◇簡単な歴史年表◇
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19世紀まで |
18世紀頃までの台湾は、中国本土の支配を受けた他、
オランダやスペインの植民地であったりもしました。
以前より、中国大陸から漢人が入植していましたが、
清の時代になると、政府の政策もあり中国本土からの移住が一段と進みました。
清の時代には、台湾にもその支配が及びましたが、
台湾は小さな僻地の島に過ぎず、十分な統治を行いませんでした。
そのため、近世以前の台湾は、混沌とした状態が長く続きました。
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日本統治時代 |
19世紀末、日本は日清戦争に勝利し、台湾の統治権を得ました。
これ以後約50年間、台湾は日本の植民地となりました。
台湾人は二等国民とされ、日本人や朝鮮人らと差別されましたが、
日本の植民地政策により、台湾の公共インフラや教育水準はこの時期に飛躍的に向上し、
経済的にも発展しました。
日本統治時代は、台湾人の日本同化政策により、
台湾での学校教育は日本語で行われたため、
この時代に学校教育を受けた世代は、日本語を話すことができます。
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太平洋戦争の頃 |
中国大陸では1911年に、現在の台湾のルーツとなる中華民国が成立ました。
太平洋戦争で敗戦した日本は、台湾の領有権を放棄し、
戦勝国である中国(中華民国)がその領有権を得て、台湾統治が始まりました。
当時の中華民国は蒋介石が率いる国民党が代表政権でしたが、
毛沢東率いる共産党との内戦に疲弊しており、
台湾に進駐してきた国民党軍も統治意識などの意識が低く、略奪や粗暴行為が頻発しました。
日本の旧植民地でありながら、現在、日本に対する国民感情が比較的良いのは、
ここに起因すると言われることもあります。
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蒋介石時代と
国連脱退 |
毛沢東率いる共産党との内戦に敗残した国民党は、
蒋介石ら多くの政治家、官僚、軍隊が台湾に逃れ、
台北を臨時首都とし、中華民国の政権を形成しました。
総統である蒋介石は、台湾の日本色を排除する政策をとりました。
また政治的には、徐々に独裁色が強まり、強圧的な政権へとなっていきました。
こうした政策への反発を抑えるため、国民党政権は知識層を中心とした
弾圧事件を相次いで起こし、次第に恐怖独裁的な政権となっていき、
世界でも類を見ない40年以上続くことになる戒厳令が布告されるといった事態になりました。
1970年代になると、国連では、中華人民共和国を中国を代表する国家として承認することになりました。
中華民国は、このとき国連を脱退し、かわって、中華人民共和国がその地位に就きました。
それ以来、台湾は、国際的には中国の一地方として位置付けられることになり、
台湾問題は中国の内政問題という位置付けになりました。
日本でも田中首相の時代に、中華人民共和国と国交を樹立し、同時に中華民国と断交しました。
中華民国の国連脱退後、多くの国は中華民国と断交しましたが、
政治的、経済的に台湾とのパイプの維持を図りました。
日台間でも、民間の機関という名目で、大使館の役割の担う組織が置かれ、
経済的、人的な交流が続いています。
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現 代
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政権が蒋介石の子息である蒋経国の頃になると、
情報化社会や国民の所得水準の向上により、
国民の批判を政権が押さえつけることは困難になりました。
1987年には戒厳令が解除され、台湾の自由化が始まりました。
蒋経国の死後、副総統であった李登輝が自動的に総統に就任しました。
李登輝時代には、自由化は一段と進み、議会が解散され、
中華民国初の普通選挙も行われました。
一方経済的には、一時は外貨準備高が世界一になるなど、
潤沢な資金を背景に、ハイテク産業を中心にした莫大な投資を行い、
台湾で経済奇跡と呼ばれる経済発展を成し遂げました。
その後、総統直接選挙が行われ、野党民進党の陳水偏が総統となりました。
現在では世界で最も自由な地域の一つとして、事実上の先進国になりました。
しかし、事実上の独立国家として機能している台湾ですが、
国際的には中国の一地域であり、中華人民共和国との間の軋轢が続いています。
台湾国民の中にも、独立派、統一派、現状維持派など様々な考え方があって、
この複雑な社会情勢はしばらく続くようです。
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