テーマ:日本人のルーツ(527)
カテゴリ:歴史
690年、太政大臣になった高市皇子は、文武王の子・金霜林で、草壁皇子に代わって 九州に来た司令官です。この時、宣化天皇の子孫の多冶比嶋が、倭国(安羅)の代表 として右大臣となり、699年、左大臣となりました。 したがって、倭国の支配権は新羅の司政官高市皇子=金霜林と、その下で政治を施行 する安羅(邪馬壱国)の王族・嶋によってなされました。 後に、嶋の4男広成は再開第2回目の遣唐使となり、帰国の後、平城京建設の造営卿と なりました。山窩タジヒ氏の伝承に『土木工事の時、シラヒト(新羅人)を監督した』とありますが それは広成が『平城京造営の時、新羅人の技術者を監督した』ということであったものか。 あるいは、都造りに使役された百済系の亡命者や安羅の落武者が、この後、各地に散居して 山窩になったと考えられます。また、諸国の農民たちを強制労働に駆り立てて建設した平城京 とは、朝鮮の平壌の名を借りて命名したもので、全国の倭人たちから定期的に貢物を徴収する 【新羅日本府】でした。これを人々に【朝鮮人の宮廷】即ち【朝廷】と呼ばせたのです。 693年、九州の大宰府から難波・新羅城に移り、さらに藤原京へ遷都したものと考えられます。 そしてこの後、倭国と秦王国を合併して新しい【日本国】をつくりました。 新羅の語源はボルネオ語(後のフィリッピン語)のシラヒースで、【日出ずる所】という意味です。 新羅も日本も同じ語源でした。実際に、古代新羅人は倭人であったし、倭国改め日本国は 【新羅・日本同盟国】というほどのものでしたでしょう。いわゆる、大和朝廷なるものは【記紀】の 創作に過ぎず、幻の王朝でありました。 694年12月、新羅の浪速司令部が海岸の難波宮より内陸部の藤原宮へ遷都しました。 そして九州倭国(邪馬壱国)を近畿の秦王国(飛鳥王朝)と合併し、新しい国名を【日本国】 と定めました。持統という名前は【統一を保持した】という意味の修史上の天皇だったようです。 こうして、新日本国の行政府になった藤原宮(日本総督の新築宮殿)へ。
秘密にされている藤原不比等の出自を物語るかのように、藤原氏一門を祀る 春日大社(旧春日神社)の祭神は、 第1殿に、鹿島神(武みか槌命たけみかづちのみこと/イエス・キリスト/ゼブルン族)を祀る 第2殿に、香取神(経津主命ふつぬしのみこと/キリストの3番弟子/ゼブルン族)を祀る 第3殿に、枚岡神(天児屋根命あめのこやねのみこと/ゼブルン族)を祀る 第4殿に、枚岡神(比売神ひめがみ/ゼブルン族)を祀る このことによって藤原不比等が秦王国の分国の都、鹿島神宮の出身であったことが証明されます。 即ち、不比等の出自は、実は秦始皇帝の直系末裔だったのです。 藤原氏の偽系図づくりのため、大織冠・藤原鎌足(郭務宗)の系譜に、シメオン族・和珥(わに)氏 の壱岐史韓国(いきのみひとからくに)なる人物を介在させて藤原姓を名乗るようになった不比等が 694年12月、藤原宮に昇殿しました。この頃、すでに不比等は中臣氏のもとで帝王教育を受ける とともに、ガド族系津守氏の女・宮子を隠れ妻として3男2女を儲けています。 697年8月、軽皇子が17歳で即位して文武天皇となり、即位と同時に宮子を不比等の養女という 名目で入内させ、宮子は、4年後、後の聖武天皇となる首(おびと)皇子を出産しますが、実は 不比等との間の子どもでした。文武天皇は大喜びで、この皇子が立太子する日を待ち焦がれ その間に、不比等は、父が賜った藤原という氏を自分の子孫に限定するために、698年、ほかの 藤原一族に対し、すべて元の中臣という氏に戻らせています。やがて、文武天皇は、不比等から の強い精神的圧迫により、707年6月に自殺してしまうのですが死ぬまで首皇子は自分の子で 『初めて日本で生まれた新羅の皇子である』と信じていたといいます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008/05/18 07:26:44 PM
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