ブログを作る※無料・簡単アフィリ    ブログトップ | 楽天市場
088231 ランダム
あびの万華鏡 (そのほか)楽天ブログ 【ケータイで見る】 【ログイン】

あびの万華鏡
ホーム 日記 プロフィール オークション 掲示板 ブックマーク お買い物一覧

PR

Let's link!

>お気に入りブログに追加
ブログが更新されると
メールでお知らせします

Calendar

May 2012
SMTWTFS
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<backthis monthnext>

Favorite Blog

クワッチのGW慶良…New!まー(シモパ)さん

お粗末だ、話にな…けりーまえださん

[メール更新]校門…アッキー0081さん

Rakuten Ranking

Comments

 abhi関連日記学びの共同体カルト論 http://plaza.ra...
 abhiもっとメモ「中部電力は静岡県に対し去年(2011年...
 abhiメモ 原発授業の社会の先生の今日の歴史の...
 まー(シモパ)そうか久しぶりに覗きに来た。 お気に入りに...
 abhiRe:研究授業「受け身でクイズ」感想(05/13) あ、違う。手話表現は演劇空間を手で...
 abhiRe[1]:研究授業「受け身でクイズ」感想(05/13) いずれにしろ、受け身表現や使役表現...
 abhiRe:研究授業「受け身でクイズ」感想(05/13) 手話の受け身表現、使役表現の視覚的...
 abhiRe:そうか(04/15)まー(シモパ)さん >関西で受けが良...
 まー(シモパ)そうか関西で受けが良くないのか。 それで...
 abhiRe:加藤登紀子ライブ@キエフ(04/08) なぜおっかけにならないのかと言うと...

Mobile

>>ケータイに
このブログの
URLを送信!

 

  あびです。ここ一年ほどはここにはあまり書いていません。facebookを毎日使っています。twitter、MIXI、新浪微博(中国のツイッター)も使っています。それらのアドレスを知りたい方は個人メッセージをください。

『魂の螺旋(らせん)ダンス はるかなる今ここへ』 あび著 第三書館 1890円

 すべてを超え、すべてを抱きしめたい!



 日本の精神文化の殆ど悉くはなぜ天皇制に巻き込まれて戦争を支持してしまったか。 
 
 ディープ・デモクラシーとは、すべての声を聞き届けることを通して、彼方の彼方へ超越していくことである。

 螺旋の中の無数の螺旋。
 うねりながら、きらめきながら。
 遙かなる今ここへ。
 永遠の今ここで。
 
楽天では品切れなので下記のアドレスをコピペしてamazonで買ってください。
また、お近くの書店で取り寄せもできます。
http://www.amazon.co.jp/%E9%AD%82%E3%81%AE%E8%9E%BA%E6%97%8B%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9%E2%80%95%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%82%8B%E4%BB%8A%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%B8-%E9%95%B7%E6%B2%A2-%E9%9D%96%E6%B5%A9/dp/4807404164


CD『サキャ・タシ・リン 癒される場所』
 スペインにあるチベット仏教の僧院でのマントラの詠唱とニューエイジミュージックの融合。ダライラマの祝辞も受けているアルバムです。
 あびはライナーノートを共訳しました。マントラの効果の解説などです。
 

『ええぞ、カルロス』
あび作 はせがわさちこ絵の 絵本。
 ブラジルからの転校生は日本語がひとこともわからない。さて、クラスの仲間はどうする?
 次のページで全文読めます。(無料)
http://www.manabi.city.osaka.jp/Contents/jinken/ehon/ehon/karurosu/e_karurosu.htm


あびの電子詩集「超蝶の宇宙ダンス」
http://p.booklog.jp/book/21932


あびの電子評論集「境界を超えて」
http://p.booklog.jp/book/22060

abhiの日記 [全458件]

2012.05.21楽天プロフィール Add to Google XML

日食の悟り

日食で騒いでいるのは
一部の人類だけで
鳥も獣も
虫も花も
風も雲も
いつものごとく
永遠の今ここを生きていた。

わたしはあらためて思った。
特別な瞬間があるのではない。
すべての瞬間が特別なのだ。

そうなのだ。

日食が美しいのではない。
あらゆる宇宙現象に神秘を感じ、
愛で(めで)祝う、
人間のハートが美しいのだ。

日食が禍々しいのではない。
あるがままの宇宙の運行に、
吉や凶を読み取り、
怖れたり蓋をしたりする
人間の脳みそが禍々しいのだ。


Last updated 2012.05.22 00:36:29
コメント(0) | コメントを書く


2012.05.17

協同的な学び アジテーションの宿命  (3)

facebookより、メモの順に転載します。
 
 静岡の元吉原中学での研究会で、佐藤学に会った。原発のプラスだけをあげた資料による実践例について、会場で質問した。彼の答は、どんな結論を想定して授業するかは、私ではなく、現場の先生が決めるものだというものだった。確かに文学の解釈などについてはそれは言えるが、戦争や原発についても、その原理ですませるものか?!それなら、学びの共同体は、 おそろしく危険で無内容な器だ。その授業をした先生も会場にいた。その先生と、あびとのやりとりに会場は凍りついたように押しだまった。帰ってから詳しく書く。

  5月17日学びの共同体実践校、富士市立元吉原中学校見学。
 午前中いろいろな授業を見て、午後にはメインの研究授業を見て、そのあと研究協議会。
 メインの授業は「素顔同盟」という図式的でわかりやすい短編を用いた国語の授業。この授業は新任4年目だというおねえちゃんの天然な間合いがよくて、生徒がよく思考していたと思う。
 それについての研究協議会もわきあいあいと進んだ。意外に佐藤学が深く追求するようなアドバイスを言わないなあと思ったぐらいで、まあ、なんとなくわきあいあいとしていて、不快ではなかった。あえて言うなら、佐藤学も年中こんなことばかりやっているので、少し弛緩しているのではないかと思った。つまり。一度限りの授業への入魂のアドバイスという感じがしなかった。でもまああっさりとしていて、これでいいのかもと思った程度だった。
 しかし、そのあと佐藤学の講演ということになってからは、あびは違和感を覚え始めた。 佐藤学の話の進め方が、ネットワークビジネス乗りなセールストークな感じがした。まず授業をとても誉めてこの研究授業に来られた人はみんなすごいラッキーだと言い、上げバイ(ほめたり、ラッキーだと思わせることで心開かせる)する。
 その上で時々センセーショナルな話題を混ぜ、それを極端に言うことで、耳目を引く。特に「ここが日本で一番学力の高い学校で」とか「一番低い学校で」とかいうそういう言葉を根拠もなしに用いるところがうさんくさかった。
 しかし、かと思うと、また根源的なことを言うことに戻るので、聴衆の心は開く。と、今度は学びの共同体がいかに(世界じゅうに)広まっているかの宣伝が続く。その「ないまぜ方」が、あびからすると俗なセールストークに見えた。
 もう少し具体的に細部の例を挙げると、「学力を上げることが重要なんじゃない」と言いながら「学力が上がった例を自慢する」、自慢しておいてまた「それが重要なのではない」と根源的な話に戻って、聴衆の心を開かせる。そういうシーソー的なリズムの中で、これをすごいと思わせる手法があり、浄水器や健康用品のセールスと共通していると思った。
 このハメルンの笛吹き的な乗りが好きな人もいるのかもしれないけど、あびはこういうのが好きではない。たぶん、もっと強圧的でゴリ押しのやり方と同じぐらい好きではないのだ。
 質問のコーナーがないのだなと思って片付け始めた頃、会場の誰でも質問をどうぞとなったので、すかさず手を挙げた。
 最初に言ったのは、協同的な学びのい進め方において十分に論議をせずに管理職がごり押しするケースがある点について。それを知ってるのか、どう思うのかということ。佐藤さんの本を読んだが前半は根源的なことが書いてあったが、実践の話になると熱と力が入っていることにプッシュするような乗りを感じたこと。今日の話も後半はセールストークに聞こえたということだ。
 佐藤さんは「今日の話がセールストーク的というのは心外だ。ここの学校のために来ているのであって後ろの聴衆のために来ているのではない」と言った。あびは「前半はそう感じたが、後半は後ろの聴衆に対してセールスのエネルギーをそそぎ始めたのを感じた」と言うと、あ、そうかという感じで、認めてしまったように見えた。そのあと、その話にもう一度佐藤さんが戻って、こうこうこういうことか、と聞いたとき、「そうではなくて、たとえばわざとセンセーショナルな話を混ぜて引きつけたりすることだ」と説明すると、「あ、そのへんはもともと運動家だからアジテーションの癖があるのかもしれない」とあっさり認めた。どっちかというと、このあっさり認めた感じにこそ、ぼくはまだしも敬意を覚えた。
 そして佐藤学が使った「アジテーション」という言葉は、ぼくが言った「セールストーク」という言葉よりも本質を突いているのかもしれないと思った。彼はもともとアジテーターとしての側面を持っていて、そのことと根源的な思想とのバランスをどうとるかという課題が常に存在するのだとぼくは思う。もしも、彼が根源的な思想を抱いたとしても、アジテーターの「才能」(ぼくは才能に「  」を付けたいが)がなければ、「協同的な学び」の実践はこれほどの広がりを持たなかっただろう。そのかわり、これから、あびが縷々述べていこうとしている様々な問題も生じなかっただろう。
 なぜなら、運動として広がってしまった場合には、その現象特有の様々な課題が、必ず付随して生じてくるものだからである。

 つまり、あびに言わせれば、佐藤学はアジテーターなのか、思想家なのかという点について、もっともっと悩んだほうがいいのではないかと思うというわけなのだ。そして、本人のクチから「ついアジテーションしてしまう」という言葉が出た限りにおいて、彼自身、そのことはある程度自覚しているように思われたのである。
 人々はそこに彼のもう一つの才能を感じるかもしれない。だが、あびは逆にそこに彼の孤独を感じる。もしも、有能なアジテーターの彼の信望者のような取り巻きではなく、たとえば高校時代からの悪友のような、本当の友達が何人かいたなら、その友達なら、こう言うだろう。
 「もうアジるのはやめておけ。ええかげんにしておけ。広まれば広まるだけいろいろやっかいなことも増えて、はじめに思っていたのと違うことがいっぱい始まる。それよりあとは本当にしたいことを絞って自分のために深めることだ」

 さて、そのアジテーターとしての才能があるがゆえに広まってしまった場合に生じてくる諸問題なのだが。
 ひとつは信望者の中から、スピリットを継承せず、形式的にとらえ、しかもそれをトップダウンでごり押ししようとする人が現れるということだ。この件については、あびの質問に応える中で佐藤さんは「そういう人は方法論としてだけとらえているのではないか。しかし、本当は方法論ではないのです」と言った。
 「そうです。やり方を箇条書きにしたりするのです」と応えた。しかし、やり方の箇条書きは、実は佐藤さんにおいて既に微妙に始まっている。箇条書きし、根源に戻る、改めて観察し、コメントし、また箇条書きする。そしてそれをアジテートする。そうするから、箇条書きを受け取る人が出てくる。当然の報いというか、成果というか・・・。汗。
 それに箇条書きの人もたぶんスピリットの何ほどかは受け取っている。だからこそ、入れこむ。それがまた悪気のないゴリ押しにつながる。
 元に戻ると、うまくアジテートした限りにおいて、それは当然の報いというか成果ではないか。

  さて、そしてそのアジテートした限りにおいてはつきまとう成果=報いのもうひとつが、あびのもう一つの質問に関連する。
 自分ばかり話すのも何なので、あびはもう質問を重ねるのは半ば諦めていたのだが、司会者が「ほかに質問ありますか」と言ったとき、会場からだれも手を挙げなかったのである。そこであびは、会場をざっと見まわしたあげく、また手を挙げて「まだあるのですが、いいですか」と言った。すると、佐藤さんがどうぞと言ったのである。(結局、この日、会場から質問したのは、あびだけなのです。苦笑。)
 そして質問したのが、原発が優れているという面からの資料だけを基にして行われた社会科の授業の件である。佐藤さんはこの授業を知っていましたか。知ってどう思いますかと尋ねたのである。
 佐藤さんは「どこの学校ですか」と尋ねた。ぼくは「この学校です。今、手元に資料もあります」と応えた。佐藤さんの応えは
 「どういう結論を想定して資料を提示するのかは先生の決めることです」と言った。「えっ」とぼくは声を上げた。ぼくは生徒ができるだけ多様な視点を持って論議できるように資料を提示するのが教師の仕事ではないかと思っていたので、生徒ではなく、先生が結論を決めていいと言ったように聞こえて驚いたのだ。しかし、もう少し聞いていると、あ、この意味かと思ったので、こう聞き直した。
 「佐藤先生が決めることではなく、現場の先生が決めることだという意味ですか」
 「そうです。でないと、それこそ強制になってしまうでしょう」
なるほど。これは一見、謙虚な考え方のようにも見える。姿勢としては重要な要素も含んでいると思う。だが、ここにはもっと大きな問題が横たわっているのではないか。

  そしてさらに場面に緊張を呼ぶ事態となった。たぶんあの人だとは思っていたのだが、その原発授業の社会の先生がその場にいて、「ぼくの授業です」と言って、発言し始めたのだ。
 「原発については、だめだという視点があまりにも強すぎると思って、わざとその逆の資料を投げかけたのです」と彼は説明した。
 「問題点についての考察をわざわざ削除した形跡がある。原発の問題点について一切、考察しないというのでは、問題がある」ことをあびは説明した。
 「わたしは問題点についての資料は提示しなかったが、生徒が自分で問題点に関する資料を持ってきた。わたしの思い通りになるものでもない」と彼は説明した。
 どの段階でだったか、あびはここは浜岡原発にも近いこと、にもかかわらず、学校のホームページの防災の調べ学習で、東海地震が起こったらという想定で書かれている中に、浜岡原発への言及が一切ないのは不自然であることも指摘しました。
 ふと会場のエネルギーを感じると、凍りついたような感じでした。このときの沈黙は、今日のどの授業の沈黙よりも深いようにあびは感じました。
 佐藤さんは黙って、覗き込むようにあびの顔を見ていました。不測の事態に「どうしたものか」と考えあぐねているようにも見えた。
 あびは「今日、この話ができたこと自体に意義を感じる」と言った。
 佐藤さんが頷いていた。
 司会者が、全体を通してのまとめに入った。
 しかし、プロセスワーク的には、あの凍りついた感じのその先こそが、「議論」の名に値する議論の場所であろう。
 そして後から思えば、佐藤さんは、「結論の想定を決めるのは現場の先生だ」と言っただけで、自分が原発についてどう思うのかは言わなかった。言った上で、「それでも授業のことを決めるのは現場の先生だ」と言うのなら、まだ話はわかるが、自分の考えを言わないままというのでは、不全感が強い。

  佐藤さんはこれは方法論ではないのだと言った。ぼくの解釈ではそれはスピリットが重要だということだ。だが、そのスピリットとは何なのか。原発擁護も戦争擁護も各先生の自由というようなことになれば、それはやっぱり空っぽの方法論に過ぎないことになるのではないか。いったい何のための教育なのか。協同的な学びを行っていようといまいと、東海地震が来て原発事故が起これば、現に今この中学に通う子どもたちの命がないがしろになるのだ。それはもともとのスピリットに反することではないのか。




Last updated 2012.05.18 00:32:18
コメント(3) | コメントを書く

2012.05.13

next tune

永いパーティが終わり
卒業式
ありがとう楽しいパーティだった
君がそう言ってくれたから
僕はもう思い残すことはない
桜がまた咲いて
始まる次のパーティ
君達はまだ
これがパーティだとも気づかず
少し大きめの制服を身にまとい
きょとんとした顔で僕を見ている
開店したばかりの午後九時のクラブのように
踊る人はまだまばらで
ぽつりぽつりと役者が現れはじめているところ
最初から飛ばしたりはせず
まずは静かな曲で
けれども何人かは気づいている
なんだかくすくす笑えてくるぞ
もしかしてここは
なにか違うことの起きる場所?
ふふふ
それはまだ秘密だよ
それに君達はゲストではなく
君達こそがダンサーなんだ
一曲目が終わって最初の週末
さあ先生はつぎの曲を選んで
ターンテーブルに載せるところ
リズムが聞こえてくるかい
COME ON!


Last updated 2012.05.13 15:59:25
コメント(0) | コメントを書く

研究授業「受け身でクイズ」感想  (4)

 日本語のほかに、英語、中国語、手話など、すべての言語に受け身と使役があるのは、その表現には必然性があり、人間の生活に必要だからだと想う。
 いわゆるテスト学力の低い生徒にも、それは生活の中で必要なものであり、その必要の必然性が感じられているときに、それは誰もが身につけていくスキルとなり、その必要の必然性が感じられていないときに、それはお仕着せの勉強となる。
 その意味で「受け身でクイズ」の目の付け所はとてもいいと想った。
なぜなら、「それ」を先に設定し、「それ」は何かを当てるためには、常に「それ」を主語に固定して受け身で表現するとわかりやすいからだ。
「それ」の実体が、謎でありつつ常に主語であることによって、よいクイズとして成立するのだ。

 だから
「最初に「それ」を決めたら、「それ」が主語になる文をいくつも作って、「それ」を当てるクイズを作るのですよ」
というのをグランドルールとして、しっかり説明する必要があったと想う。
 そのために必要となってくるものこそ、受け身表現なのだ。

 その際、取り組みを可能にする準備としては「それ」を受け身で表現するときの例文を、いくつものパターンで示しておくといい。
第一ヒント それは(誰)によって行われる。
第二ヒント それは(どこ)で行われる。
第三ヒント それは(何)によってできている。
などなど。

そうすることで、その例文のパターンに別の単語を当てはめれば、自分たちが決めた「それ」についても、自分たちだけでクイズを作ることができるはずである。殆どの子に参加可能なゲームになったと想う。
そしてそのゲームを通して、「受け身がどのようなときに使う表現であるか」「受け身の実際の作り方と活用」を、学んでいくことができるわけだ。

(もっと深めれば、立場を変えて表現する方法をすべての言語が持っていることについて考えることは、一種、哲学的な瞬間となるだろう。
 いじめる側といじめられる側、侵略する側とされる側、話しかける側と話しかけられる側など、多様な視点につなげることも可能だ。)

 かつて授業研究とはそのようなことを話し合うものであったはずである。そしてそのような構想をしっかりと持つことができれば、それは一斉学習でも成立する。逆に構想が弱ければグループ学習としても成立しないのだと想う。
 最初から構想と授業の構造化が完全であれば、グループ学習は成立するが、実はこのようなことを毎時間、前もって最後まできちんと突き詰めて考えておくのは、教師にとっても難しい。
 ただ専門家としての教師であれば、少なくとも授業中に「何が本質的なことなのか」について、生徒とのやりとりの中で、はっと自覚する瞬間がある。
ひとりで授業を構想しているときよりも、対話者としての生徒が目の前にいることで、もっと自覚しやすいのである。
 あるいは本質から外れていったとき、自分の説明不足に気がつき、その場で補足説明できるのも、一斉授業ならでは、であろう。
そのように、生徒と教師とのやりとりの中で、教師の側に、ライヴで新しい自覚が起こったときに、全体を巻き込む形で、今ここでいくらでも展開していけるのが、一斉授業の強みだと想う。
 もっと突っ込んでいえば、教師も一参加者として、無防備にその場での「対話」に参加しているのは、むしろ一斉授業ではないかと想うことすら、ままある。
 だから重要なことは、その一斉授業の一クラスの人数を減らすことの方だと想う。



Last updated 2012.05.13 14:25:28
コメント(4) | コメントを書く

 学びの共同体における写真の暴力性について

 学びの共同体の推進を薦める講演をしに来た講師が、当該校の授業を見て回り、その時に撮る写真について、想うところがあった。
 原理的に言って、写真が撮影するのは、撮影者の意識であり、事実ではない。プライベートなスナップショットでもそうだが、報道写真においてはもっとそうで、講演の準備として撮影される写真は報道写真以上にそうだ。
 講師は日常のその学校、学級やそれぞれの生徒の背景を知っているわけではないから、瞬間の絵で判断する。いや、瞬間の絵の中に、自分の問題意識を語ってくれるショットを探しているのである。
 たとえば、時間中に生徒の視線が、活発に会話している生徒の方にそそがれるのは、何度かあることである。その瞬間をとらえて撮影し、彼は自分のグループで関わりがもてていないので、他のグループが羨ましいのであるという説明が下される。
 それは撮影者の「思考」であって、事実ではない。実際、先日体験した例では、その場面を日常性と搦めて見ると、その子にとってはむしろ自分のグループでの関わりはとてもとても濃密である。一方、その子の視線は、その瞬間の興味によってそこへでもさまようのも知っている。
だから、そのうちのある瞬間をとらえて、撮影者の問題意識を投影し、それを講演で使うという手法そのものが、状況への介入の仕方として、ある種の暴力性を秘めているように想った。先に問題意識があって、仕事として、絵を探しているからだ。
真摯な報道写真家なら、一度は根本的に悩むであろうこの「写真の暴力性」について、一度は自分が崩壊するほど悩んだほうがいいのではないかと想った。

 ついでに付しておくが、物事を薦めるときのセールステクニックとして、まず下げバイ(相手の欠点を指摘する)を用いるタイプと、まず上げバイ(相手を持ち上げる)を用いるタイプがある。
思想実践の薦めにおいてももちろん商品の場合と同じである。もちろん最終的にはそれを巧みに組み合わせて、相手の弱点と自尊心を巧みに突きながら、自分の思想を相手に受け入れさせていく。
 女性の講師には最初に上げバイを用いる人が、男性の講師には最初に下げバイを用いる人が多いことをこちらは自覚して、その上で聞く方がいい。ちなみに、講師本人はおそらく半無意識にそうしているのであろう。



Last updated 2012.05.13 12:46:00
コメント(0) | コメントを書く

2012.04.29

枚方市市長を巡る政治地図の考察

2007年市長選得票数
竹内  脩 50680 当選
野田 隆治 27081
大田 幸世 26619

2011年市長選得票数
竹内 脩 54246 当選
中司 宏 42649
三和 智之 9056
大田 幸世 8937
円若 正彦 1306

 中司宏が収賄容疑で起訴され、市長辞任のあと行われた2007年の市長選では、共産党の野田、市民派リベラルの大田にそれぞれ25000以上の票が集まっていて、それを足すとその数は、当選した竹内市長を上回る。
 上告中の中司が再び立候補した2011年選挙では、共産党の三和の得票は前回の共産党の得票を大きく下回り、市民派リベラルの大田も同様の結果となる。何が起こったかは明瞭である。維新派支持の、反動的な中司の当選だけは避けたいと切実に願った共産党支持層や、市民派リベラル層が、死に票を避けてやむなく竹内に投票したため、竹内は辛うじて中司に勝ったのである。
 はっきりしていることは、3つある。
(1)反中司が集まれば、中司支持を上回る。
(2)共産党支持層と市民派リベラルが集まれば竹内支持を上回る。
だから
(3)竹内市政は、共産党支持層、市民派リベラルに、中司あるいは維新派よりは小マシな市政だとして一定の支持を受けない限り、破れる。



Last updated 2012.04.29 11:52:27
コメント(0) | コメントを書く

2012.04.15

学びの共同体における、管理的な感性との親和性  (2)

 著書『学校の挑戦』において佐藤学は、「民主的な」教育方法である「協同的な学び」が、上海や韓国で受け入れられたことを「意外な」喜びとし、日本の阪神地区でなかなか受け入れられないことを嘆いている。
 しかし、日本において「協同的な学び」を早くから受け入れてきた地域は、「窓は換気のため毎休み時間に左側を(!)開けましょう」などと決めるほど、管理教育で名を馳せてきた地域であることに留意する必要がある。
 中身か、推進の仕方の少なくともどこかに、「管理的な感性」との親和性のほうが高い部分があるのだ。そのことに無頓着であってはならない。



Last updated 2012.04.15 16:17:24
コメント(2) | コメントを書く

一覧

Powered By 楽天ブログは国内最大級の無料ブログサービスです。楽天・Infoseekと連動した豊富なコンテンツや簡単アフィリエイト機能、フォトアルバムも使えます。デザインも豊富・簡単カスタマイズが可能!

Copyright (c) 1997-2012 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.