|
|
|
|
| HOME | Diary | Profile | Auction | BBS | Bookmarks | Shopping List |
|
Kyuboの日記 [全24件]
SEOしようぜ!
3歳時(1972年) 1972年7月12日大井競馬場でデビューし、6連勝。その内容は、常に2着馬に7馬身以上の着差をつける 圧勝で、初戦と4戦目はレコード勝ち。 いずれのレースにおいても騎手が本気で追うことは無かったという。 青雲賞というレースに勝った(1600メートル)ことから、現在は同馬を顕彰しハイセイコー記念という 名称に替わっている。 4歳時(1973年) 1973年1月12日、ホースマンクラブに5000万円で購入され、中央競馬への移籍が決定。 同月16日に鈴木勝太郎厩舎へ入厩した。 移籍の経緯については諸説あり、日刊競馬は初めから予定されていたものであったとする。 また作家の赤木駿介は、ホースマンクラブの代表者が大井競馬の関係者から、条件次第ではハイセイコー を購買できるという噂を聞きつけたのがきっかけとなったとしている。 陣営は、移籍初戦として東京競馬場で行われる東京4歳ステークスに出走出来るものならしたかったが、 当時の中央競馬には『地方から移籍した競走馬は移籍後1ヶ月間レースに出走する事が出来ない』という ルールがあった為に出走は不可能であり、弥生賞への出走を決定した。 弥生賞では1番人気に応える形で勝ったものの、レース内容は地方在籍時のような圧倒的なものではなく、 後位からじりじりと伸びるというものであった。 レース中の反応も悪く、騎手の増沢末夫は敗戦を覚悟したと言う。 弥生賞の内容に不満を覚えた陣営は、中2週で3月25日のスプリングステークスに出走させた。 しかし、ここでも勝ちはしたものの、期待するほどのパフォーマンスを見せる事は出来なかった。 2走とも上がり3ハロンが39秒台という事が落胆させる材料ともなった。 厩舎関係者によると、弥生賞・スプリングステークスおいてハイセイコーが苦戦した原因は、 馬場(ダートと芝)の違いに適応しきれていなかった事。 そしてハイセイコーの「ハミ受け」(ハミのくわえかた)が悪かった事だという。 しかし皐月賞前までにハミ受けの矯正に成功し、4月15日の皐月賞に臨んだ。 レースでは序盤は好位を進み、第3コーナーで早くも先頭に並びかける積極的な戦法をとりクラシック 初戦に勝った。 皐月賞勝利後は5月27日の東京優駿(日本ダービー)が目標となった。 しかしその前に東京競馬場で行われるトライアルのNHK杯に出走する事となった。 ハイセイコーには日本ダービーが行われる東京競馬場での出走経験が無く、後述のように初めての場所 で物見をする癖があったため、スクーリングのためにNHK杯に出走しておこうと考えたからである。 前述のルールにより、東京競馬場を経験出来なかった事がここに来て響いてきたのである。 レースでは終始インコースに閉じ込められて中々抜け出す事が出来なかったが、ゴールまで200mを 切った地点から鋭い伸びを見せ、ゴール手前でアタマ差抜け出してカネイコマ(皐月賞2着)、 ディクタボーイ、サンポウらをまとめて交わし、かろうじて勝利を収めた。 しかし、苦戦しながらも『並みの馬なら負ける所を勝った』と専門家によって高く評価され、 日本ダービーでは圧倒的な1番人気に支持された。 レースでは第3コーナーで早くも前方への進出を開始し、直線で一時は先頭に立ったものの、 タケホープ、更にはイチフジイサミに相次いで差され、勝ったタケホープから0.9秒離された3着 に敗れた。 『レースに使われ続けたことで疲労が蓄積していた』『増沢騎手が早くスパートさせすぎた』 『人気があり過ぎて大胆な追い込み作戦がとれなかった』等(増沢自身は一番後者の説を自著で主張して いる。)敗因について様々な推測を生んだ。 また、血統論者からは、母の父が短距離血統のカリムだから距離適応の限界が露呈したという見方が 多く示された。 なお、調教師の鈴木は厳しいローテーション、血統による距離の限界の可能性を認めた上で「左回りが 苦手だった」ことを敗因の1つに挙げている。 また、優勝したタケホープに騎乗した嶋田功は「単にローテーションが詰まっていただけでなく、無敗 で来ていたので出るレースすべて勝つつもりで仕上げなければならなかったはず。それが疲労につながった のでは」と語っている。 夏場は北海道へ移送せず、東京競馬場で調整されることとなった。 北海道の調教コースは半径が小さかったため大型馬のハイセイコーが足を痛める危険があり、また涼しい 北海道から本州へ移送する際に暑さで参ってしまう可能性もあったからである。 9月18日、クラシック最後の一冠である菊花賞を目指し、前哨戦である京都新聞杯に出走させることが 決定し、関西へ向けて出発。輸送中、調教師、調教助手、厩務員の3人がともに馬運車に乗り込むという 異例の体勢で輸送された。 10月21日に行われた京都新聞杯では1番人気に支持されたがトーヨーチカラの2着。 陣営はハイセイコーの道悪馬場適性に出走前まで疑問を持っていたため、道悪であったが馬場の外目を 通って差すことを選択したが勝ち馬には届かない格好となってしまった。 敗れたものの休養明けで久々のレースであったため陣営はこの結果を悲観しておらず、11月11日の 菊花賞に出走。 先行して直線入り口で最内を走り、馬場の中央を伸びたタケホープと内外大きく分かれて殆ど同時の ゴールインだった。 結果、ハナ差の2着に惜敗した。 その差は僅か13cmという。敗戦を惜しんで「2分の1ハナ差負け」と言った者もいた。 12月16日の有馬記念にはタケホープが出走せず、ハイセイコーは古馬を差し置いて1番人気に 支持された。 レースはハイセイコーとタニノチカラが互いを牽制しあう展開となったために2頭よりも前方でレース を進めたストロングエイトとニットウチドリ(同年の桜花賞、ビクトリアカップ優勝馬)に有利な展開と なり、ハイセイコーは2頭を捉えることができず、3着に敗れた。 この年、ハイセイコーは競馬ファンのみならず一般社会をも巻き込んだブームの立役者となったこと が評価され、優駿賞(現在のJRA賞)の「大衆賞」(現在のJRA賞特別賞に相当)を受賞した。 ちなみにこの年の年度代表馬はタケホープが獲得した。 5歳時(1974年) 1974年1月20日、アメリカジョッキークラブカップに出走。 タケホープに2.1秒引き離され、生涯最低着順の9着に敗れた。 タケホープ出走を聞きつけて、急遽参戦したとも言われている。 3月10日、中山記念に出走。 不良馬場の中、トーヨーアサヒに2.0秒、タケホープに2.2秒差をつけ優勝した。 5月5日、天皇賞(春)に出走。同競走に備えてハイセイコーは4月初頭に栗東トレーニングセンターへ 輸送され、体調は非常に良好であったが、レースが行われる予定の週に厩務員がストライキを起こし、 レースの施行日が一週間延期された。 その間に体調を崩してしまい、結局レースはタケホープが勝ち、ハイセイコーは1.0秒差の6着に 敗れた。 6月2日、宝塚記念に出走。 デビュー以来始めて単勝1番人気をストロングエイトに明け渡したものの、レコードタイム(2分12秒9) を記録して2着に5馬身差で圧勝した。 陣営はこのレースにタケホープが出走していなかった事を悔しがり、「タケホープには出せない レコードタイムだ!」と、テレビインタビューで豪語していた。 なお、このレコードはメジロライアンが1990年に更新するまで保持されていた。 同月23日、高松宮杯に出走。管理調教師・鈴木勝太郎の息子で当時調教助手であった鈴木康弘 (現・調教師)によると、当初は東京競馬場へ帰り休養に入る予定であったが、体調が良かったため名古屋 のファンへ顔見せをするために出走に踏み切ったという。 61キロの斤量を克服し、アイテイエタン以下に快勝した。 高松宮杯出走後は東京競馬場で休養に入り、秋初戦は10月13日の京都大賞典に出走。 2番人気の4着に終わった(1着はタニノチカラ)。 続いて天皇賞(秋)に出走予定であったが、11月9日のオープン戦でヤマブキオーの2着した後に 鼻出血を発症したために1ヵ月の出走停止処分が下され、出走を断念した。 この事はNHKのニュースでも報じられている。このオープン戦ではタケホープ(3着)に先着 している。 12月15日、引退レースの有馬記念に出走し2着。調教助手が認める程の調整の失敗があり、 最も重い540キロの太め残りで参戦し、辛うじて連対を果たした。 優勝馬はタニノチカラ。なおこの時、八大競走の中では初めてタケホープにクビ差で先着。 史上初の生涯獲得賞金2億円馬となった。レースはタニノチカラの独走だったが、フジテレビは ハイセイコーをずっと追い続け、増沢の歌う『さらばハイセイコー』を挿入歌として放送するなど、 レース放送としては極めて特殊な構成となっていた。 コンビニ バイト バイト 町田
当日はテンポイントや、天皇賞馬アイフルとフジノパーシア、同期の二冠牝馬テイタニヤなどを抑えて バイト 豊島区
歌手 募集
バイト 港区 |一覧| |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||