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拙著「魂の螺旋ダンス」の一節ですが、わけあって再掲します。
また明治以降の国家主義イデオロギーは、国中で猛烈な神社合祀を推し進め、民間信仰の息の根を止めようとしてきた。神社合祀の嵐は凄まじく、廃仏毀釈と並ぶ廃神毀祇が行われたと言っても過言ではない。たとえば、最も合祀の激しかった三重県において明治三六年と大正三年の神社数を比べてみると、一七三三社あった県郷村社は六七三社に、五二五〇社あった境外無格社は一三〇社に激減している。実に九割の神社が整理されてしまったのである。(『近代の集落神社と国家統制』森岡清美著) 殊に境外無格社への弾圧が熾烈さを極めているのが、おわかりいただけるだろうか。村落の角々にあった無数の小神社や祠が無くなり、この島の民間信仰は、まさしく息の根を止められようとしたのである。三重県においては「路傍にあって民衆の信仰を支えてきた道祖神などの記念塔碑とか月待・日待の行事などは、いちはやく姿を消して、よほどの山奥や離れ島か、英虞湾沿海の辺地に出かけないとみることができない。」(『日本列島・南への旅』桜井徳太郎著) それにひきかえ、伊勢神宮に関係ある摂社、末社、境内社は枚挙に暇にないほど鎮座しているという。これについて桜井は、ほんらいは無関係の縁起を持つ社祠までが、類縁を持つようにつくられ語られるうちに、その範疇に含められたのではないかと考察している。 森岡清美は明治神宮創建の背景を語る中、端的に次のように述べている。 「近代の国家権力は一方では集落神社の整理を可能な限り推進し、他方では集落神社の創設にきびしい枠を課すると共に、きわめて社格の高い小数の有力神社を創建した。この両面政策は、天皇崇拝に収斂していく国家神道の施設としてふさわしくないものを廃し、国家神道の教義を体現する施設を造営することを狙いとした。こうして地域住民の生活とは縁のない非集落神社が創建されていったのである。」 もっとも、当時の世界情勢の中において、明治国家の中央集権化と富国強兵政策の意義は、一概に否定しきることはできない。強い国家を形成して欧米と対峙することが、切実な要請であったことは、現在の我々にも想像に難くない。あるいは当時はそれで精一杯だったのかもしれない。しかし、私たちは今なら、その影に失われていったものにも、改めて視線をそそぐことができる。私たちは今なら、 国家の合理的な機能を生かしたまま、大地に根ざした多文化共生的な視野を導入することが可能なのではないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.09.14 10:31:23
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