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Happy Rich - 我、今、ここに、生きる -

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渚の向こうに

■ことの起こり


朝起きると、どうも様子がおかしい。

ふと横を見ると、私はベッドに寝ていて、すぐとなりに妻が寝ている。

ぎょっとして、すぐ意識がはっきりしてきたが、どうも夢ではなさそうだ。

ここはどうもアメリカの我が家のようだ。

しかし、なんでこんな所にいるのだろう?


気をつけてそろりと起き上がり、バスルームで顔を洗ってから部屋を抜け出し、階下へ下りる。

時計を見るとまだ朝の7時半だ。

外はほんのりと明るくなってきている。


キッチンやファミリールームなど、全て「本物」だ。

確かに、アメリカの自宅だ。

まだ状況がよく飲み込めない。

いったいどうなってしまったんだろう。


昨晩寝たときは確かに東京の自宅で、和室に寝具を敷いて寝たはずなのに・・・

目が覚めると、なんとアメリカに居る。

こんなことがありうるだろうか。

これが夢ではないとしたら、なぜこんなことが起こってしまったのだろう。

いや、それよりもこんなことが有りうるのだろうか。


呆然としていると、2階から妻が降りてきた。

「おはよう。」

なんとも無いように、ごく普通の口調だ。


変だ。なぜ、妻は普段どおりのような態度で、私を見ても驚かないのだ?

昨日まで日本にいるはずの私が、朝突然、家に現れたのを不思議だとも変だとも思わないのだろうか?


きっと私はばかな顔をして、ぼうっと突っ立っていたに違いない。

なにも言えずに妻の顔を見ていたら、妻が

「日曜日なのに早いのね。それになに変な顔をしているの。 何かあったの?」

と聞くではないか!


聞きたいのはこちらの方だ!

何があったのか、どうして私がここにいるのか、そしてそれを見て、妻はなぜ驚かないのか?


ばかな質問をして、変に勘ぐられてもいけない、と思い、

「いや、別に」

と答えながら、アメリカに居た時いつもそうしていたように、自分の朝食の用意を始める。

妻もコーヒーを入れ始め、依然としてどこといって変わった様子はない。


朝食を食べながら、妻が話をするのを適当な相槌を入れながら聞く。ここで変な質問をしたりしない方がいい、と思ったのだ。

いったい何が起きたのか、それを見極めるためもあるが、それ以上に、まず自分の正気を疑ってかかった方がいいかもしれない、などと考える。

もしかしたら、これがよくうわさに聞く、「記憶の欠落」というもので、私自身は日本からアメリカに来たのに、その部分だけぽっかりと記憶から抜け落ちているのかもしれない。

だとしたら、今がいつで、私がなんでここに居るのか、をそれとなく聞き出して、自分の失われた記憶というものを呼び戻せるかもしれない。

下手に、「なんで俺は今ここに居るんだ?」とか「今日は何月何日だ?」なんてことを直接聞いたりしたらそれこそ正気を疑われかねない。

それとなく、じょじょに記憶を取り戻すか、もしかしたらある瞬間にパッと全ての記憶が蘇るかもしれない、などと期待しながら朝食を済ます。

普段から大した会話はしていないので、今のところ妻は私のこの状態に気付いていないようだ。

話の中では特にこれといった情報が得られなかったので、サンルームにあるTVを見に行った。

すると、驚くことに、そこにはTVがなく、書斎になっていて、立派なデスクと、その上にコンピュータが置いてある。

幸い、そのコンピュータは私が日本に居た時に使っていたのと同じノートブックだったので、TVの代わりにそのPCを立ち上げる。


そしていつもの通りに、Yahooから入り、メールを開く。

よし、ここまでは、日本に居た時と同じでなにも変わりはない、と内心、ちょっととっかかりが掴めたような気になりながら、急いでメールをチェックする。


「え~!!」

私は内心、驚愕した。

なぜかと言えば、メールには私が知らないメールがたくさん入っており、それ以上にその最新のメールの日付が、私が今まで居た、あるいは記憶している日本に居た時と数時間しか変わらないのだ!


ということはどういうことだ?

やはり、昨晩寝て、今起きた、という時間しか経っていないことになる。

その数時間で、アメリカの自宅へ来て、寝て、そしてその記憶が欠落した、ということは物理的に不可能である。

じゃー、いったい何なんだ!


■「過去」の調査

驚いていても始まらない。ここは冷静になって、とにかくこの状況を少しでも把握しなければ、とメールを読み出す。

まず気が付いたのは、一日のメールの量が全然少ないことだ。

普段の私は毎日4,50通から多いときは100通を超えるメールが来て、朝出社するとメールの整理と返信に小一時間を費やすのが普通なのに、今見ているメールはせいぜい一日10通ぐらいか。

それもわけのわからないメルマガと、なんとかいう不動産会社の「今日のリスティング」など、圧倒的に不動産関係が多い。それも英語だ!

それに、「楽天広場:日記 2006年XX月○○日(水)」とか題して「楽天」からの日記の書きこみのバックアップメールが2,3通ある。

「しめた!」

と内心思った。「楽天日記」だったら私も日本でやっていたので、この日記を読めば少なくとも記憶が途切れたのかどうかは別にしても、昨日までの状況を載せているはずだ。

幸い、日記は昨日の分も来ている。

恐る恐るではあるが、早速その日記を読み出す。

「なんだ、これは?」

正直、こんな日記を書いた記憶もなければ、その内容にもまったく心当たりがない。本当にこれは「私」が書いたのだろうか?

もし、そうだとすると、この日記を書いた「私」と今これを読んでいる「私」では、全然違う人間だ、という結論にならざるを得ない。

これはますます、記憶がとんだ、とか記憶がとぎれた、なんていうものじゃない。

しかし、これは紛れも無く私のノートブックだし、妻も私を「私」として認識しているようだし、別の人間、というわけがない。

では、いったい?


ふと思い立って、画面右上の「リンク」を開いてみる。私が日本で楽天日記をやっている時に、そのHomepageの管理画面を「リンク」に登録していたからだ。


案の定、この別な「私」も同じように「リンク」に登録していた。

この辺は、この別な「私」が誰であろうと、考えることは似ているようだ。

早速管理画面を開いてみる。

すると、日記記入率99%とか、累計アクセス数84000とか、ブログ開設後の日数が390日とか、出ている。

私が日本で書いていたブログとは雲泥の差だ。

私のブログは、ブログを開設してからの日数こそ450日を超えていたが、日記記入率など50%をちょっと超えたぐらいだったし、アクセス数に至っては30000件にも達していなかった。

そして、なんだ、この「Happy Rich - 幸せなお金持ちへの道 -」というチンケなサイト名は?

私のブログの名前は「仕事を極める! 人生を極める!!」という、ごくまっとうなブログタイトルだったはずだ。


はやる気持ちを抑えながら、この管理画面から早速、この「自分のページを確認する」をクリックして、その「Happy Rich」なるものを見てみることにした。


唖然!!


これはまったく別人だ! これが「私」であるはずがない!!

気が動転しそうになったが、なんとかそれを鎮めながら、TOPページ全体を見てゆく。


始めにまた過去の日記を読むつもりだったが、ふと「フリーページ」の言葉が目に付いた。

そこには、「アメリカでの生活 初心に返る(1)退職理由」とあるではないか!


この私が「退職」した?

つい昨日までまだ会社に毎日通っていた私が??

いつ???

なんで????


ますますはやる気持ちを抑えるのに苦労しながら、すぐそのフリーページを開いて見る。


「!」


■ 状況の認識

驚きの連続である。

いや驚きを通り越して、変な話だが、もう一度寝ようか、という気すら起こってきた。

これは多分、ひどく現実味があるにしろ、「夢」に違いない。

そうとでも思わなければ説明が付かないことばかりだ。

であれば、もう一度寝て、目が覚めたらやはり自分は日本に居て、家族はアメリカに居て、そして仕事をするためにまた出社する日常にもどるに違いない。


一度目を閉じ、また開く。心を落ち着けなければ。

自分は正気だ。理性的な考え方はこれっぽっちも衰えていないようだ。これだけが救いだ。


しかし、このフリーページに書いてあることをどう考えたらいいのだろう。

2003年、私は米国から日本に帰任した。それも単身帰任だ。

いや逆単身帰任といった方がいい。家族はそのままアメリカに残し、仕事の都合で自分だけ日本に戻ったのだから。


ここまでは同じだ。つまり、昨日まで日本に居た「私」と同じだ。

でもそこからが違う。

このブログの「私」は、日本に帰任してから半年も経たないうちに、「早期退職」を真剣に考え始め、娘の涙がトリガーとなって、ついに2004年3月で退職しているのだ。


それは私だってそのことは考えなかったわけではない。いやむしろ、ほとんど気持ちは「退職」に傾いた、という方が事実に近いだろう。

だがそれからが違う。


このもう一人の私 -これから便宜上、彼のハンドルネームであるリンロン88(これもなんでこんないい加減なハンドルネームなんだ?)の頭文字をとって”R”と呼ぶことにする -は、退職を考えてから不動産投資を真剣に検討したようだ。

この私だってアメリカで不動産賃貸をしていたので、その可能性を考えなかったわけではない。

しかしRは、日本の賃貸用不動産の購入を真剣に検討した結果、年末には購入する契約をし、それも「退職金」をあてにしての購入に踏み切っている。

しかし、実際のところ、私は、検討はしたけれども、そして不動産屋へ顔を出し、話をしてはみたけれども、結局は買わなかったはずだ。

自分の現在のサラリーマンとしての状況と、その年収などを考えた時に、特に生涯収入を計算すればそれは一目瞭然だ。

そのままサラリーマンを続けた方が断然多いのだ。

それに、アパートを一棟買ったぐらいでは、アメリカにおける家族の生活を維持できるだけの収入も望めないことは明らかだ。


今、会社ではリストラの嵐が吹き荒れているが、この御時世、これは止むを得ない状況だと思うし、一方で、自分はそのリストラの対象には絶対にならない自信もあった。

だからこそ、家族をアメリカに残し、一人日本へ帰任してきたのではなかったのか。

もし辞めるつもりなら、帰任などせずに、アメリカから撤退する時に同時に退職していれば良かったはずだ。

なんでまた、一度日本に帰任したにもかかわらず、半年やそこらで退職する道を選んだのだろう。


実際の私は、今は社内カンパニーとは言え、一つのカンパニーの言ってみればナンバー2になっており、年収もかなりの額になる。

そのお陰で、家族と離れ離れに生活しているというマイナス面はあるにしても、一応、経済的にはかなりゆとりのある生活を送ることができている。


なのに、このRは、それを捨てて、早期退職してしまっているのだ!


いったい、こいつは、退職してからもうすぐ2年になるこの間にどんな生活を、あるいは仕事をしてきたのだろう?

そして、いったい、あの時点で私自身があきらめた「退職」という選択肢を選んで、どう感じ、何を考えているのだろう。


突然、現在の状況にそぐわない、そういった興味が沸き起こってきて、現状を把握する、という本来の目的とは離れて、このRという人間に大いに興味をそそられてきた。


もっと日記を読んでみよう、と思ってフリーページからDiaryの方に移ろう、としたその時、

「パパ、おはよう!」


娘の美希が起きてきたのだ。

妻が先ほど言ったことによると今日は日曜のはずだ。 日曜日にしては起きるのが早いんじゃないかと思い、ふと時計に目をやるとすでに10時近くになっていた。

起きたのは確か7時半だったから、すでに2時間以上経過しているわけだ。

驚きの連続で、時間が経ったのも気付かなかった、ということらしい。

「パパ、またブログやっているの?」

とまた娘が言う。

この娘も妻と同様、私が今ここにいて、こうしてパソコンをいじっていることに何の違和感も感じていないようだ。


とすると、やはり、おかしいのは自分ひとりか?

周囲の人間は皆、私がここに居ることを当然のこととして見ている様だが、自分自身はなんで自分がここに居るのか分からないで居る、というわけだ。

そして記憶喪失とかいった類のものでもなさそうなことは、今まで見てきたメールや日記を見ればはっきりしている。

さらに、記憶喪失などでは絶対無い証拠に、同じ時間を過ごしてきている記憶が私にはあるのだ。

ただ、その内容が全く違う・・・・

「ああ、ちょっと日記を見ているんだよ。」

と言うと、娘は、

「私にはパソコンばかりやっていないで、本でも読め、とか言って、自分はいつもパソコンばっかり。ずるい!」


私は苦笑するしかなかった。

いかにも私が言いそうなことだが、Rも同じようなことをしているらしい。

「まあ、いいからいいから。さ、ブレックファストを食べてきなさい。まだなんだろ?」

と言って、娘を追い出す。


さ、ここまで2時間以上こんな状態でいて、会話も「現実」と同じようにリアリスティックだ。

どうも「夢」でも無さそうだ。


では、本当になんなんだ、という、同じ堂々巡りの疑問がまたぞろ湧き上がってきて、娘が向こうに行ってしまうと急いでまたPCに向かう。

なんとしても、何が起こっているのか究明しなければ・・・


■ Rの生き方

それから小一時間、むさぼるように過去の日記を読んだ。

だんだんはっきりしてきた。 

いや、今の私の置かれている状況が、ではなく、このRという人間がどんな人間なのか、がだ。

退職を決意した経緯から、そのあとの生活設営まで、何をどんなやり方でやって今まで生活してきているのか、など、表面的なことは大分分かった。

余裕で、とはお世辞には言えないまでも、なんとかぎりぎりの線で生活を不労所得だけで成り立たせているようだ。


驚いたことに退職した時のアパート購入は一棟ではなく二棟になっており、さらに昨年にはもう一棟買い足している。

そんな資金がどこから出てきたのか、このブログだけではよく分からないし、今私が考えても何も可能性を思いつかない。

いったいどんな手を使ったのだろう?


とにかく、"R" という人間の退職後に辿ってきた道はあらまし見えてきたが、依然として肝心の疑問に対してはなんの手がかりもない。

ただ一つだけ言えるのは、このRと私の「経験」の違いは、どうもアメリカの事業を閉じ日本に帰任してから不動産の購入を決意するまでの間のどこかの時点、そこから発生し、そのまま現在に至っているらしい、ということ。

つまり、その「分岐点」以前は、このブログで読む限りほとんど私自身の記憶と重なっていてなんら矛盾するところがない。

ところがその「分岐点」を境に、方やサラリーマン継続の道を選び、方や早期退職の道を選んだ。

そして、早期退職を選んだRの、その後の軌跡を書いたのがこの「Happy Rich」というブログであり、私の軌跡を書いたものが「仕事を極める!・・・」のブログである、ということだ。


それにしても、つい2年前まで同じ人間だった(らしい)Rの物事の考え方は、当然のことながら私の考え方とほとんど同じである。

そんな人間が、私とは異なる結論を出してから、今に至るまでその活動というかあがきというか、そういったもの続けてきたことをこの日記で読んで、少なからず感銘を受けてしまった。


現在の状況を考えるとこんなことに感銘を受けているヒマはないのだが、それでも、私が時々考える「もし、あの時、退職を決意していたら・・・」ということを実際に実行しているのだ。

興味が無いわけがないし、ここまで実際に「実績」として見せられると常日頃、「やはり退職せず勤めを続けて良かったんだ」と思っていたことが急に色褪せてくる。

一番衝撃的な言葉は、このブログのあちこちに出てくる「退職の決断は間違っていなかった!」という言葉だ。

そう言い切れているRと、それが言えるかどうかが不安で退職を諦めた私・・・

その違いはどこにあったのか?


私は退職を諦め、勤務を続けることによって、経済的な安定性とおそらくRに対しては経済的な優位性というものは手に入れてはいるだろう。

しかし、そのせいで犠牲にしてきたものは少なくない。

家族と一緒の生活、というのがその最たるものだ。

もちろん、勤務を継続しながらも、私としては最大限の家族との接触を保ってきた。私自身が年に2回米国に行く。そして家族は毎年日本に一時帰国する。

つまり、年3回はなんらかの形で一緒に過ごしているのだ。

これを実現するだけでも今の激務の中ではかなりしんどいが、それでもこれは最低限の義務だと思って、この2年実行している。

しかし、それにしても普段の生活を、娘や息子と、そして誰よりも妻と共に過ごすことが出来ないことに対しては、いつも申し訳なさを感じ、会社の都合ではあっても、こういった状況に家族を置いてしまったことに対し、罪悪感を感じているのも事実だ。

私だって、60歳の定年まで勤めるつもりはない。

しかし、経済的に見通しがつく55歳まではなんとか勤めたいと思い、家族にもあと5年、あと4年、あと3年の辛抱だ、と話してきた。

妻は表立っては言わないが、やはりそんな状況にかなりの不満を感じているようだし、確かに女手一つで、2人の子供をアメリカで育てることの大変さは想像に難くない。

だからこそ、いつも申し訳ない、という思いを抱いているのだが、だからと言って全員で日本に帰る、という選択肢は2人の合意の下に取らなかった。

その点に関しては、私の一存ではなかった、という意味で申し訳ない気持ちを抱く必要もないのだが、妻はそれでももっと早く退職するものだと思っていた節がある。


このRは、一度日本に帰ったことは帰ったが、その1年後にアメリカへ戻り家族と合流する道を選んだ。

それによって犠牲にしたのは何だったのだろうか?

このブログで読む限り、経済的な安定性というものはサラリーマン時代とそれほど変わっていないようだし、唯一、生活レベルを少し落としただけのように見える。


もし、退職前にそんな状況が見えていたら、私だって退職を決意したかもしれない。

しかし、現実にはそれが見えなかった。

だからこそ、あと何年かはサラリーマンを続けようと決断したのだが、本当にそれが良かったのだろうか・・・

それとも、あの時にRと同じように、もっと深く経済設計を検討したら、その実現可能性を見出すことが出来たのだろうか・・・


■「分岐点」の発見  

ひとしきりブログの過去日記を読み、だいたいRという人間と彼のやってきたこと、あるいはやっていることなどは分かり始めてきたのだが、いかんせん、肝心の「なぜ?」という疑問に対しては手がかりすら掴めない。

そこで、しばらく考えた後、始めにもどって、過去メールをチェックすることにした。

まず、もう少し、どこからこの二つの世界が分かれてしまったのか、その分岐点をはっきりさせようと思ったのだ。

その分岐点があきらかになれば、その「なぜ?」という疑問に対する答えが見つかるかもしれない。


今朝メールをチェックした時は、ごく最近1ヶ月ぐらいのメールしか見ておらず、そのあまりの不可解さに動転し、そのままブログの方に行ってしまった。

しかし、ブログは私にしてもRにしても退職後に始めているので、肝心の「分岐点」付近に関する情報はほとんど回想という形でしか載っていない。

その点、過去メールをチェックすれば、退職前のメールも見つかり、そこにもしかしたらこの「分岐点」を見出す手がかりが得られるかもしれない、と思ったのだ。


私は結構ずぼらな性格なので、過去のメールは一旦整理してしまうとよっぽどのことがない限り消去したり、他のバックアップへ転送する、なんてことはしていない。

このRも、根本が私と同様だったらやはり同じように「ずぼら」で、過去のメールは全てフォルダーに保存されているはずだ。


期待しながら、次々とフォルダーを開けていく。

幸いなことに「会社関係」というフォルダーがいまだに存在していた。やはり「ずぼら」だ。

早速開けてみると、なんのことはない、最近のメールは勤めている(Rにとっては勤めていた)会社の同僚や後輩などからのメールが大半だった。

そこで、その辺は時々拾い読みする程度で、どんどん前の方に移動してゆく。


「あった!」

私は心の中で快哉を叫ぶ!

とうとう見慣れたメールにぶつかったのだ!

日付は2003年11月XX日。

当時はRも(当然私も)会社に勤めていたので、殆どの会社関係のメールは会社のメールアドレスで行っており、自分の個人アドレスであるこのYahooを使うことはめったになかった。

しかし、土日や祝日などでも家でメールを読めるように、この個人アドレスに週末になると転送設定していた。

したがって、会社のメールがどっと来ているのだが、やはりこの2004年の1月以降のメールには見覚えがない。


ところが、この11月XX日のメール、ここで初めて見覚えのあるメールが見つかったのだ。

それは「住宅積立金の解約について」という人事からのメールだった。


確かに私もその頃、不動産投資を考えていて、その購入にあたっての資金繰りに、当時やっていた会社の「住宅積み立て」の解約を考えていたのだ。

ただし、私の場合は結局、検討だけに終わって解約するまでには至らなかったのだが、その検討のために人事にこの問い合わせをした記憶はある。


早速内容を読んでみると、案の上、記憶の中にある人事からの解約手続きと早期解約のペナルティに関する説明であった。


よし、ここまでは私とRは同じ道を辿っているようだ。

ということは「分岐点」なるものが本当にあるとすれば、この後で、見慣れぬメールばかりになる1月までの間だ、ということになる。


その他のメールを見てみると、そんなメールがあったかどうか、記憶が定かでなく、これがRと私とで共通なのか、そうでないのか、分からないメールが続き、翌年の1月になると、はっきりとこんなメールは出していない、と断定できる内容がちらほら見受けられるようになった。


つまり、「分岐点」はこの11月XX日以降、この12月のいつかまでの間だ、ということになり、徐々に絞られてきた。


「会社関連」のフォルダーでは、この分岐点を特定する他のメールが見当たらないため、次に同じ期間の他のフォルダー内のメールを見てゆくことにした。


次々にメールをチェックしてゆくが、なかなか問題の「分岐点」に関する情報がとれるようなものがない。


ところが、「○○不動産」と名づけてあるフォルダーを開いてみていた時だ。

この「○○不動産」というのは、私も行って話を聞いて帰ってきたことがあるので知っているが、こんなフォルダーを作った記憶はない。

その中で、11月末のメールを見ていたら、なんと「ローンの申し込みについて」と表題のあるメールが、この不動産屋さんから来ていた。


「これは!」と内心思った。

私はローンの申し込みなどをした覚えはないし、そんなところまで突っ込んで不動産屋さんと話した記憶もないからである。

ということは、この「分岐点」は、先の11月XX日から、この11月末のたった2週間ほどの間にあることになる。

さらにさかのぼると、「物件視察」というメールがその4日まえにあり、これも記憶がない。

また、さらにその2日前に「お打ち合わせの件」という表題のメールが有り、どうも、この頃頻繁にこの不動産屋さんと会っていたらしい。

結局、このメール以前は、この不動産屋さんとのメールはなく、ここから始まっているのだ。

ここから言えることは、11月XX日の見覚えのある人事からのメールから、この不動産屋さんとの最初のメールまでの一週間ぐらいがこの「分岐点」らしい、という結論になる。

この間に何があったのだろう・・・


他のフォルダーを当ってみたが、肝心のこのあたりの日付のメールは見つからず、このメールの調査から得られる情報はこれだけだ、と結論するまで大して時間はかからなかった。

しかし、ある程度絞れた。

2003年の11月中旬、なにかがあったのだ。


■ 渚にて

さて、この2003年11月の中旬に何があったのか、それを調べるにはどうしたらいいか、と考えていた時、


「パパ、早く用意してよ!」

という妻の声が聞こえてきた。

はっとして、時計を見るともう午後の1時近い。

もしかすると、Rという人間は家族のための昼食などを作る役割を割り当てられているのかな、とふと思ったが、自分ならそんなことはありえない、と思い直した。

Rが私と同様な人間だったら、多分そんなことはしていないだろう。ろくなものが出来やしないのだから・・

だとしたら、「用意」って何だろう?


そこで、「何を?」と問い返してみた。 すると、

「何を言っているのよ。今日は2時ごろ出発する、って言っていたじゃないの!」

と妻。


「???」であるが、ここは合わせなければいけない。ちょっと考えてから、

「あれ、もうこんな時間か。ごめんごめん。」

と言いながら、さて、どこへ出発するのかをどうやって探り出そうかと考えていた。

そこへ、息子が2階から降りてきて、

「ヒルトンヘッドって、どこにあるんだっけ?」

と聞く。妻が、

「一回行った事があるでしょ? もう忘れちゃった?」

と言う。どうも、これから出発するのはヒルトンヘッドらしい。

ヒルトンヘッドアイランドは、ジョージア州の東岸、大西洋に面した保養地である。

数多くのホテルと、ゴルフ場、海水浴場、アウトレットなどがあり、昔、確かに行った事がある。


こうして、肝心の「分岐点」と「問題」の調査は中断せざるを得なくなり、そのままばたばたと準備をしてから家族揃ってヒルトンヘッドへ向かった。

丁度日曜日だったので、日曜日夜からの宿泊は、こういった観光地では格安になることが多い。

今回も多分、妻がそんな「格安宿泊プラン」を見つけて、行くことになったのだろう。昔からそうだったから・・・


ホテルに着くともう夕方であった。

暖かいとは言え、そんな時間ではプールも海も寒くては入れないし、そろそろ暗くなってくる時間だ。

そこで、家族でホテル周辺の散策に出かけることにした。


ホテルの前は海だ。

夕日は雲にさえぎられて見えなかったが、雲の切れ目が金色に光っている。

徐々にその光が金色から黄色へ、黄色からピンクへと変わってゆく間、娘と息子は海岸で貝殻を拾っている。


妻が娘や息子と一緒に、その貝殻拾いに興じているのを見ながら、私は近くの岩に腰をおろしてそれを眺めていた。


波がおだやかに寄せては返し、彼らの足跡をついたそばから消してゆく。

平和だ。


もう何年もこんな平和な気持ちになったことが無いような気がする。

波の打ち寄せる音を聞きながら、心は当然のごとく、昼に自宅を出た時の状況を思い出してゆく。


ここへ来る道すがら、車を運転し、家族と話をしながらも、そのことは頭を離れなかったのだが、こうして、波の音、という静寂以上の静寂の中に居ると、またまたそのことを考え出す。


何が起きたのだろう。

それとも私がどうかしたのだろうか。

でも、あのメールを確認した時にも思ったのだが、あの「分岐点」までの記憶はしっかりしているし、Rの記録ともなんの矛盾もない。

あの11月の一週間。


いったい私は何をしていたのか。

もう一度、じっくり思い返してみた。

あの「住宅積み立て」を解約した場合の金額を知ってから、自分はどうしたのだったか・・・


ふと、その後の不動産屋さんからのメールを思い出す。

「そうだ、あの後の土曜日か日曜日に、あの不動産屋へ顔を出したのではなかったか?」


軍資金の目処を立て、それをもとに不動産投資をしたら、どんなものが買えて、どんな収支になるのか、ということを検討していた時期だった。

そうだ、確かにあの後に不動産屋へ行ったはずだ!

しかし、私は行っただけに終わった。なにも買いはしなかったし、その収支を検討したら、とてもそれだけで「退職」という結論を出すにはあまりにも不足だった。


ところが、このRは、それから何回もこの不動産屋へ出向き、物件視察をし、ついには11月の末にはローンの申し込みまでしているようだった。

つまり、他のことはともかく、明らかにこの一週間あまりの間で二つの人生(?)が別れ、その分かれた最たるものは「退職」への決断と「不動産投資」の可能性の追求ではなかったか。


そう推察しても、これと言った矛盾はないような気がする。

が、それだけだ。

「分岐点」らしきものは、ほぼ分かりかけてきた。

その「分岐点」で、何が分かれたのかも、推測できるところまできた。

しかし、「なぜ」それが起きて、また「なぜ」突然、私が「R」の住んでいる世界に飛び込んでしまったのか、それは依然として皆目見当が付かない。


笑い声を上げる娘と妻がすぐ向こうの波打ち際で貝殻拾いに興じている。

それを眺めていると、本当に平穏な時の流れを感じる。

「幸せ」という言葉がふと脳裏に浮かぶ。


これが、「R」が何度もブログで書いていた、「退職の決断は間違っていなかった!」ということの意味なのだろうか・・・

彼のブログで 「フロリダにて」 「Mayaのバカンス報告」 などを見るとつくづくそう思われてくる。

この二つの日記を比べてみると、約一年の開きがある。

そして、退職後半年目の一つ目の日記では、さすがに「退職」してから家族と共に暮らせる幸せを実感していると、あえて言葉にしている。

ところが、二つ目の退職後一年半以上経ったときの日記では、ことさら、この「幸せ」ということが書かれておらず、むしろ淡々と家族との交流をつづっているだけになっている。

つまり、この「家族揃って暮らせる幸せ」がことさら特別なことではなく、日常になってきた、ということなのだろう。



それにしても、私がこのRの世界に来てしまったのが現実なら、Rはいったいどうしたのだろう。


もしかすると、Rが私の居た世界に飛び込んでいるのかもしれない、と考えることは無理があるだろうか?


もし、そうであれば、Rは、向こうの私の世界に突然放り込まれ、東京の自宅の和室で目をさまし、どんな行動をとることであろうか。


彼には、「退職の決断は間違っていなかった」と言っている通り、この世界が彼の求めていた世界であったろうし、そういう世界にするために必死に努力をしてきたのだろう。

それが、突然、退職する決心が付かなかった「私」の世界に入り、そして家族をアメリカに残しながら、毎日会社へ通う生活へ逆戻りしたのだ。


その時、彼が何を感じ、何を考えるだろうか・・・



私は、この世界がどんな世界で、Rがこの2年間何をしてきたのかはまだよく知らない。

知らないが、ひとつだけ言えるような気がする。


この世界の方が、私がもと居た世界よりも自分にとっては好ましいようだ、ということ。

もし本当にRが私の世界に行ってしまったのなら、心から申し訳なく思う。

多分、彼もこちらの世界の方が「好き」だろうから・・・


いつか、また突然、同じようなことが起きて、私が元居た私の世界に戻り、Rがこの世界に戻ることがあるのだろうか・・

私にはわからない。


しばらく、そのまま寄せては返す波を見つめていると、その向こうに、Rがその波を通してこちら側を見つめているような錯覚に陥ってきた。


彼の表情までは見えない。ただ、悲しそうな顔をしているように感じる。

私もそんな彼を心に感じて、またまた申し訳ないような気持ちになってきた。



ふと見ると、3人が戻ってきた。

「パパ、少し寒くなってきたから戻りましょうよ。」


「ああ、そうしようか。」


家族4人、薄暗くなった海辺を、暖かい光がもれるホテルの方に歩いていった。



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