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2011.06.20
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神に逆らっているユダヤ人

ユダヤ人が世界を流浪していることが、現代文明がごたごたしている根本原因なのです。この間題を考えるためには、地球が何のためにできたかということを、知らなければなりません。
神が地球を創造したことが、基本的には、約束という神独特のアイデアから出発しているのです。なぜそのようなアイデアから出発しなければならなかったと言いますと、宇宙に死が発生したからです。だいたい、宇宙に、死があるはずがないのです。現在でも、死があるのは地球だけです。地球以外には、死はどこにもないのです。
地球という惑星に、死の則、死の法則が、閉じ込められているのです。例えば、金星や火星には、死はありません。又、ある必要がないからですけれど、死がうまく神のテクニックに引っかかって、地球でかんずめにされているのです。
普通、死というものは、肉体の機能が停止することを言いますが、これは新陳代謝の一過程というべきことで、死の実体というのは命に反する思い、考え方、思想を意味するのです。命に反するマイナスのエネルギーが宇宙に発生したのです。これが死の本質なのです。
現代文明の基本原理は、人間の立場を認めるという考え方です。これは宇宙の絶対性を認めない、命を認めない立場に立っている。つまり、宇宙のマイナスのエネルギー、死の法則によって成り立っていることになるのです。ここが重大なのです。
死は、あるべからざるものです。宇宙には、元来、死はあってはならないのです。そこで、神は死を自滅させる方法を考えた。
死は、神の全能力でも、強圧的、弾圧的に滅ばすことはできない。滅ぼしても仕方がないのです。
すべての人間は、自分が生きていると考えています。いわゆる自我意識です。これが死なのです。自我意識の原理は死の原理であって、自我意識が間違っているといくら言われても、やめられないのです。
仮に、日本の総理大臣、天皇陛下が、私たちに自分が生きているという考えをやめなさいと言ったとします。そうすると、国家の主催者が言うのだから、しようがないからやめよう、やめることにしておこうと、不承不承に承知するでしょう。しかし、本当に承知したことにはならないのです。
自分が生きているという考え方を、表面的には撤回することになりますが、腹の中では自分が生きているという意識を、いぜんとして持っているに決まっているのです。
自分が生きているという気持ちが間違っていることを、何百万回言われても、命令されても、だめなのです。ところが、自分自身が、自分が生きているという事実がないことを悟れば、自分が生きているという考え方をやめなさいと言われなくても、自分が生きていると考えなくなるでしょう。そうすると、人生観の中から死が消えるのです。
死を撲滅するためには、死を自滅させる方法しかないのです。死の法則を自滅させるしかないのです。道元禅師も言っています。生死のうちに仏あれば、生死なしというのがそれなのです。現世に生きている間に、真理を悟ること。真理を悟れば、自分がいないことが勝手に分かるのです。そうすると、現世に生きている自分は消えてしまいます。現世に
生きている自分が消えてしまえば、その人は死ななくなるのです。
死の法則を自滅させるためには、死それ自体に、死は役に立たないものだ、死は嘘だということを理解させて、自滅させる方法しかないのです。
死の法則の本源が、旧約聖書に言われている悪魔なのです。自分が生きていると考えていることは、知らず知らずのうちに、悪魔のとりこになっているということです。
世界人類全体は、悪魔のとりこになっているのです。死を自滅させるためには、一つの仕事をはじめるしかない。この仕事が、約束というものなのです。約束とは何かと言いますと、例えば地球ができたのが、仮に五十億年前だとします。五十億年前には地球はなかったのです。地球がなかった以前の状態では、時間、空間の測定の方法がなかった。つまり時間や空間がなかったのです。
地球が発生してから、時間や空間が自然に発生してきた。時間を明確に測定できるようになったのは、人間自身が文化的に生活できるようになってからです。それまでは、時間があっても、なかったのと同じことでした。
神以外の人格が、時間が存在することを認識しなければ、時間があってもないことと同じことになります。神が時間を造ったとしても、人間が時間を承知しなければ、時間はないのと同じことなのです。そこで、人間が時間や空間を認識するかしないかということは、神が時間を造ったという問題と、重大な関係になるのです。神が時間や空間を造った所で、人間が認めなければ、こんなものはないことになるのです。
神が約束を造ったのは何のためかと言いますと、死をなくすためなのです。死を自滅させるためには、約束という方法しかないのです。約束とはどういう意味かと言いますと、時の流れという方法を神は用いたのです。時間が流れるということです。つまり神が未来を発生させたのです。未来を発生させたということが、約束を造ったことなのです。
約束というのは、未来を規定する言葉です。未来を予想することです。今日はこうであるが、明日はこうだというような未来性に基づいて考えることが、約束という考え方なのです。今は実現していないが、未来に実現するということは、約束なのです。
地球が造られたのは、約束的原理に基づいて、時間と空間が発生したのです。ところが、もっと要約して言いますと、実は時間はないのです。人間が時間があると考えているに過ぎません。時計が動いているから時間があると考える。これは非常に幼稚な考えです。時計は時間を測定する機械に過ぎないのです。
実は時間は存在していないのです。現在の学問では、時間が存在することを証明することは不可能なのです。どんな実験でも、時間が存在することを明確に証明することは不可能なのです。そうしますと、空間も存在しないことになるのです。
時間や空間は、自然科学の概念に基づいて、生活の方便として仮にもうけている概念に過ぎないのです。学問は、人間が造り出した方便であって、実体ではありません。真実ではないのです。人間の物の考え方、世界観や価値観が、時間、空間の理論になって、現れているだけなのです。
そうしますと、時間があるように考えている実体は何であるか、空間の実体は何であろうか。こういうことは、今日の学問では説明できないのです。人間が生きていることに関する基本的な問題が、説明できないのです。これが、近代文明の世界観が根本的に間違っているという理由です。
神は「約束」を造りました。これが時が流れているように人間が考えている原則なのです。これがしっかり分からなければ、地球が何のために造られたのか、どのように地球が保たれているかということの、本当の説明はできません。
だいたい、地球存在の本源は、論理ではなくて、ロマンなのです。ロマンの本当の意味が分からなければ、命は分かりません。
ユダヤ人がなぜ地球上を流浪しているかということですが、ユダヤ人は約束を正確に捉えることができないのです。近代文明の学問という思想にとらわれてしまっている。逆に言いますと、近代文明の世界観は、ユダヤ人によって造られたのです。あらゆる学理学説の基本原理は、ほとんどユダヤ人によって提出されたものばかりです。教育、経済、政治、科学の中心概念は、ほとんどユダヤ人の案出によるものなのです。
そういうわけで、ユダヤ人の概念によって地球文明が制約されていることは、公然の秘密なのです。ユダヤ人が、唯物的、即物的な世界観に基づいて生きている。だから神の約束の原理が分からないのです。
神の約束は、地球存在の原点に立って考えなければならない。ところが、ユダヤ人は、自分たちがこの世で生きているという生活概念に立ってしか、神を見ていないのです。イスラエル民族が幸福であるか否かという、非常に近視眼的な、目の前のできごとだけにかかわって、神の約束を捉えている。こういう見方は、神から見れば全く話にならないのです。
旧約聖書は、ユダヤ人に対して書かれたものです。ユダヤ人以外の民族、異邦人のためではないのです。だから、日本人などに、地球存在の原理は分かるはずがないのです。従って、日本人には生命の原理は全く分からないのです。
日本人はさておき、神の約束の民であるユダヤ人が、とんでもない考え違いをしている。現世で国家を造っていること、自分たちが生存する状態からだけ神の約束を受け止めて、神のご利益があるようにという宗教的な考えを持っているのです。
これが神にとっては鼻持ちならないのです。神は、旧約時代に何回も預言者を通して反省を促したのですが、どうしても彼らは反省しない。ついに生みたまえる一人子なるイエスをつかわして、ユダヤ人に一か八かの反省を促した。しかし、彼らはそのイエスをつかまえて殺してしまったのです。
その結果、神の約束を正しく捉えることができないユダヤ人は神の約束の民族であるという特権を没収されて、世界の流浪の民となっているのです。『屋根の上のバイオリン弾き』という映画がありましたが、あれがユダヤ人の典型なのです。ユダヤ人の典型的な生活は、安住の地がないのです。神にいじめられ、追い立てられているのです。
死を自滅させるために、神は約束をユダヤ人に提示したのですが、神の方針を正確に理解することができないために、今、ユダヤ人は流浪しているのです。そしてまた同様の理由で、ヒットラーによって、六百万人のユダヤ人が殺されてしまったのです。
ところが、ユダヤ人が世界の経済的、政治的、軍事的な意味で、キャスチング・ボートをにぎっている。現在、ヨーロッパを動かしているのはユダヤ人グループです。ニューヨークのウォール街の中心もユダヤ人です。
ユダヤ人は神の約束を理解していないのですが、伝統的に非常に優秀な民族です。このユダヤ人が、現代文明を造っているのです。ところが現代文明の世界観が、人類を滅亡させることになるのです。現代文明は、今や自滅寸前にあるのです。
時間がないということをもう少し説明しますと、時間というのは瞬間しかないのです。観念的には、一年前とか、十年前とか言いますけれど、実体的に存在する時間というのは、今だけなのです。「今という間に今はなし、今という間に今は過ぎゆく」。これが時間の実体なのです。これしか、時間はないのです。本当に存在するのは、今だけなのです。命を正確につかまえるためには、今という瞬間の実体をつかまえるのです。これが神なのです。
永遠というのは、今という瞬間を正確に提えることです。実体的に捉えることです。実在の時間を、正確に、つまり客観的に捉えるのです。主観的にはだめです。これが本当の命をつかまえることなのです。「今という間に今はなし、今という間に今は過ぎゆく」と言いましたが、またこの反対も言えるのです。「今と言いつつ今はあり、今という今、とこしえの今」ということです。今という今を、正直に生きることです。今を誤魔化さないで生きることが、とこしえの命を捉える方法なのです。これは最も端的な方法であって、大人の考えではだめです。大人は今を正直に生きることはできません。できるだけ子供の感覚になって頂きたいのです。
誰でも子供の時があったのですから、子供の感覚に返って考えれば、とこしえの今がつかまえられます。利害得失を離れて、今の命をはっきり生きるのです。そうすると、死なない命が分かるのです。
イエスは、今という神を生きたのです。日本で考える神とは、全然違います。キリスト教で考える神とも違います。宗教観念とは何の関係もない、今という神です。ザ・リビングという神なのです。これをつかまえれば、初めて本当の安心が分かるのです。本当の自由が分かるのです。自由とか安心は、本当の命を捉えた感覚をさすのです。これが死を乗り越える自由なのです。





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Last updated  2011.06.20 18:33:22
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