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世の中にはいまさら人には聞けない疑問というのがある。
純文学と大衆小説の違い…なんてのもその一つだ。 なんとなくわからないわけでもないのだが、よくよく考えるとどうもすっきりしない。 大衆小説はご都合主義のストーリーや善玉悪玉のはっきりした浅薄な人物造型が特徴で面白いが深みにかける。これに対し文学は人生や社会の真実を描いているので面白くはないが高尚。 まあ、こんなところだろうか。 たしかに読み本や落語の人情話のアンチテーゼとして文学が理解されたとしたらこんな説明もあるのかもしれない。でもだからと言ってその後の私小説の興隆などはなんか文学を誤解したとしか思えない。私小説はたしかに「人生をありのままに描いている」のかもしれないが、その多くはひねた大人の上手な作文といったようなもので小説としての面白みにかける。 こうした私小説の傑作ともされる「道草」や「暗夜行路」などは日常生活のこまごまとした描写、はてはどこで何を食べたといった話ばかりで、正直読んでいてちっとも面白くない。 どうも文学性と娯楽性は両立しないという前提自体が本当は間違いなのではないか。 すぐれた文学は十分に娯楽性もある。 たとえば名作とされる「戦争と平和」などは何度も映画や舞台にとりあげられ、多くの人をひきつけている。「源氏物語」だって同様である。特に源氏物語の宇治十帳は三角関係、出生の秘密、自殺未遂と記憶喪失…といった筋書きだけを追うと今の韓流ドラマのようだが、その文学性を否定する人はいないだろう。 それにそもそも純文学と大衆小説の区別自体それほど厳密になされているとも思えず、こうしたレッテルをはりたがるのは日本くらいなのかもしれない。 あのノーベル文学賞を受賞した小説に「クオヴァディス」がある。大変に面白く好きな小説なのであるが、中味は、類型的な人物像、ご都合主義だが波乱万丈なストーリーと、日本での分類によればどうみても「大衆小説」に入る。 もしかしたらそもそも純文学と大衆小説という区分すること自体に無理があるのかもしれない。
純文学より、大衆小説に惹かれることの多い私としては、嬉しい論説、ご意見に思います。
確かに「モンテクリスト伯」やパールバックの「大地」が世界文学全集にあったりするが、大衆小説そのものですね。 ただ、ストーリー性の少ない、日常描写中心の私小説風の作品にも、漱石の「こころ」、尾崎一雄「暢気眼鏡」、三浦哲郎「夜の哀しみ」、車谷長吉「赤目四十八瀧心中未遂」等心動かされる、かつ目すべき作品もあると思います。 (2012年02月09日 13時34分29秒)
曙光さん
ストーリー性の少ないものでもよいものはよいですね。 そうしたものは細かな描写とか文章、作品全体を流れる雰囲気で十分に読ませるからでしょう。 「マルテの手記」などもそういう小説ですがよいですね。(2012年02月10日 02時04分25秒) │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |