シード)を受け、43%の単勝支持を
受けた。

レースでは逃げ戦法を採る馬がおらず、押し出されるように道中では先頭を走り、余裕のある手応えで
最終コーナーを回った。

しかし直線入り口の地点で、クライムカイザー鞍上の加賀武見が「馬体を併せられると怯む」という
トウショウボーイの弱点を突き、その外側から進路を横切るように内側へ抜け出す。

怯んだトウショウボーイは残り200m地点で4馬身の差を付けられ、態勢を立て直して追走するも届かず、
1馬身半差の2着に終わった。

場内のファンには加賀の騎乗は進路妨害と映り、スタンドは一時騒然となった。

しかし充分に間隔を取っての騎乗と認められ、加賀への制裁・戒告は行われなかった。

北海道に戻り1ヶ月の休養後、7月11日に札幌記念に出走。

これに併せてクライムカイザーも出走馬に加わり、当時ダートコースしか備えていなかった札幌競馬場
には、入場人員記録となる60,549人のファンが訪れた。

トウショウボーイは1番人気の支持を受けたが、スタートで立ち後れて後方からの
レース運びとなる。

最後の直線では追い込みを見せながらグレートセイカンにクビ差届かず、再度の2着に終わった。

ダービーに続く敗戦の責を負わされる形で、この競走を最後に池上は降板となった。

クラシック最後の一冠・菊花賞に向け、秋は神戸新聞杯から始動。

当時「天才」と称されていた福永洋一を新たな鞍上に迎えた。レースは先行策から直線入り口で
抜け出すと、クライムカイザーに5馬身差を付けて圧勝。

1分58秒9は芝2000mの日本レコードタイムであり、日本競馬史上初めてとなる1分58秒台
の記録だった。

それまでのレコードはシルバーランドが記録した1分59秒9であり、これを一挙に1秒短縮、関西テレビ
で実況アナウンスを務めた杉本清は「恐ろしい時計です、これは恐ろしい時計です」と驚きを
露わにした。

続く京都新聞杯もクライムカイザーを退け、重賞2連勝で菊花賞に臨んだ。戦前から3000mという距離
に対する不安説が出ていたが、当日は単枠指定を受け、単勝オッズ 1.8倍の1番人気に推された。

しかし最後の直線で一旦先頭に立ったものの、直後にテンポイント、グリーングラスに交わされた。

レースは埒沿いを抜け出したグリーングラスが優勝、トウショウボーイは同馬から5馬身差の3着に
終わった。

競走後、福永は敗因として重馬場と距離不適に加え、神戸新聞杯がピークで、調子を落としていたと
の見解を述べた。

1ヶ月後、年末のグランプリ競走・有馬記念に出走。

福永がエリモジョージに騎乗するため、本競走から武邦彦を鞍上に迎えた。

当日はテンポイントや、天皇賞馬アイフルとフジノパーシア、同期の二冠牝馬テイタニヤなどを抑えて
1番人気に支持される。

レースは好位から直線入り口で先頭に立つと、そのままゴールまで押し切り優勝。

1馬身半差の2着にテンポイントが入り、有馬記念史上初めて4歳馬が1、2着を占めた。

走破タイム2分34秒0は2500メートルの日本レコード。

当年、八大競走2勝含む10戦7勝という成績で、年度代表馬と最優秀4歳牡馬に選出された。

 

5歳(1977年)

 

翌1977年は、前年秋の連戦疲労が著しく、さらに両前脚の深管骨瘤も発症して休養に入る。

快復後、天皇賞(春)出走のため関西に移動したが、直後に右肩に不安が出て回避を余儀
なくされた。

6月に入り、春のグランプリ・宝塚記念で復帰。

半年の休み明けで状態の悪さも伝えられており、当日は天皇賞(春)を制したテンポイントに次ぐ
2番人気の評価であった。

しかしスローペースで流れるレースを先頭で引っ張ると、そのままゴールまで逃げ切って勝利を
収めた(競走詳細については第18回宝塚記念を参照)。

3週間後に出走した高松宮杯では、62kgの斤量に加え、不得手の不良馬場という悪条件が重なりながら、
逃げ切りで勝利。

単勝・複勝オッズは共に1.0倍であった。

夏を越したトウショウボーイは、見習い騎手の黛幸弘騎乗でオープン戦(芝1600m)に出走。

2着に7馬身差、走破タイムは日本競馬史上初めて1分34秒を切る、1分33秒6で圧勝した。

次走・天皇賞(秋)では騎手が武に戻り、グリーングラスを抑え1番人気に支持される。

しかし先頭を行った道中で、終始グリーングラスに絡まれてオーバーペースとなり、直線では両馬とも
失速。

7着と初めての大敗を喫した。競走前の状態は良く、保田は「ダービー、菊花賞といい、大レースは
どうも運がない」と語った。

武は敗因について、距離ではなく馬場状態(稍重)であると強調した。

競走後、年末の有馬記念を以ての引退・種牡馬入りが発表される。

戦前は、秋に入り著しい充実を見せていたテンポイントに加え、当年のクラシックに出走できなかった
8戦8勝の4歳馬マルゼンスキーが出走を予定しており、「三強対決」と注目を集めた。

しかしマルゼンスキーは直前で脚部不安を生じて出走を回避し、最終的に出走馬は8頭となった。

当日はテンポイントが1番人気の支持を集め、天皇賞の大敗で評価を落としたトウショウボーイは
2番人気となった。

スタートが切られると、荒れた馬場を見越した武トウショウボーイが先頭に立ったが、直後に鹿戸明と
テンポイントがマークに付き、両馬がそのまま後続を引き離した。

この状態のまま最終コーナーを周り、最後の直線では両馬の競り合いとなった。

直線半ばまではトウショウボーイが先頭を保ったが、残り200m地点でテンポイントに交わされる。

残り100mの地点でトウショウボーイは再度差し返しに行く勢いを見せたが、3/4馬身及ばず2着に
終わった。

しかしその競走内容はマッチレースとも喩えられ、日本競馬史上屈指の名勝負として高く
評価された。

かねての予定通り、この競走を最後に引退。

翌年1月8日には東京競馬場で引退式が執り行われた。

当日は武が同日他場の開催で来られず、池上昌弘が騎乗。

皐月賞勝利時のゼッケン「5」を付けてラストランを披露したトウショウボーイは、ゴール前の200m
では実戦並の10秒5というタイムを記録。

スタンドのファンからは引退を惜しむ声が絶えなかった。








バイト 豊島区



Last updated 2010/09/22 5:33:44 PM
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マルゼンスキー
[ 名馬 ]  



 

1976年に購入時の縁から東京競馬場の本郷重彦厩舎に入厩。

買い手がつかず橋本自身が馬主となる原因となった外向を抱えていた上、本郷は購入の経緯を
知っている事もあり、故障発症を考え思う様な調教が出来ず六分程度の仕上がりで初戦を迎えたが、
デビュー戦でタイプアイバー等を相手に大差勝ちしたのである。

続くいちょう特別も完璧とは程遠い仕上がりで9馬身差圧勝。

しかし、3戦目の府中3歳ステークスは将来を考え、中団に抑える競馬をしたのが裏目に出て、
一瞬前に出たヒシスピードを辛くも差し返し3連勝を飾ったものの、ハナ差という苦戦であった。

そして大一番の朝日杯3歳ステークスは、生涯最高にして唯一の80%程度の仕上げで出走。

レースはほぼ馬なりで1600mを1分34秒4というタイムで走破し、着差は2着ヒシスピード鞍上の小島太に
『バケモノだ』と言わしめた程の13馬身差の圧勝(いわゆる大差勝ち)であった。

その上、本気で追っていたら後2秒は速いタイムを出せたと言わしめる程の内容であった。

この2歳レコードタイムは、14年後の1990年にリンドシェーバーに破られるまで朝日杯
のレコードであった。

明けて1977年、4歳の初戦も2馬身半差をつけて勝利した。

その後は骨にヒビが入り、休養を余儀なくされるも、その休み明け初戦も7馬身差。

余りの強さに他の調教師が恐れをなしてか、マルゼンスキーの出走予定レースは登録が少なく、
常に成立が危ぶまれていた。

4歳の初戦も、不成立になったら朝日杯の優勝レイをかけ、パドックでファンにお披露目するプランさえ
真剣に考えられていたという。

幸い、服部正利が自身の管理馬からリキタイコー他1頭を出走させ、何とかレース
を成立させている。

しかし、持込馬であるマルゼンスキーには当時の外国産馬と同様に東京優駿(日本ダービー)を初め
とするクラシックへの出走資格がなかったのである。

これ以前には持込馬の出走が認められており、また、1984年に再びこの規制は解除されたのだが、
ちょうどこの馬の時代(1971年の活馬輸入自由化以降)には内国産馬の保護政策による規制
が行われていた。

なお、規制解除後、1992年桜花賞のニシノフラワーが、持込馬によるクラシック制覇を達成しているが、
過去には1957年ヒカルメイジが東京優駿に、1970年にはジュピックが優駿牝馬(オークス)に優勝するなど、
持込馬のクラシックホースが存在していた。

東京優駿の前、主戦騎手の中野渡清一(現・調教師)は、『28頭立ての大外枠でもいい。賞金なんか
貰わなくていい。他の馬の邪魔もしない。この馬の力を試したいからマルゼンスキーに日本ダービーを
走らせてくれ』と語った有名な逸話がある。

しかし、東京優駿への出走は叶わなかった。

他方、マルゼンスキー不在の3歳クラシック路線は、皐月賞を前にして早くも『敗者復活戦』と
蔑まれる有様であり、前年のトウショウボーイとテンポイントを中心軸に繰り広げられた激しい東西対決
と比較すれば、なおさらに興味を殺がれるものとなった。

その様な状況では当然として馬券の売上にも少なからぬ悪影響を及ぼすこととなった。

次に出走したのは日本短波賞で、2着となった後の菊花賞優勝馬プレストウコウに 7馬身差
をつけて優勝。

しかもハロン棒をゴール板と勘違いしてペースを落としたものの、それに気付いて再加速をした
マルゼンスキーは直線だけで7馬身突き放すという驚異的な内容であった。

返し馬の時、鞍上の中野渡騎手が雨で4コーナーの内馬場が荒れているのをチェックするために
止まったことをマルゼンスキーが本番でも覚えていてスピードを緩めた、という逸話もある。

猛暑を避けるように札幌競馬場へと移動したマルゼンスキーは、札幌競馬場の短距離ステークス
(ダート1200m)を1分10秒1のレコードで2着ヒシスピードに10馬身差で優勝。

この当時、同じく札幌に来ていた1歳上のトウショウボーイとの対戦が噂されるようになったが、
実現はしなかった。

その後、巴賞→京都大賞典(どちらもを持込馬の出走が可能)の出走を予定し、年末の有馬記念を
目標に調教されていたが、ここにきて先天的な脚部の外向を原因とした屈腱炎を発症し、
前記2レースを回避。

一時はダービー卿チャレンジトロフィー(当時は秋の開催。1977年度は11月20日に開催)を叩いて
有馬記念に出走するプランもあったが、最終的には落馬負傷した中野渡に代わって跨った加賀武見を背に
調教中に不安が決定的なものとなり、引退に追い込まれる。

この年の有馬記念はテンポイントとトウショウボーイのマッチレースとして有名になったレースだが、
このレースへの出走は叶わなかった。

同世代のダービー馬であるラッキールーラなどは、マルゼンスキーとの対戦がなかったために、
対戦のあった馬(ヒシスピード・プレストウコウ等)を使った机上の比較から競走馬としての評価を極めて
低く貶められることとなった。

それが祟って後に種牡馬としては良質な牝馬を集められずに失敗・韓国に輸出される原因の1つにも
なっている。

また、皐月賞馬ハードバージもやはり種牡馬としては成功できずに乗馬となり、最後には観光施設で
ショーや馬車に用いられる使役馬となり斃死する末路を辿るなどしたため、後に競馬マスコミがこの世代を
総括する際、マルゼンスキーがクラシックに出走できなかった事も含めて、『マルゼンスキーの影に
泣かされた悲運の世代』として語られることとなった。

 

その他

 

その爆発的なスピードと、海外から来たというイメージからスーパーカーと呼ばれたが、逆に自身の
スピードと、生まれつき外向していた前脚が負担となり、引退を余儀なくされてしまった。

通算8戦8勝で大差勝ちが2つあり、これらを含めた全成績を走破タイムから着差に換算すると、
2着につけた差の合計が61馬身。











Last updated 2011/02/09 5:49:11 PM
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ミスターシービー
[ 名馬 ]  


3歳時(1982年)

 

11月16日、東京開催の新馬戦でデビューを迎える。

鞍上は母の主戦騎手でもあった吉永正人が務め、以後引退まで一貫して吉永が騎乗した。

この初戦は先行策から2着に5馬身差を付けて快勝し、初戦勝利を挙げる。

しかし2戦目の黒松賞(400万下条件戦)では、スタートの出遅れから先行勢に追い付いていく展開
となり、直線での先行馬との競り合いを制してのクビ差辛勝となる。

そして年末に出走したひいらぎ賞(800万下条件戦)では、発走時に発馬機内で激しく暴れた末に、
スタートで再び大きく出遅れた。

前走では先行集団に追い付くまでに体力を消耗していたため、吉永は無理に前を追い掛けず、そのまま
後方待機策を取った。

結果、先行したウメノシンオーにクビ差届かず、ミスターシービーは初の敗戦を喫した。

しかし最後の直線で鋭い追い込みを見せたことにより、以降ミスターシービーは追い込み馬として
定着した。

 

4歳時(1983年)

 

翌1983年は、2月13日の共同通信杯4歳ステークスから始動。

後方待機から第3コーナーで位置を上げていくと、前走で敗れたウメノシンオーとの競り合いを
アタマ差制して優勝、重賞初制覇を果たした。

続く弥生賞では、レース後半に内埒沿いのコースから馬群の間を縫うように上がっていき、この時点
で自己最速の上がり3ハロン35秒8を計時して快勝した。

4月17日、クラシック初戦・皐月賞を迎える。

当日の競走は降雨の中で、追い込み馬には不利とされる不良馬場での施行となった。

シービーは道中16-17番手を進むと、向正面から先行馬を捉えに上がっていき、最終コーナーでは
先頭を行っていたカツラギエースの直後に付けた。

最後の直線に入ると早々に先頭に立ち、直後に追い込んできたメジロモンスニーを半馬身
抑えて優勝。

クラシック最初の一冠を獲得した。

これは吉永にとっても初めてのクラシック制覇であり、松山にとっては開業9年目での八大競走初制覇
となった。

続く二冠目の東京優駿(日本ダービー)では、単勝オッズ1.9倍の圧倒的1番人気に支持された。

競走前のパドックにおいて、シービーのトレードマークともなっていたハミ吊りが切れ、競走生活で
唯一となるハミ吊りなしでの臨戦となった。

20を優に越える頭数で行われていた当時のダービーには「10番手以内で第1コーナーを回らなければ
勝てない」とされた「ダービーポジション」というジンクスがあった。

しかしシービーはスタートで出遅れて最後方からの運びとなり、道中は先頭から20馬身程度離れた
17番手を進んだ。

その後、向正面出口から徐々に進出すると、第3コーナー出口の地点では先頭から6番手の位置まで
押し上げた。

しかし最終コーナーに入った地点で、外に斜行してきたタケノヒエンを回避した際、さらに外を走って
いたキクノフラッシュと衝突した上、後方から進出してきたニシノスキーの進路を横切る形となった。

ミスターシービーはそこから体勢を立て直して先行勢を追走すると、内で粘るビンゴカンタを一気に
交わし、そのままゴールまで駆け抜けて1位で入線した。

皐月賞に続き、2着にも追い込んだメジロモンスニーが入った。

競走後、第4コーナーにおけるキクノフラッシュとの衝突、ニシノスキーへの進路妨害に対する審議が
行われた。

この結果、ミスターシービーの優勝に変更はなかったが、吉永には開催4日間の騎乗停止と、
優勝トロフィーの剥奪という処分が下された。

競走後はクラシック最後の一冠・菊花賞に備え、夏場を休養に充てた。

放牧には出されず、美浦に留まっての休養であったが、この最中に挫石を起こして蹄を痛め、
さらに夏の暑さと痛みのストレスから夏風邪に罹った。

これを受け、秋緒戦に予定されていたセントライト記念を断念、前哨戦は関西に移動しての京都新聞杯
に切り替えられた。

10月23日に迎えた復帰戦は単勝オッズ1.7倍の1番人気となるも、前走から12kg増と太め残りで、
精気も乏しかった。

レースの流れも先行馬有利のスローペースで推移し、勝ったカツラギエースから7馬身以上離されての
4着と、初めて連対(2着以内)を外す結果となった。

しかし調整途上で一定の走りを見せたことで、松山は体調が良化したと判断し、クラシック最終戦へ
向けて厳しい調教を課していった。

三冠が懸かった菊花賞では1番人気に支持されたが、スタミナ豊富とは言えず、本競走にも敗れていた
父の印象から、3000mという長距離に対する不安説も出ていた。

スタートが切られると、道中は1000m通過59秒4という速めのペースの中、最後方を進んだ。

しかし周回2周目の第3コーナー上り坂から先行馬を次々と交わしていくと、ゆっくり下ることが
セオリーとされる最終コーナーの下り坂を、加速しながら先頭に立った。

このレース運びに観客スタンドからは大きなどよめきが起こり、また関係者からも驚き
の反応が出た。

しかしシービーは大きなリードを保ち続けて最後の直線を逃げ切り、1964年のシンザン以来19年振りと
なる、史上3頭目の中央競馬クラシック三冠を達成した。

ゴールの後、民放テレビの中継アナウンスを務めた杉本清は、「驚いた、もの凄い競馬をしました。
ダービーに次いでもの凄い競馬をしました。坂の下りで先頭で立った9番のミスターシービー」と驚き
を露わにした。

後に吉永はレース運びについて、「ぼつぼつ行くつもりだったんだけど、シービーが全速力で
行っちゃった。僕はただ捕まってるだけでしたよ」と語っている。

 

5-6歳時(1984-1985年)

 

翌1984年初戦にはアメリカジョッキークラブカップ出走を予定していたが、施行馬場が降雪により
ダートに変更される可能性が高くなり、出走を取りやめた。

この頃より蹄の状態が再び悪化し、次走予定の中山記念も回避し、春シーズンは全休となった。

10月初旬に毎日王冠で復帰したが、1番人気は公営・大井競馬から中央に移籍してきたサンオーイ
であった。

しかし、レースでは後方待機からカツラギエースを捉えきれず2着に敗れたものの、当時としては破格
の上がり3ハロン33秒7(推定)を計時した。

なお、この前日から東京競馬場に初めて「大型映像ディスプレイ(ターフビジョン)」が設置され、
後方を進むシービーがスクリーンに映った瞬間には、スタンドから大きな歓声が上がった。

このレースで健在を印象付け、次走天皇賞(秋)(10月28日)に臨んだ。

当年から施行距離が3200mから2000mに大幅短縮されたことで中距離向きのシービーに有利とも見られ、
単勝オッズは1.7倍という圧倒的な1番人気に支持された。

レースは縦長となった隊列の最後方を進み、一時先頭から約20馬身の位置に置かれる形となる。

しかし第3コーナーからスパートを掛け始めると、直線では最後方大外から全馬を抜き去って優勝し、
四冠馬となった。

走破タイム1分59秒3はコースレコード。

また、この勝利によりシンザン以降続いていた天皇賞(秋)の1番人気連敗記録を19で止めた。

次走に選択したジャパンカップでは、日本競馬史上初めてとなる三冠馬同士の対戦が実現した。

当日はシービーが1番人気、ルドルフは4番人気という順となった。

しかしシービーは終始後方のまま10着と大敗。ルドルフも3着に終わった。

レースは10番人気という低評価を受けていたカツラギエースが優勝し、日本勢として初めての
ジャパンカップ制覇を果たした。

この競走でシービーは闘争心を発揮しなかったといい、後に吉永は「先行策を採るべきだった」と、
自身の騎乗ミスを口にしている。

年末に迎えた有馬記念では、出走馬選定のファン投票で第1位に選出されたが、当日の単勝人気は
シンボリルドルフに次ぐ2番人気となった。

レースは常の通り後方から進んだが、早めに抜け出したシンボリルドルフ、さらに逃げ粘った
カツラギエースも捉えきれず、3着に終わった。

競走生活最後の年となった1985年は、3月31日の大阪杯から始動。

当日1番人気に支持されるも、格下と見られたステートジャガーに競り負け、2着に敗れた。

迎えた天皇賞(春)で三度シンボリルドルフと対戦。

この競走では松山の指示により新馬戦以来となる先行策を採り、最終コーナーでは一旦ルドルフに
並び掛けた。

しかし直線で突き放され、同馬から10馬身以上離された5着に終わった。

その後脚部不安を生じて休養、夏に函館競馬場に入って調教を再開したものの、直後に骨膜炎を
発症して復帰を断念し、引退。同年10月6日に東京競馬場で引退式が執り行われた。

翌1986年、四冠が評価される形で顕彰馬に選出。

1984年に父トウショウボーイも選出されていたため、史上初の父子顕彰馬となった。









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Last updated 2010/04/02 10:28:18 AM
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メジロマックイーン
[ 名馬 ]  


4歳時(1990年)

 

1990年2月、阪神の新馬戦でデビューし、初勝利を挙げる。

2着には1馬身強の差だったが、3着以下には10馬身以上の大差を付けた。

池江が東京優駿(日本ダービー)を視野に入れたというほどの楽勝だったが、その後は骨膜炎が完治
しなかったこともあり、3戦続けて惜敗を続ける。

これを受け陣営は秋の菊花賞に目標を切り替え、マックイーンは休養に出された。

9月に復帰して緒戦を2着とした後、2週間後の木古内特別(500万下条件戦)で2勝目を挙げると、翌週も
連闘で大沼ステークスに出走し、連勝する。

この後は菊花賞に向け、兄メジロデュレンと同じく嵐山ステークスに出走した。

しかし先行してレースを進めながら、直線で進路を失う不利もあって2着に敗れる。

これにより賞金不足で菊花賞への出走が危ぶまれたが、回避馬が出たことで出走にこぎつけた。

前走の敗戦は鞍上・内田浩一のミスとされ、本番に向けて誰を騎乗させるかが焦点となったが、
メジロの総帥・北野ミヤの取り計らいにより、引き続き内田での臨戦となった。

重賞初出走の条件馬であったが、長距離向きと見られる血統的な特長と、前走の追い切りで当日1番人気
のメジロライアンに先着するなど調子の良さが考慮され、4番人気に支持される。

レースでは終始先行すると、最終コーナーでスパートをかけてゴールまで押し切り、2着ホワイト
ストーンに1馬身1/4差をつけ優勝した。

1番人気のライアンは3着となり、フジテレビ系列放送で実況アナウンスを務めた杉本清は
「メジロでもマックイーンの方だ!」という言葉を残した。

稍重馬場での競走ながら、優勝タイム3分6秒2は菊花賞史上3位(当時)の走破タイムだった。

この後は「有馬記念はライアンに獲らせたい」という馬主の意向もあり、年末の有馬記念を回避、
休養に入った。

 

5歳時(1991年)

 

休養明け初戦は阪神大賞典から始動。ここから内田浩一に替わり、鞍上に武豊を迎えた。

レースも危なげなく勝利し、かねて目標としていた天皇賞(春)に向かう。メジロライアン、
ホワイトストーンとの「3強」の争いという前評判であったが、当日は単勝1.7倍の圧倒的1番人気に支持
された。

レースでは菊花賞と同様に先行、直線で抜け出して、2着のミスターアダムスに2馬身半差をつけて
優勝。

1984年に死去したメジログループ前総帥・北野豊吉の宿願であった父子3代天皇賞制覇を達成し、
口取り撮影(競走後に行われる記念撮影)では、武が馬上で豊吉の写真を掲げた。

続く宝塚記念も単勝1.4倍の1番人気に支持されたが、直線で先に抜け出したメジロライアンを
捉えきれず、2着に敗れた。

休養を経ての秋初戦は京都大賞典に出走、2着に3馬身半の差を付け勝利する。

しかし、タマモクロス以来の天皇賞春秋連覇を目指した天皇賞(秋)では、プレクラスニーに6馬身差
をつけて1位入線するも、スタート直後に内側に斜行、プレジデントシチー(18位入線)の進路を妨害した
ことで、18着に降着となる。

GI競走での1位入線馬の降着処分は日本競馬史上初めてのことで、一般紙でも武豊の騎乗が大きく
取り上げられた。

その後はジャパンカップでゴールデンフェザントの4着に敗れ、年末の有馬記念では先行押し切りを
図るも、15頭中14番人気のダイユウサクにゴール前で差し切られ、2着に終わった。

秋はやや精彩を欠いたものの、通年の安定した走りが評価され、翌1月には当年の最優秀5歳以上牡馬
に選出された。

 

6歳時(1992年)

 

1992年は前年と同じく阪神大賞典から始動、同競走連覇を達成し、天皇賞(春)に向かう。

このレースは、前年のクラシック二冠馬で、デビュー以来7連勝を続けるトウカイテイオーとの
「世紀の対決」が大きな話題となった。

レースでは先行策から抜け出してトウカイテイオーを5着に退け、史上初の春の天皇賞連覇
を達成した。

また、鞍上の武豊は1989年のイナリワンから天皇賞(春)4連覇となった。

しかし、次走予定の宝塚記念に向けた調教中に骨折(左前脚部第一指節種子骨骨折:全治6ヶ月)
が判明し、長期休養を余儀なくされる。

 

7歳時(1993年)

 

1993年、復帰戦の大阪杯をコースレコードで優勝し、天皇賞(春)3連覇に挑んだ。

しかし、前年ミホノブルボンのクラシック三冠を菊花賞で阻んだライスシャワーに徹底マークされ、
直線半ばで交わされて2着に敗れた。

次走の宝塚記念では勝利を収め、GI競走の連続年度勝利記録となる4年連続GI制覇を達成した。

秋初戦の京都大賞典では、2分22秒7という当時のコースレコードで、レガシーワールドに3馬身半差を
つけ優勝。

この結果、獲得賞金が史上初の10億円突破となった。

しかし、天皇賞(秋)4日前に左前脚部繋靱帯炎を発症、そのまま引退・種牡馬入りが発表され、
約1ヶ月後の11月21日、京都競馬場で引退式が行われた。









Last updated 2011/02/09 5:57:20 PM
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トウカイテイオー
[ 名馬 ]  


出生・デビューまで

 

父は競走馬時代にクラシック三冠を含むGI競走7勝を挙げ、「皇帝」と称されたシンボリルドルフ。

母トウカイナチュラルは、優駿牝馬(オークス)優勝馬トウカイローマンの半妹である。

幼駒の頃のテイオーは脚が長く華奢な身体付きで、一見して見栄えは良くなく、それほど高い評価は
受けていなかった。

しかし運動を始めると非常に柔軟性のある動きを見せ、関係者の期待を集めた。

競走年齢の3歳となった1990年10月、滋賀県栗東トレーニングセンターの松元省一厩舎に入る。

競走名は幼名から冠名を替えたのみの「トウカイテイオー」で登録された。

 

3-4歳時(1990年-1991年)

 

12月1日、中京競馬場の新馬戦でデビュー。

鞍上は松元厩舎の馬に多く騎乗していた安田隆行が務めた。

当日は1番人気に支持されると、これに応えて2着に4馬身差を付けて初戦勝利を挙げる。

以降も安田を鞍上に、年末のシクラメンステークス、翌年1月の若駒ステークスと連勝。

クラシックへの有力候補として、またシンボリルドルフ初年度産駒の逸材として注目を集め、皐月賞に
向けての東上緒戦・若葉ステークスでは、生涯最高となる66.28%の単勝支持を受けた。

この競走も2着に2馬身差で勝利を収め、通算4戦4勝、全戦で一度も鞭を使われない完勝という内容で、
皐月賞を迎えた。

クラシック第1戦の皐月賞(4月14日)は、重賞未勝利馬ながら、GI優勝馬のイブキマイカグラと共に
単枠指定を受ける。

当日は前哨戦弥生賞を制していた同馬を抑え、1番人気に支持された。

レースでは大外18番枠から先行すると、直線で早めに抜け出して優勝、クラシック初戦を制した。

1馬身差の2着には後方から追い込んだ16番人気のシャコーグレイドが入った。

同馬はシンボリルドルフに三度敗れた三冠馬ミスターシービーの産駒であったことも注目された。

競走後の記念撮影において、安田はシンボリルドルフ主戦騎手の岡部幸雄に倣い、馬上で「まず一冠
獲得」を意味する人差し指を掲げ、「三冠獲り」を宣言した。

続いて、二冠目を目指して東京優駿(5月26日)に出走。

前走と同じく大外枠(20番)の単枠指定を受け、単勝オッズは皐月賞を上回る1.6倍と、圧倒的な支持を
集めた。

レースはスタート直後にスムーズに6番手につけ、最後の直線で大外から抜け出す。

最後は後続を突き放し、2着レオダーバンに3馬身差の快勝。

父シンボリルドルフと同様、無敗のまま二冠を達成した。

競走後には祝福の「ヤスダコール」が起こり、記念撮影では皐月賞に続き、安田が馬上で二本指
を掲げた。

安田は「ダービーに関しては(シンボリルドルフより)テイオーの方が強い勝ち方だったのでは」と
語り、またレオダーバンに騎乗した岡部幸雄は「(安田が)3、4回ミスしてくれても敵わなかった」
と述べた。

東京優駿で8枠の馬が1着となった史上初の事例でもあった。

競走後には親子二代の無敗のクラシック三冠達成への期待が大きく高まった。

しかしテイオーは、表彰式を終えて競馬場内の出張馬房に戻る時点で歩様に異常を来しており、
診療所でレントゲン撮影が行われた。

レントゲンの結果、左後脚の骨折が判明。

3日後には公式に「左第3足根骨骨折・全治6ヶ月」と発表され、年内の休養と最後の一冠・菊花賞の断念
を余儀なくされた。

当年の菊花賞にはレオダーバンが優勝している。

翌年1月に発表されたJRA賞では、無敗の二冠が高く評価され、年度代表馬と最優秀4歳牡馬、さらに
5頭のGI優勝馬を抑え、最優秀父内国産馬にも選出された。

また中央競馬フリーハンデでは、古馬のメジロマックイーンを上回る65kgを与えられ、当年の最高評価
となった。

 

5歳時(1992年)

 

翌1992年4月5日、大阪杯から復帰する。本競走より騎手は国際経験の豊富な岡部幸雄に替わった。

当日は前走から20kg増の480kgで出走、岡部が鞭を抜くことなく楽勝した。

無敗のまま迎えた天皇賞(春)(4月26日)は、本競走の前年度優勝馬メジロマックイーンとの
「世紀の対決」が注目を集めた。

レースは、先行したメジロマックイーンが第3コーナーから早めに先頭に立って後続を突き離したのに
対し、トウカイテイオーは直線で抜け出せず、後ろから来た馬にも交わされて5着に敗れた。

競走10日後には右前脚の剥離骨折が判明し、以降春シーズンは休養となった。

療養した後、9月に帰厩。

本格的な調教を開始したが、風邪を引くなど、調整に狂いが生じた。

復帰戦は直接に天皇賞(秋)(11月1日)となった。

復帰緒戦にも関わらず当日は1番人気に支持されたが、レースはメジロパーマーとダイタクヘリオスが
競り合い、前半1000m通過が57秒5という「殺人的なハイペース」となり、岡部との折り合いが付かず3番手
を進んだテイオーは、直線で失速。

先行勢は総崩れの展開となり、後方から追い込んだレッツゴーターキンの7着に終わった。

続くジャパンカップ(11月29日)は、当年から国際GI競走として認定され、英国二冠牝馬の
ユーザーフレンドリー(GI競走4勝、当年の全欧年度代表馬)を筆頭に、史上初めて現役の英国ダービー馬
が一挙に2頭来日、オーストラリアから全豪年度代表馬のレッツイロープ、フランスからはアーリントン
ミリオンの優勝馬ディアドクターなど世界中の強豪馬が集まり、「ジャパンカップ史上最強メンバー」とも
評された。

道中は4、5番手をスムーズに追走すると、残り200m地点で外から抜け出し、ゴール前でナチュラリズム
との競り合いを制し優勝。

日本馬の勝利は1985年の父シンボリルドルフ以来7年振り3頭目であり、同時にトウカイテイオーは
日本競馬史上最初の国際GI優勝馬となった。

年末のグランプリ・有馬記念では、終始後方のまま、生涯最低の11着に終わった。

後日、松元から競走直前に寄生虫駆除のための下剤を服用していたことが明らかにされた。

後に田原成貴は、「追い切り(最終調教)の感触は悪くなかったが、追い切った後の2、3日で変わって
しまった」と回想している。

 

6-7歳時(1993年-1994年)

 

翌1993年1月3日、左中臀筋を痛めていたことが判明し、鹿児島県の山下牧場で休養に入る。

3月に帰厩、宝塚記念での復帰を目標に調整されていたが、競走10日前に左前トウ骨の剥離骨折が
判明し、再び休養に入った。

この結果、復帰戦は364日ぶりのレースとなる有馬記念(12月26日)となった。
岡部は当年の菊花賞優勝馬ビワハヤヒデへの騎乗が決定しており、武豊への騎乗も打診されたが、主戦騎手
を務める二冠牝馬ベガへの騎乗を理由に断られ、最終的に前年も騎乗した田原成貴で臨んだ。

競走前、松元は「力を出せる状態にはある」と述べたものの、田原は「順調に来ている馬相手では
苦しいかも知れない」と不安を口にした。

レースが始まると、中盤まで後方待機策のトウカイテイオーは、最後の直線に入ると先に抜け出した
ビワハヤヒデを追走し、ゴール前の競り合いを制して半馬身差で優勝した。

ゴールの瞬間はフジテレビで実況中継を務めた堺正幸が「トウカイテイオー、奇跡の復活!」と実況、
田原は優勝騎手インタビューにおいて、「この勝利は、日本競馬の常識を覆したトウカイテイオー、彼自身
の勝利です。

彼を褒めてやって下さい」と涙を流しながら語った。

前回の出走から中363日でのGI勝利は長期休養明けGI勝利の最長記録となり、
現在まで破られていない。

この勝利が評価され、翌1月にはJRA賞特別賞を受賞した。

翌1994年も現役を続行、天皇賞(春)を目標に調教が進められていたが、復帰予定の大阪杯を筋肉痛
で回避。

半月後には前回故障の患部である左前トウ骨を再び骨折し、4 度目の休養に入った。

以後は秋の天皇賞に目標が切り替えられたが、状態の回復が思わしくなく、天皇賞に間に合わないとの
判断から引退が発表された。

10月23日には東京競馬場で引退式が挙行された。

当日のメイン競走はオープン特別競走であったにも関わらず、重賞が行われた前週を1万人超上回る、
10万6179人のファンが訪れた。

馬場では田原が騎乗、ダービー優勝時のゼッケン「20」を着けた姿がファンに披露された。

安田隆行(当時調教師に転身)、岡部幸雄も出席、それぞれ思い出などを語った。

また、当日のメイン競走・東京スポーツ杯で、皐月賞で2着に退けたシャコーグレイドが3年10ヶ月振り
の勝利を挙げ、「トウカイテイオーへの餞を渡した」と話題となった。








バイト 港区


Last updated 2010/09/24 11:03:21 AM
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