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カテゴリ:火山・富士山噴火史
「神様、仏様、伊奈様」 この言葉は御厨地方に古くから住んでいる方なら、ほとんどの方がご存じの有名な言葉です。意味は宝永大噴火のブログが、最終章まで終わる頃にはご理解いただけることかと思います。 幕府から災害復興の責任者、砂除川浚奉行に任命された伊奈半左衛門忠順ですが、現地入りするのは宝永大噴火の約1年半後の宝永6(1709)年5月になってからとなります(彼を描いた小説として、故新田次郎氏の名著『怒る富士』があります。小説では噴火後すぐに現地入りしていますがあくまでもフィクションです。内容も史実とはかなり異なりますが、被災地の悲惨な状況と忠順の苦悩をリアルに描いているため、火山災害の凄まじさを理解するのは良書です)。 「遅すぎる!」とお思いになる方もいるかと思いますが、彼は砂除川浚奉行専任ではなく、関東郡代という天領全般を預かる職務もこなさねばなりませんでした。さらに宝永大噴火前に起きた宝永地震(1707年10月)の復興業務も抱えていたため、早急に現地入りができなかったのはやむを得ない話だったでしょう。 しかし彼は富士山麓の被災地が天領となるや、すぐさま腹心の部下を送って詳しく調査させています。 忠順は富士山噴火の1月以内、つまり宝永4(1707)年の内に、被災地の現状を的確に把握し、災害復興に向けた意見書を幕府に提出していますから、かなりの能吏だったことがうかがえます。 彼の意見書の要点は以下の通りです。 ・被災地は小田原藩が配った食糧は春には尽きる。至急食糧支援をする必要がある。 忠順の意見に対して、幕府は大筋でその案を了承します。 ただし幕府の財政事情は悪く、45万両もの大金を工面することができないため、諸大名・旗本から禄高100石に付き2両という高額の臨時増税をして集めることが決められ、総額48万両もの大金が集められました。この決定に諸大名・旗本衆は渋面ですが(臨時増税を揶揄して、「富士の根の 私領御領に 灰ふりて 今は二両ぞ かかる国々」と詠われています)、忠順は安堵したろうと思います。 しかしここで3つの凶報から、復興策は暗礁に乗り上げます。 まず酒匂川堤普請に、江戸のゼネコン和泉屋半四郎と冬木屋善太郎が選ばれたことです。忠順は堤普請には、実情を理解している現地の業者を使うべき、それが田畑を失った農民達の収入にもなると意見していましたが、完全に無視されました。 双方とも堤防工事などおこなったことはなく、いわゆる救恤金ねらいでした。彼らが落札出来た理由も、幕府要人との癒着が背景にありました。この頃から官民の癒着、汚職は深刻な弊害があったことを物語っていますね。 本来の見積もりの倍以上で落札した両者は、現地労働者を低賃金で雇い手抜き工事をし、必要経費は御手伝諸藩(津藩藤堂家27万石、浜松藩松平家7万石など)に被せるという不正のオンパレードをすることになります。 完成した堤は、忠順の危惧通り梅雨になるやひと支えもできずに決壊し、大勢の人命を飲み込んで酒匂川下流へと土石流被害を拡大させていくことになります。 「富士山の砂の難にかかりし相州酒匂川入は、人民お救いとして砂除け、砂浚い、郷村田地のための御普請ありしに、諸侯大夫に命令下り、その国その領の人民を費やし集め、夥しき金を出して、曾てその験なし。金空しく商客の有となりて、こ慈愛の御心、民中へ届かざる事口惜しけれ」 とは忠順の死後、酒匂川堤改修をおこなった施政家田中休愚の言です。堤普請は、被災地住民を助けるどころか、江戸のゼネコンを太らせるだけで終わりました。酒匂川はの土石流は、噴火後約70年にわたって足柄地方を苦しめ続けることになります。 次の凶報は、将軍徳川綱吉の死(宝永6(1709)2月19日(旧暦1月10日)でした。これにより忠順の意見を大筋で承認した復興案は白紙に戻されます。 さらに驚くべき事は、次の六代将軍徳川家宣(綱吉の養子で、叔父甥の関係)に、宝永大噴火の復興計画が引き継ぎされなかったことです。 政権交代時の常として、政策や事業が見直しされることがあるのは、昔も今も変わりません。家宣は綱吉の政策で問題があるものは変更していくことを表明しており、幕府要人は事が落ち着くまで、不用意なことを言うまいと保身に走り始めたのです。 中興の名君として現代では名高い家宣ですが(彼の治世は正徳の治と呼ばれる安定期の一つです)、彼に被災地の正確な情報が届けられるのは、将軍就任より2年以上後の話になります。 そして最大の凶報は、将軍交代のどさくさに紛れて決定しました。被災地の内、被害の甚大な駿東郡59ヶ村を亡所とするというものです。 亡所とは、その土地の所有を放棄するという意味です。納税の義務を負いませんが保護される権利もありません。「住みたければ勝手にしろ。年貢を払はなくていいが、支援など求めるな。自分の力だけで生きていけ」と言うわけです。被災地への食糧支援は停止され、焼き砂に覆われた数万の農民達は事実上見捨てられました。 これ以降、被災地駿東郡は深刻な飢餓に覆われていくことになります。そして伊奈忠順もまた、「幕府の命令は絶対」「代官の責務は領民を護ること」という2つの責務の狭間で苦渋の決断をしていくことになります。 ・・・と、なにやら小説のような様相になってきていますね(汗)。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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