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徒然なるままに [全11842件]

2012.05.27楽天プロフィール Add to Google XML

会津の十字杖  
[ キリシタン ]  

                          IMGP9899_900_901_B.jpg

【会津の十字杖】

 これも前述の子安像と同じ所に祀られていました。何か丸いものを手にして、十字杖を持った「地蔵菩薩」像です。真ん中の写真でお判り頂けるかと思いますが、これは錫ではありません。これでは、あの透き通った錫の音色は出ないだろうと思います。明らかに、地蔵菩薩に似せて彫られた、キリシタンの像であろうと思われますが、背面には昭和三十二年一月吉日」と彫られています。この時には、免許証に記された小生の生年月日からすると、小生は既に生まれています。指折り数えたら、幼稚園の年中組ににいた計算になりました。あの時の先生のご主人が、母校の図書館長さんだということを知ったのは、大学院の修了式の日でした。「家内がおめでとうとと言っていました」と館長さんに言われてはじめて知りました。

 歴史研究の視点からすれば、昭和三十二年はついこの前です。この村の方々の中には、この石像が彫られ、祀られた時のことを覚えている方がいらっしゃるだろうと思います。小生の兄は小学校3年生の時です。昨日、阿佐ヶ谷の駐車場の管理人が「何にも言ってこない」と嘆いていましたが、何も言ってこないということは、元気にしているということだろうと思っています。

 しかし、こうした歴史の記憶も、あと50年したら、すべて消えてしまいます。このお寺は、とある理由で向きが変えられているかもしれませんが、伝承は残っているだろうと思いますが、その時のことを記憶している方はいらっしゃらないかもしれません。ただ、古い参道と思われる坂道が残っているだけです。

 今日の東京は良いお天気です。昼前には会津に帰るために出発します。『会津藩家世実紀』の第一巻はとりあえず精査し終えました。第二巻以降、第四巻までは、会津にあります。一冊ずつ手に入れ始めたのですが、途中で止まってしまったものです。明日から、第二巻以降との格闘が始まりそうです。ことに、第四巻に記されている時代の、とある出来事に関しては、徹底的に分析したいと思っています。保科正之公は既に亡くなられている時代ですが、会津藩は保科正之公の政治思想を厳密に継承していたことが、はっきりと顕れている個所が残っています。




Last updated 2012.05.27 08:17:42
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2012.05.26

会津の子安石仏  
[ キリシタン ]  

   _IGP6727_42_B.jpg

【会津の子安石仏】

 前述の説明板が建てられているお寺の山門の手前に祀られている石仏です。前掲の写真を捕った時には乳児を抱いているとしか思っていなかったのですが、その写真を見返していて、急に気になりはじめて、2007年1月11日にまた出掛けて写真を撮ったのですが、ある方を去年、ここにご案内したときに撮った写真の方がはっきり写っているので、去年撮った写真を貼ることにしました。。

 下の写真でお判り頂けるかと思いますが、抱かれている子供は手で乳房を押さえて母乳を飲んでいます。会津では非常に珍しい子安像です。しかし、頭部にある被りものからは、これが観音菩薩とは思えません。こうした像が、何故か曹洞宗のお寺の山門のところに祀られています。地蔵菩薩であれ、観音菩薩であれ、菩薩は男でも女でもありません。女性は出産しなければ母乳は出ないと所長に教えてもらいました。

 ですから、これは菩薩像ではありません。そして、このお寺がある一帯には、明らかにキリシタンによって伝えられたと思われる、とある産物がありました。現在は作られていないようですが、ヨーロッパやアメリカではいまでも売られていて、小生もアメリカで買ってきたことがあります。そして、その産物はローマで作り始められたとされています。

 因みに、会津では小生が会津に住み始めた頃には、煙草畑がそこら中に広がっていました。特に、会津盆地の周辺部の扇状地形のところで栽培されていました。そして、会津産の煙草は、江戸で非常に人気があったと『新編会津風土記』に記されています。北アメリカ原産の煙草を日本に伝えたのもキリシタンです。馬上で、マッチで火を着けたのを見て、「伴天連は爪の間から火を噴く」と言ったと書かれている本を読んだことがありますが、煙草の生産で一番難しいのは、葉の乾燥だと煙草栽培農家の方から教えていただいたことがありました。但し、会津藩では保科正之公によって喫煙が禁止されています。アメリカで禁煙運動が起こったのは、ネイティブの人々が宗教的儀式に使っていたからなのですが、保科正之公が禁止した理由は、「一服すんべ」が多くなると生産性が下がるからだと、『会津藩家世実紀』に記されています。




Last updated 2012.05.26 23:18:50
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お寺の宗旨と本尊  (2)  

       3722_C.jpg

【お寺の宗旨と本尊】

 これは会津のとある村にあるお寺の境内に建てられていた説明板です。この写真を撮ったのは1998年のことです。『新編会津風土記』をデータベース化していて気になったので出掛けたのを憶えています。『新編会津風土記』でもこのお寺の宗旨は曹洞宗になっていますし、本尊は「彌陀」になっています。曹洞宗のお寺では一般に、客殿に祀られているのは釈迦如来・地蔵菩薩なのですが、本尊が「彌陀」となっているので気になって仕方がありませんでした。そしてこの説明板を読んで、この市町村の教育委員会も不思議に思っていらっしゃることを知りました。

 調べたいことがあって、ネットでお寺を検索しても、そのお寺の宗旨が記されていないことが非常に多いです。しかし、『新編会津風土記』に寺社に関して記されている部分には、必ず宗旨と本尊が記されています。それは、本山のないお寺=宗旨がはっきりしていないお寺は、基本的に宗門人別制度の檀那寺になれませんし、若松城下では無本寺のお寺が、それを理由に破却になっているケースがあります。

 新寺建立禁止令が出されたあと、本山格のお寺に寺院本末帳の提出命令が出されています。この命令は江戸時代に5回ほど出されていて、一番最後は寛政二年(1790)でした。また、「お寺は治外法権だった」とお考えの方がいらっしゃいますが、町奉行が寺社に入れないということで、寺社は寺社奉行によって監視されていました。

 『新編会津風土記』に記されている寺社に関することは、原則として、寛文期の寺社改めの時に提出された文書をそのまま掲載してます。ですから、『新編会津風土記』に記されている寺社の開基に関しては、『新編会津風土記』自身が検証しているわけではありません。ですから、こうした曹洞宗のお寺の本尊が阿弥陀如来像であることを解決するためには、『新編会津風土記』はほとんど役に立ちません。




Last updated 2012.05.26 13:24:07
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笠守稲荷 
[ キリシタン ]  

                   _IGP8085_B.jpg

【笠守稲荷】

 前述の「笠守稲荷」という扁額が掲げられた建物の中に祀られていた像です。入口の戸のすきまから何枚も撮ったのですが、これだけがきれいに写っていました。右手にあるのは稲束なのでしょうか。それでいて、左手には宝珠を捧持しています。そして、白狐に跨っています。

 この一帯も蒲生氏郷の時代には蒲生領でした。『天正十九年蒲生家家臣帳』では町野左近・新三郎父子の領地になっています。この町野家は、蒲生忠郷が亡くなって蒲生家の嫡流が断絶した後、加藤家に仕え、そして保科正之公が会津藩主になられた時には保科家に仕えています。このことは『会津藩家世実紀』にはっきりと記されています。

 そして、この一帯には殉教者の記念碑もしくは墓石と思われるものが残っています。そしてその石碑もここでご紹介したことがありました。そして、かなり広大な城があるのですが、蒲生氏郷が会津へ移封される前から、自然の山に気付かれた山城が江戸時代末期まで続いていたのであろうと思われますが、石垣は江戸時代になってから積まれたもののようです。

 お天気が良ければ、本丸跡の高いところから、郡山駅前の大きなビルを見ることが出来ます。ただ、広大な広さのある山城ですから、小生などは脚が棒になってしまいました。数ヶ月分は歩いただろうと思います。そして、石垣には非常に興味深いものがあります。時間を掛けて、それぞれの場所に石垣を積んでいるように見えます。




Last updated 2012.05.26 10:46:12
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禅宗と観音菩薩 
[ キリシタン ]  

     _IGP8137_B.jpg

【禅宗と観音菩薩】

 これは、福島県の中通り地方にある曹洞宗のお寺の境内に祀られている「三十三観音」です。今年の1月にあるところへ出掛けた時に、高いところから不思議な向きに建てられたお堂が見えたのでが訪ねてみました。お堂には「笠守稲荷」と彫られた扁額が掲げられていましたが、中には不思議な像が祀られていました。そして、やはり、このお堂はキリシタン方位角を向けて建てられていました。

 このお寺は、境内にある説明板には、「『永松山略記』によれば、元は白光山瑞祥寺と称し、元応二年(一三二〇)恵燈律師が行基菩薩作の聖観音を得て開山したという古刹である。その後、二度の火難にあったが、幸い仏像は難を免れたと縁起にある。当寺観音堂の秘仏として安置されてきた本像は、縁起の伝承とも一致する貴重な存在である。」と記されていました。

 しかし、14世紀に曹洞宗のお寺が開山される時、「観音菩薩」が本尊になったとはどうしても理解に苦しみます。以前に、こうしたことを曹洞宗のお寺のご住職にお伺いしたことがあるのですが、「ない、ない」と微笑んでいらっしゃいました。しかし、こうしたことは中通りに見られるだけでなく、会津やそれ以外のところでも見受けられます。

 浄土真宗本願寺派や真宗大谷派、あるいは真宗高田派のお寺の本堂に祀られているご本尊は、必ず阿弥陀如来像です。そして、この三つの宗旨の檀家にある仏壇の正面には、阿弥陀如来像の絵が掛けられています。中には、先祖のご位牌さえ仏壇にはおかないようにと指導されているというご住職がいらっしゃるということをお伺いしたことがあります。親鸞系の宗旨では、お位牌を拝むことはあり得ません。この「三十三観音」石仏も本来であればあり得ないことなのではないでしょうか。




Last updated 2012.05.26 10:11:02
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2012.05.25

切支丹屋敷跡 
[ キリシタン ]  

                   _IGQ1537_B.jpg

【切支丹屋敷跡】

 ※  【切支丹坂と庚申坂】の2回目の書き込みを訂正しています。

 文京区小日向1丁目の道路脇に建てられている石塔と石碑です。石碑は十字の形をしています。ネット上にある資料と小生の手元にある資料からすると、ここに井上筑後守政重の下屋敷があったことは間違いなさそうです。ただ、その広さがはっきりしません。『会津藩家世実紀』にある記録からすると、少なくとも150名程度のまだ転んでいないキリシタンを収容できるだけの建物が建てられていたはずですから、それなりの広さがあったと考えられます。

 それだけではありません。この「切支丹屋敷」は、ジュゼッペ・キアラ等がいて、近代科学、特に数学を研究していたという説があります。非常に緻密な研究をされた著書があるのですが、この研究者集団の中に井上筑後守政重も加わっていたようです。小生は、井上筑後守政重が蒲生氏郷の時代にどのように名乗っていたか、そしてその人物はどのような人物であったかに関して、かなり関心を持って調べたことがあります。

 この筑後守が書いた文書と、『新編会津風土記』に残っている蒲生氏郷の家臣のある人物が書いた文書をデータベース化すると、とあることに気が付かされます。そして、あの時代に「優秀だ」ということはどのようなことを意味しているかを考えると、その人物はその基準からは外れているのですが、にもかかわらず、蒲生秀行の時代には重要なポストに就いていました。

 ヨーロッパからキリシタンと共に入って来たものの中に、近代科学があります。典型的なモノは地球儀や望遠鏡ですが、それだけではありません。少し前にここでご紹介しましたが、土木工学のその一つです。ことに水路を造る技術です。加藤明成の時代には、堰を造るのに何回か失敗して、ある堰は途中で中断しています。しかし、保科家が会津藩主になってからは、かなりの長さの堰が造られていて、現在でも農業用水路としてその機能を果たしています。この蒲生家の家臣だったという人物、家康に切腹を命じられたとか、斬首されたとされていますが、『徳川実記』からすると、家康はその人物に会っていないとしている論文を読んだことがあります。




Last updated 2012.05.25 22:09:30
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切支丹坂と庚申坂 
[ キリシタン ]  

                    _IGQ1494_AC.jpg

【切支丹坂と庚申坂】

 前述の上の写真の顔と胸の部分をトリミングしたものです。胸のところに「卍」が彫られています。これをご覧頂くと、「仏教ではないのですか?」と質問が返ってきそうですが、「卍」はキリスト教のシンボルの中にもあります。ローマ帝国によるキリスト教の迫害時代に、隠れシンボルとして使われたのが最初のようです。ですから、明治期にお寺にある「卍」をご覧になったキリスト教の宣教師が、キリスト教会だと思ってお寺に入っていって、そこが仏教寺院だと知って大変に驚いたという話を聞いたことがあります。

 あるいは、「卍」を見たアメリカ人が、「何でこんなものが公然と掲げられているのか!」と憤慨していたことがありました。彼は、「卍」を「ハーケンクロイツ」と見間違えてしまっていました。アメリカでは「ハーケンクロイツ」は御禁制の品です。間違えても、ハーケンクロイツがプリントされているTシャツなどをお召しにならない方がいいと思います。余談ですが、アメリカで「宗教は?」と尋ねられて、「無宗教です」と答えて大変に苦労された方がいらっしゃったそうです。最近は、日本のことが少し理解されているようですから、大丈夫かもしれませんが、「無宗教」=共産主義という誤解がかなり広まっていました。

 それにしてもこの石仏墓石の胸にある「卍」、一体誰が彫ったものなのでしょうか。もしかすると、長崎の五島列島などであったように小日向でも、墓参りに来て、この墓石石仏の前で十字を切っていた人々がいたかもしれません。宮城県の村田町では戦後も十字を切る習慣が、それ自体で続いていたそうです。ただし、それをされていた方は、それがキリシタンの習慣であるということを知らされていなかったようですが‥‥‥

 文京区内にこうしたものが残っているということは、中学や高校のクラスで習ったことと現実は大きく異なっているということを考えざるを得ません。胸に卍が彫られている、こうした「如意輪観音」石仏を、小生はこれまでに見たことがありませんでした。しかもここは、「切支丹屋敷」の近くです。ただ、井上筑後守政重が大目付と宗門改役を辞任したあとは、下屋敷は土地が分割されて「侍屋敷」になったそうですから、この石仏墓石が建てられた時にはもう、「切支丹屋敷」は影も形もなくなっていました。




Last updated 2012.05.25 17:02:20
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