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![]() いい歳をしてなんだよと照れくさかったり恥ずかしかったりに通じる内容で、いや、じつはこういうところに書くのもどうかなと考えてしまうような気持ちや行為のことである。 それでもこうして書き始めてしまうのは、ま、いい加減いい歳をして照れたり恥ずかしがったりするのはやめたらどうだと、同じ「いい歳をして」を理由に逆手をとりたくなっているのだろう。 そうしたひとつが、ほかでもない、きょう11月30日は26年前に逝った母親の誕生日であることだ。 亡くなったのは12月2日の夜で、それに関してはまた別の機会に書くことがあるかもしれない。 いま書いておきたくなったのは、26年前のきょう、清瀬の療養所に家族で見舞った場面の記憶だ。 あの年、父親や妹やぼくがかわるがわる療養所の母の個室に詰めて夏を送り、秋を過ごし、冬を迎えた。 ぼくは1日おきに泊まり込みで詰めていたのだが、11月29日の夜に泊まり込んだのかどうか、もう覚えていない。 妹が泊まり込むことはなかったと思うので、やはりぼくが泊まっていたか。 ともかく母は、妹に「もうじき誕生日がきて、誕生日を越したらおしまいか」と話していたというのである。 誕生日当日の前日だか前々日だかのことだったらしい。 ぼくがこの話を妹から聞いたのは誕生日を過ぎたあとだった。 ただ、それが亡くなる前なのかどうかは覚えていない。 そうして誕生日の当日、つまり26年前のきょう、夕方5時過ぎだったと思うが病床の母と父と妹、それにぼくの家族4人が病室にいた。 夕飯どきで、われわれ3人は、まぐろの刺身を母に食べさせようとしていた。 ほとんど食がすすまない状態になっていた母は、赤身の刺身をひと切れの半分、食べた。 それで、もう、これ以上は食べられない、ありがとう、といって起こしていたベッドを下ろしてほしいというのだった。 刺身は父親が買ってきたのだと思うけれど、母が半分でも食べたことはわれわれ3人にとって大きな歓びとなった。 よかったね、食べられてといい合ったものだ。 母の65歳の誕生日は、夕食にまぐろの刺身を食べたことで誕生日であることが確かめられたという日となった。 すでに病室で5年を過ごしていた母である。 誕生日は特別な日なのだから何かしようと決めていたものの、じっさいには何ができるわけでもない。 すでに食が細っていた母に、いちばん食べたいものは何かを聞き、それがまぐろの赤身だったのだろうとはぼくが勝手に推測したことだ。 そういうできごとがあってよかったと、いま、つくづく思う。 生前の母の最後の誕生日をどのようにハレの日とするかについて家族3人で考えたのだろうか。 考えたような気もするけれど、たしかな記憶があるわけではない。 ただ、26年を経たいま、父と妹とぼくとの3人でそういう会話をしていたのだろうと決めてかかりたい。 そして母は、勘のいい母だったから、家族が3人で誕生日をハレの日にしようとしているのだと察し、まぐろの赤身が食べたいと父か妹に伝えたのだと思えてくる。 食べたいものがあるのはいいことだと家族3人が歓んだのはまちがいのない事実だった。 しかし、じっさいには母が食べることができたのは半切れの赤身だけだった。 そうした夕飯の直後、ぼくは食べることができてよかったと本気で歓んだものだが、いま思うと、あれは母がかなり無理をして咀嚼し呑み込んだのではなかったと思っているのだ。 2日後の夜には臨終を迎える状態のからだだった母だが、母の誕生日を何とかハレの日にしたいという3人の計らいを勘よくとらえ、その通りに成就させたいと考えたのだろう。 ぼくは、皿に残った半切れのまぐろの赤身をきのう見たように思い出す。 母は無理をして食べたのかもしれないが、いまぼくが、あのハレの日の光景を26年を経たきょうもくっきりと思い出すことができるのは、そこに母の遺志がこめられていたからではなかったかと、どうしてもそう思えるのである。 26年間というのはそれなりに大した長さの時間だと思う。 そうした長い時間を過ごしたあげく、いまだにぼくは、母親の最後の誕生日に起きたできごとが忘れられないのである。 上に載せたのはぼくが子どものころの母。 30歳代半ばではないかと思う。 │<< 前日へ │翌日へ >> │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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