犬の糞の問題で、いきなり「悪貨は良貨を駆逐する」という通貨理論のグレシャムの法則を待ち出すのは唐突だが、犬の糞の問題とどこか似ているような気がするので書くことにした。
イギリスのヘンリ-八世時代に、財政難を乗り切るために銀含有量の少ない悪貨を発行したところ、国民が悪貨ばかりを使い、良貨は流通から姿を消したのである。
町や公園の放置糞が悪貨なら、持ち帰り糞は良貨ということになる。
街の不良少年少女のたむろを放任すると、段々大きくなるように、犬の糞も類は友を呼ぶようだ。一人が糞を放置すると、他の人もまねする。次の人も似たことをする。皆がしているのだから、私もと町中が糞だらけになる。
分別のありそうな紳士淑女の自称愛犬家も愛犬のものとはいえ、汚く臭いものを自宅まで持ち帰ることはないと平然と当たり前のように糞を放置する。犬を外に連れ出す大きな理由の一つは外で糞をさせることなのだ。自宅では処理したくないとの思いが優先する。他人の迷惑など考えてない。考える脳細胞が休眠状態になるのだ。
こうなると、町や公園から犬の糞を追放駆逐するのは至難の技になる。禁止看板で呼びかけても何の効果もない。夜陰に紛れて犬を連れ出したり、夜だけ犬を放し飼いにする不埒者までいるようになる。
町がそのような状態になると、今までは愛犬の糞を持ち帰っていた善良な愛犬家まで、バカバカしいと思い、放置するようになる。悪貨が良貨を駆逐する。
犬の糞の放置は犯罪であることなど気にしなくなる。軽犯罪法第1条27には「・・その他の汚物又は廃物を捨てた者」は拘留又は科料に処するとある。
このような情けない状態を解決する方法は一つしかない。
町から糞を完全になくすることだ。それは目的であり、理想の結果ではないか。その結果をうるための方法を聞いているのだと反論したくなるでしょう。
方法はどういう方法でもいいのだ。とにかく、一度、町から糞を完全になくすことだ。
そして良貨を増やすことだ。他人が落とした悪貨でも見つけ次第人目につかない所に捨てる。それを根気よく続けると、間違いなく、悪貨は駆逐できる。
10年ほど前までは高山でもゴミがあって、興ざめな思いをしたことが多い。
東京の奥多摩に好きな山々がある。山頂のゴミを一人で黙って拾い、持てるだけもって、自宅まで持ち帰っていた。まねする人が出てきた。山頂だけでなく、登山道にもゴミはほとんど見なくなった。今は全くゴミ拾いをしなくても山はゴミが一つもない。
ゴミ捨て禁止の看板もなければ監視員がいる訳でもない。登山者はただ一人の時もあるほど静閑な山だ。登山者皆はもともと、山が好きな人たちなのだ。皆が大切にしてる山を自分一人が汚すのは自尊心が許さないのだ。綺麗なものはきれいなままであってほしいと皆が思っている。山が綺麗になったことで、やはり人間の本性は性悪説ではなく、性善説ではないかと思うようになっている。
山でさえ綺麗になっている。皆の街が綺麗にならない訳がない。
市民一人一人が自主的に本気になればできる。愛犬の落とし物は拾うが、他人の犬のものまではと思っていたら、100年後も街も公園も綺麗にならない。
一度、悪貨を流通の流れに入れると、取り除かない限り、永遠に人目に触れる。しかも、流通速度は良貨よりもはるかに速い。悪貨を見てみぬ振りすると、悪貨だらけになる。
グレシャムの法則は貨幣理論としては正しいが、経営理論としては正しいとはいえない。悪徳商法は永続しないが、誠実な商法は必ず栄える。
良貨が悪貨を駆逐した情報がブログにのる日を楽しみにしている。良貨だけが流通している西東京市はよい街だ。
富士山のゴミと世界遺産 誰がゴミの山にした?
富士山がゴミの山として世界的に有名になったのも、街の犬の糞問題と同じ過ちを小役人と観光登山業者がしたからだ。世の中を甘く見た。