縄文時代前期(約7000年前)頃から、常陸・下総などには、
オロッコ人系縄文人が居住していました。
約3500年前、フェニキア人、エブス人、ヒッタイト人らが タルシシ船で渡来し国東半島へ
製鉄基地を築いて『殷文化圏』に鉄製品を供給し始めました。
続いて3100年前、国東半島重藤の製鉄基地が発展して殷の東表国となり
彼らフェニキア人らは宇佐八幡を都とし、タルシシ船の船長エビス王家の
クルタシロス1世を初代王として東表国(豊日国)を建てました。日本書紀上、
日本初の天皇とされる神武天皇の前に既に1000年間も続いていた天の王朝でした。
やがて、弥生時代前期(約3000年前頃)になると、最初に出雲の簸川・日野川辺りから
【タタラ製鉄】文化を持つヒッタイト人たちがやってきました。
彼らは利根川支流・日川に沈殿し、川底に黒い帯となっていた砂鉄を採取してタタラ製鉄を
行い、鍛鉄によって初代の神器となった宝剣を製作現存する鹿島神宮の【奥宮】後方にある
石磐(要石)の上に安置しました。
後代の神宮に祭られた鉄剣は2代目で、現在も神宝として大切に保存されています。
因みに、鹿島神宮の要石は表面が凹型で、棒状の石柱が地中深く埋まっています。
かつて水戸藩主の徳川光圀公が近習に掘らせたが、掘っても掘っても底に達しないで
遂にあきらめたと伝えられています。
要石は一対ということで、もう一つを探すと、隣接する香取神宮奥宮の要石がこれに対比する
と判明し、こちらは凸型の石柱でやはり地中深く埋まっていました。![3.jpg](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/09/0000055009/80/imgb5c75f6fzikczj.jpeg)
こうしたことから霞ヶ浦の神栖地域(鹿嶋トライアングル)は超古代から開発された縄文人の
聖地だったと考えられます。
こうして約3000年前頃、ヒッタイト人たちが金属文化をもたらしましたが、
同時に彼らとともに移住してきた農耕民の苗族たちは、常陸・下総をはじめ関東・東北地方の
先住民(縄文人)を征服・教化し、水田稲作農業の弥生文化を根付かせ拡散していったものと
思われます。
![line7.gif](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/09/0000055009/12/img3fc602e1zik1zj.gif)
BC50年頃、ユダヤ人ガド族300名が対馬中央部の小船越のアマテル(天照)神社)
領域より渡来しました。彼らは、鹿島灘にある明石海岸の大鳥居近くに上陸して
椿神社(祭神は猿田彦命)を建て、猿田などにコロニーをつくりました。
そうして、この地を常陸国の高天原と称し、はるばるシルクロードを東遷してきた
天孫族(ウガヤ王朝族)が天降った(上陸地の砂浜に船を接岸し、浅い海に下り立ったことを
【海(あま)降った】と表現した)聖地として【常陸の高天原】と呼称するようになったのです。
記紀にいう【天孫降臨】説話は、これより始まったものと思われます。
天照大神は、BC1060年頃、建国された【ウラルトゥ王国】の初代王アマテル(天照)神
【アマテルノカミ】が本来の呼び名でした。
![](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/09/0000055009/75/img3bca44a7zik6zj.jpeg)
現在【奈良盆地】といっている場所は、縄文人がやって来た時は盆地ではなく琵琶湖ほど
の大きな湖沼だったそうです。その中に半島的にわずかに見えていたのが三輪山とか
大和三山(畝傍山・天香具山(人工的につくった聖地)・耳成山)のような島的に存在して
いた地帯で、この湖沼の畔に竪穴住居をたて定住してコロニーをつくったのが港川人でした。
湖中の島であった三輪山周辺に、縄文時代の遺跡やピラミッド・巨石文化の遺跡が
現在も多くあるのは港川人たちが三輪山を御神体(アニミズム)として崇拝していたからです。
大和三山が二等辺三角形を形作り、三輪山と畝傍山を結んだ線は冬至の【日の入り】に
当たる線になっているのも彼らの太陽信仰だと考えられます。
![line7.gif](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/09/0000055009/12/img3fc602e1zik1zj.gif)
始皇帝の秦帝国は、盛時には華北から越南(ベトナム)までの地を支配していましたが
やがて退去し、漢の武帝の時に中越と南越の秦人は多く日本列島に亡命しました。
BC213年、秦始皇帝による焚書坑儒により亡ぼされた孔子・孟子の子孫、ガド族は、
イスラエル北朝系からユダヤ南朝系に転身しました。猿田彦尊と大物主命は、
それぞれ陸路と海路によるユダヤ系の東方亡命者で同盟関係にありましたので
始皇帝の末裔、シメオン系大国主命とは敵対していたのです。
秦始皇帝の焚書坑儒事件に始まったユダヤ人同士の古代南北朝の争いであり
シメオン族とガド族の壮絶な戦いは日本列島にも持ち越されました。
BC74年、辰韓(秦韓)にいた 秦の亡命者シメオン族らは、【天の王朝】のエビス王から
背振山脈南部(佐賀平野)を割譲されると鳥栖と吉野ヶ里の地に委奴国を建てました。
147年、後漢に圧された高句麗(北倭人)が倭奴国(ユダヤ人)および東表国(南倭人)
を攻撃しました。当時の東表国(エブス王朝)は、朝鮮半島の金官加羅国とワンセットの
文化圏とする海人族の千年続く【天の王朝】で、倭奴国は、その同盟国でした。
その時、東表国エビス王は海部知男命でしたが、これより高句麗と敵対関係になり
東アジアの覇権を競う東夷諸族の争い=【倭の大乱】が始りました。
163年、猿田彦尊の子孫がシメオン系大国主命の委奴国に追われ九州から奈良へ
東遷して東?国および伊勢国を建てますが、230年頃、大国主命の子孫
たちによって旧伊勢国を攻撃され、その首都吉武高木・平原遺跡
および太陽神殿を破壊されて古墳内の超大型青銅鏡を悉く破砕されました。
やがて大国主命も猿田彦尊の同盟者大物主命&神武軍団に殺害されますが、
大国主命の子孫によって奈良大和の地に秦王国(ユダヤ王国)が建国されます。
その後、九州以外の地を支配下においた秦王国は、その子孫が14代の王位を
継承しましたがこの王が66歳で病死したとき3人の女子しかいなかったため、
5世紀後半【倭の五王時代】高句麗から渡来していたレビ族系の
東漢氏(やまとのあやし・秦氏)が実力を買われて秦王国の王位を継承しました。
秦氏が王となったこの秦王国は、織物業の普及や【前方後円墳】築造などの
巨大土木工事によって大いに発展しました。
東日流(つがる)の荒吐五王国(東北王朝)とも友好関係を結び
東アジア諸国から秦王国は【イ妥タイ国】とよばれるようになりましたが、
それは九州の【倭国】に対して"より大きな国"と認識され盛んに交易
が行われました。
538年には倭国(九州王朝)および秦王国(奈良大和の飛鳥王朝)へ百済聖明王
から仏教が公伝され秦王国の王は天子と呼ばれるようになっていきます。
その秦王国天子アマタリシホコの子孫が長い歴史を経て現在は中川宮→三笠宮→平成天皇
の系統になっています。