|
|
|
|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
│<< 前のページへ │一覧 │
クロニクル 日本海海戦 日本海軍連合艦隊司令官の東郷平八郎が、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と演説をしたことで知られる、日本海海戦はこうして始まりました。 この時午後1時55分と記されています。 対馬沖に現れるまで、約7ヶ月を要した大遠征であり、船員も当然疲れ切っています。従って、この海戦は、ウラジオストーク到着以前に日本の連合艦隊が、バルチック艦隊を発見・捕捉することが出来るか否かに勝敗の鍵があったと言って、言い過ぎではないのです。 現在のように高性能レーダーが完備しているわけもなく、せいぜい望遠鏡で視認する程度の監視ですから、仮に日本海を通ったとしても、必ずしも発見出来るとは限らないのです。それが海という世界です。 まして、太平洋を迂回するルートもまた残っていたのです。東郷司令官の判断は、乗組員の疲れ、燃料事情などを総合的に判断する時、敵艦隊が太平洋へ迂回するルートを採るとは考え難い。日本海ルート1本に絞るということだったのです。 107年前のこの日が、日本晴れだったことも幸いでした。雨天・濃霧といった気象条件であったら、果して見つけることができたかというと、これまた首を捻らざるをえなくなります。 翌日午前5時過ぎまでの戦闘を逃げ延び、ウラジオストーック港に錨を下ろした敵艦は、バルチック艦隊全38艘中、僅かに3艘に過ぎなかったのですから、まさに圧勝でした。
ルイ14世の宮廷生活 (91) デュ・デファン夫人の館のサロンは、彼女の居室のある2階で開かれました。ジュリー・ド・レスピナス嬢の居室は館の3階にありました。ですから、ジュリーとのしばしの語らいを楽しみたい人々は、5時に3階に集まり、6時に間に合うように2階に移動したのです。 ジュリーの下に最も熱心に通ったのは、ダランベール」でした。タンサン夫人の項で書きましたように、ダランベールはタンサン夫人の産んだ私生児です。産みの母に捨てられ、修道教会に敷設された捨て子院の教育で才能を認められ、そこから這い上がった人物です。 同じ私生児で、母をなくした後、同腹の姉の家で子守女のように扱われ、今またデュ・デファン夫人に、有能な秘書役として酷使されているジュリーの境遇に、ダランベールは世に出るまでの自分を重ね合わせたのでしょう。 不倫は親の責任であり、生まれてくる子には、何の責任もありません。しかしながら世間の偏見のために白い眼で見られる苦しみは、生まれてきた子ども達が味わうことになるのです。 共に私生児であるという2人の共通点が、2人を近づけたことは間違いありません。ジュリーは美人ではありませんが、聡明で魅力的な女性でした。こうして2人の間に生まれた共感が、いつしかより激しい感情に変わっていったとしても、それまたごく自然なことでした。それは1756年頃、ダランベール39歳、ジュリー・ド・レスピナス24歳の頃でした。 ジュリーの部屋での集まりの時間は限られていましたが(それは夫人が宵っ張りで、自分が眠りに落ちるまで、ジュリーに本を読むことを止めないように命じていることを承知していたため、5時より前に来ることは、憚られたのです)、ダランベールを中心に、何の遠慮もない討論に、時間を費やしていたのです。 盲目のデュ・デファン夫人は、盲目ゆえに猜疑心を研ぎ澄ましていましたから、いつしか自分の客人たちが、サロンの始まる前に3階に集まり、自分の秘書の部屋で語らっている事実に気付きます。1757年の初め頃のことでした。 夫人は秘書役の姪に裏切られたと感じ、怒りの感情に打ち震えます。「何ということ」と激高し、ジュリーを呪ったり、激しく罵倒したりもしたようです。しかし、良く考えると、ジュリーを追い出してしまうと、自邸のサロンも開けなくなってしまいます。それも困るのです。 進退窮まった夫人は、身体の不自由な自分に、こんな思いを抱かせるとはと、益々ジュリーを呪い、深夜本を読ませながら、ネチネチとジュリーに嫌味を言い続けたのです。 続く
久々に原発関連 友人に教えられ、中手聖一さんがまとめられた『「福島県の子ども」の病死者数について A4版2枚の短い報告ですが、政府報告という誰でも目にすることが出来る統計を使っての分析だけに、ギョットさせられる内容でした。 PDFファイルになっており、どなたでもご覧になれますので、下記からご覧になり、よろしかったら、他のブロガーの皆様にも御紹介いただけると幸いです。 http://dl.dropbox.com/u/17135518/nakate.pdf ザビ
クロニクル 日本海中部地震 「日本海側は、津波の被害はない」とする。勝手な思い込みも、遅すぎた伝達の原因を構成する、一つの要素として指摘されました。
ルイ14世の宮廷生活 (90) デュ・デファン夫人のサロンは、午後6時が始まりの時間でした。視力を失った夫人に代わって、客人を迎えることも、ジュリー・ド・レスピナス嬢の仕事の一つでした。ジュリーは、美人タイプではなかったのですが、若くて才気に溢れ、気の効いた会話を交わせるジュリーの出迎えを喜びました。 ジュリー・ド・レスピナス嬢は、デュ・デファン夫人の眼の役割を忠実に果たし、書物を読めなくなった夫人にのために、求めに応じて書物を読む役割も果たしました。夜、夫人が眠りつくまで、読み続けなければならないこともしばしばでした。 視力を失った夫人も辛かったでしょうが、眠れない夫人に付き合って、書を読み続けるジュリーも大変でした。デュ・デファン夫人が、客人たちに泰然自若とした姿をみせることが出来たのも、ジュリー・ド・レスピナス嬢の、こうした献身的な協力があったからでした。 ジュリーに迎えられる客人たちは、次第にもう少し長くジュリーとの会話を楽しみたいとものと、考えるようになりました。誰かが6時5分前の訪問を、さらに5分早めると、抜け駆けをされた面々も、次の定例日には、皆6時10分前にはやってくるようになります。 誰もが、快活で生き生きとした知性の持ち主であるジュリーとの会話を、少しでも長く楽しみたいと、」考えるようになっていたのです。こうした常連たちは、年月を重ねるうちに、デュ・デファン夫人のサロンが始まる1時間前、午後5時には夫人の屋敷を訪ね、6時までの1時間をレスピナス嬢の部屋で過ごすようになったのです。 それはサロンと言えるものではありませんでしたが、常連客たちは、サロンの幕が上がるまでの1時間を、レスピナス嬢を囲んで楽しんだのです。 この秘密の小サロンには、ダランベール、テュルゴー、マルモンテルらが加わっていました。とりわけダランベールは熱心でした。 続く
クロニウル 運動会事始 きょうは、そうした学校運動会の始まりの話です。年配の皆さんは「少年よ大志を抱け(ボーイズ・ビー・アンビシャス!)」の語を遺したクラーク博士と札幌農学校をご存知だと思います。山」デジさんのホームグランド、北大の前身です。私も小学6年の国語の教科書で学んだことを覚えています。 舞台は、134年前の北海道は札幌です。そうです。運動会の発案者はクラーク博士だったのです。博士の指導によって、本邦最初の運動会が札幌農学校の第1回運動会として開かれたのが、134年前のきょうでした。
ルイ14世の宮廷生活 (89) 「好事魔多し」、良いことがあった時に、」浮かれすぎることを諌める言葉として知られますが、デュ・デファン夫人にも、この例えが当てはまりました。彼女のサロンが支援するダランベールガアカデミー会員に推挙された1754年、(それは新思想が保守思想に勝利してゆく一里塚となった記念碑的な出来事でもあったのですが)デュ・デファン夫人は、完全に視力を失ってしまったのです。 前年の53年から、夫人は視力の減退を自覚していたのですが、失明を避けえぬ現実と理解した彼女は、自分の秘書役としてサロンの客人のもてなしを担当してくれることを期待して、遠縁にあたる(下記アルボン伯爵夫人の不義のお相手は、彼女の弟のシャロン伯爵でしたから、正しくは姪にあたります)レスピナス嬢を屋敷に招いたのです。 1754年22歳のレスピナス嬢は、デュ・デファン夫人の申し出を受け入れ、彼女の下へやってきました。アルボン伯爵夫人の私生児で、16歳で孤児となり、親族の家で召使のような扱いを受けていた彼女は、母の存命中、修道院などで受けた教育のおかげで、彼女は、デュ・デファン夫人のサロンに適合し、来客たちとの会話を楽しむことが出来たのです。 若い女性の存在、しかもその女性が機智と教養に富み、自分達の会話に加われることを知った客人たちは、当然活気づきます。デュ・デファン夫人も、彼女を招いたことに感謝し、サロンは更なる活況を呈したのです。デュ・デファン夫人のサロンの最盛期が訪れたのです。 光を失ったデュ・デファン夫人が、泰然とした態度で客人をもてなし、何事もないかのように振舞う姿に、客人たちは感心し、その精神力の強さを、しきりに称賛したのです。 下の肖像画は、失明後、1660年63歳の頃のデュ・デファン夫人の肖像です。 続く
クロニクル 大手銀行の不良債権残高過去最高に この年、急に不良債権残高が急増したわけは、金融庁が従来の金融機関の体力に応じた不良債権の処理を、いつまでも認めていると、不良債権の処理は極めて緩慢にしか進まず、日本経済の国際的地位を著しく損なってしまうとの立場に立ち、不良債権の査定、並びに分類を各段に強化したからでした。 10年後の今日、米国では、最も経営が安定していると見られていたJPモルガン・チェースのデリバティヴ取引に関する巨額損失が明らかとなり、しかもその損失の取引解消の反対売買が進まず、損失そのものがいまのところ青天井の如く広がり、米銀の第2の金融危機が囁かれだしています。 そして欧州では、各国の大手金融機関の破綻を避けようとして、ギリシアのユーロ離脱を先送りし続けた無理が、遂に限界に達しつつあり、欧州の金融危機もいよいよ本番を迎えつつあるように見えます。 こうしてみると、こと経済に限ってみると。、日本経済は、どうやらG7の先頭を走っていたのだと考えて良いようですね。
ルイ14世の宮廷生活 (88) ランベール夫人、タンサン夫人、そしてジョフラン夫人と、18世紀のサロンの中で、特に傑出したサロンについて、記してきました。 当代随一のサロンの足跡を辿るとすれば、このルートに間違いはないのですが、ランベール夫人のサロンと、タンサン夫人やジョフラン夫人のサロンには、大きな違いがありました。それは、後者の2人の夫人のサロンには、女性の客人が僅かしかなく、とりわけ名流夫人の訪問者は事実上無きに等しかったことです。 また女性ほどではないのですが、国王の宮廷に近い大貴族の訪問も、ごく限られていたことです。個人に関しては、タンサン夫人とジョフラン夫人のサロンには、ヴォルテールは決して近付こうとしませんでした。 こうした点で、ランベール夫人のサロンの雰囲気を受け継いだとみなされるのが、マリー・デュ・デファン夫人のサロンです。デュ・デファン夫人のサロンが、一流サロンの仲間入りをしたとみなされるのは、1747年のことですから、ランベール夫人の死去から14年の歳月が流れています。 デュ・デファン夫人のサロンには、リュクサンブール」元帥夫人、ミルボワ元帥夫人、エギュイヨン侯爵夫人ら、錚々たる名流婦人が常連に名を連ね、ショワズール公爵、ローザン公爵、ボーヴォー公爵、ダルジャンソン侯爵らが、頻繁に出入りしていました。 ヴォルテールは夫人のよき相談相手でしたし、ダランベールはジョフラン夫人のサロンだけでなく、デュ・デファン夫人のサロンにも頻繁に顔を出し、後にルイ16世治世初期の財政総監に就任するテュルゴー、さらにグリムやコンドルセらも、常連に名を連ねています。 デュ・デファン夫人のサロンは、名流のサロンでしたが、単なる貴族のサロンとの違いは、彼女の才気が、活発な議論や話題の転換をリードし、誰も彼もが退屈することなく、時間を過ごせる場を提供していました。保守派の貴族とヴォルテールやダランベールが、並んで食事をすることも稀ではなかったと記せば、およそ彼女のサロンの雰囲気をお察しいただけるのではないでしょうか。 長く高等法院の院長を務めた、晩年のエノー院長は、彼女のサロンについて、次のように記しています。「女性で彼女以上に友達の多い人はいない」と。 続く
クロニクル 原子力発電所誕生す 原子力の平和利用、原子の火として、日本でも大きく報道されたことが、かすかな記憶として残っています。しかし、当時は放射性の冷却水、使用済み核燃料等、原子力発電に絡む負の側面は、まだ意識されていませんでした。 そして、東日本大震災。原発の暴走を止められなかった日本は、54年間で最大の原発事故を起こした国として、記憶されることとなりました。 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |