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2011.07.03
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カテゴリ:火山災害

 友人と

久々火山話です。

火山災害で火砕流というものがあります。日本では平成3(1991)年の雲仙普賢岳での火砕流災害が有名ですね。

しかし「火砕流はあんな感じか。津波に比べれば逃げられるかも」と考えるのはとても危険です。実を言うと雲仙普賢岳の火砕流災害は、規模としては小さい部類になります。大きなものだと前に9万年前の阿蘇山の噴火が起きたらという内容のブログで書きましたように、北九州全土を焼き尽くし、四国や山口県に押し寄せるぐらいの規模もあるのです。

噴火の度合いによりどの程度の火砕流が発生するか分かりませんが、時速は最大200キロ近くに上り、温度も600度を超す火山灰と塵の混合物に、人の命は簡単に吹き飛んでしまうのは確実です。

火砕流被害最古の記録は、西暦79年のイタリア・ヴェスヴィオ火山の噴火です。この時発生した火砕流は麓のポンペイ市を呑み込み、一夜にして「地下都市」に変えてしまいました。その光景を目撃した小プリニウスが残した書簡は、冷静で科学的な内容と現代では評価されています。

ちなみに彼の伯父大プリニウスは、ローマ海軍司令官でナポリにいました。ポンペイを脱出する市民を助けるべく艦隊を出動させています。これも歴史に残る軍隊による災害出動の最古の記録となっています。

大プリニウスは、三度にわたって被災地から市民たちを救助しましたが、最後は有毒な火山性ガスに巻き込まれて、艦隊共々壊滅して死亡しています。しかし彼の勇気と献身は高く評価されており、災害時に出動する現代の海外救助隊標語は「我ら、プリニウスの後継者たらん」が一般的です。

さて現代では高く評価される小プリニウスの書簡ですが、20世紀になるまで忘れ去られていました。ヴェスヴィオ火山もその後大規模な噴火を起こしませんでしたし、欧州は火山が少ない(イタリアとギリシャ、アイスランドぐらいしかありません)ため、彼の記録は現実味がなく大げさなものと思われたのです。19世紀末まで小プリニウスの評価はホラ吹き扱いでした。

しかし彼の残した記録が、本当の災害の記録であることを思い知る災害がおきました。

それが1902年、西インド諸島にあるフランス領マルティニーク島にある活火山プレー火山で起きた火砕流災害です。

マルティニーク島はフランス皇帝ナポレオン一世の最初の皇后だったジョセフィーヌの生誕地としても知られる農産物豊かな島です。

余談ですがジョセフィーヌも在島中火山活動は見ていたようで、夫ナポレオンに色々話していたと言われていますが、火山を知らないナポレオンの反応は鈍かったようです。そのナポレオンは晩年大西洋の孤島である火山島セントヘレナで生涯を終えますが、ここで火山を見ながらジョセフィーヌを思い出したという逸話もあります。

マルティニーク島プレー山に噴火の兆候が見られ始めたのは、1902年4月上旬のことでした。登山者が噴気活動を目撃したのです。その後も活動は続き、4月25日には山頂に火口湖が形成が確認され、噴出された火山灰や火山ガスが7キロ離れた麓の街サン・ピエール(人口約2万8千人)まで押し寄せてくるようになります。そのため街は硫黄の臭いが充満したと言われています。

4月30日にはラハール(火山性土石流)が発生し、付近の村々に被害が出ています。さらにプレー山は5月2日、6日、7日と大規模な噴火を起こします。

マルティニーク島北東部最大の街であるサン・ピエールには、周辺の村々からは数千人から1万人の住民が避難してきて、大混乱になりました。

この非常事態に、フランス人のサン・ピエール市長も市当局も、なんの対策も講じていません。彼らは火山災害の恐ろしさを理解していなかったのです。市当局の対応は、パニックを鎮めるための行動のみに終始しています。

「街は安全。避難の必要はない」という科学的な根拠のない(当時は災害時に科学者から意見を聞くという体勢すらありませんでした。その意味では明治21(1888)年の会津磐梯山噴火の際の日本政府の対応は、驚くほど対応が適切で早かったのです)コメントが出し続けられていました。

驚くことに、市当局は「5月11日の選挙(市長選がおこなわれる予定でした)は必ず投票するように」と、繰り返し主張していました。さらに投票者がいなくなることを恐れた当局は街道を封鎖して、住民が街から出られないようにしたため、避難しようとした住民と小競り合いが発生しました。

完全な人災ですが、市の対応で街はパニックから暴動へと事態は急速に悪化しつつありました。不安を感じた市長は政府に「暴動の可能性がある。軍艦を派遣してほしい」と要請を出しています。この後の及んでも、プレー山のことは、市長の頭にはなかったのです。

そして運命の5月8日を迎えます。

この日はキリスト教徒にとっては重要な昇天祭(キリストの昇天なを祝う祝日)の日でした。そのため前日までは動揺激しかった市民たちも、比較的平静に行動していたようです。もしかしたら神に救いを求める気持ちもあったかも知れません。「ようです」「かも」という曖昧な表現が多いのは、市民たちがどのような気持ちで運命の日を迎えたか確認することが出来ないからです。

7時52分、プレー山で再び噴火が起きました。近くの海を航行していた船舶から、プレー山からサン・ピエールにめがけて巨大な噴煙が駆け下りてくる様が目撃されています。それは火砕流でした。

火砕流はサン・ピエールの街を焼き尽くすだけでは飽きたらず、そのまま海を直進して、港で停泊していた20隻の船舶を呑み込み炎上させました。

噴煙が街を覆い尽くすとサン・ピエールからの通信はすべて途絶えました。そのため周囲ではサン・ピエールで何が起きているか知るよしもありません。

同日12時過ぎ、市長から要請を受けていたフランス海軍の艦がサン・ピエール沖に到着し、焼き尽くされた街を見て愕然としました。すぐさま救助隊が編成されましたが、火砕流の熱で接岸できず、夕方まで待機せざるを得ませんでした。フランス艦からの急報で、災害を知った周辺地域からも救助活動が開始されましたが、市内で発生した火災はその後数日間にわたって燃え続けて、容易に人が入ることが出来なかったと言われています。

結果は戦慄すべきものでした。サン・ピエールは文字通りの意味で壊滅し、街は消滅しました。火砕流直撃前、サン・ピエールに避難してきた近隣村々の避難民の数が不明のため死者の数は推定の域を出ませんが、犠牲者は2万8千名から4万名の間と言われています。

むしろ生存者の数を数えた方が早いようで、市内での生存者は2名、火砕流の直撃を受けた後沈没せず生き残った2隻の船舶の船底などから、約100名が生還した以外は全滅しました。

市内にあった時計のほとんどが7時54分を指して止まっていたことから、火砕流が街を直撃したのは噴火から2分後だったと考えられています。火砕流は7キロメートルの行程をたった2分で到達したのです。そして一瞬で数万の人々が命を落としたのです。

生存者の特徴として興味深いのは、1人は囚人で地下牢に入れられており、もう1人は靴職人でたまたま地下倉庫にいたところを助かっています(もっとも2人とも大火傷と脱水症状で、救助時死にかけていましたが)。規模の小さい火砕流(これだけの犠牲者を出したプレー山の火砕流ですが、規模としては小さいものになります)に対しては、地下に逃げることが有効であることを示しています。

船の生存者はと言うと、船底機関部などにいた船員たちだけが助かって、見張りなどの甲板員やブリッジにいた船員たちは全滅でした。普通船が沈む時などは、船底にいる機関部員は脱出に時間がかかり間に合わずに死亡するケースが高いのですが、今回は熱風の届かない船底にいて、また船がどうにか沈没を免れたために助かったという珍しいケースでした。

船底にいた船員たちは、外で何が起きているか分からず、また熱でドアが変形して外に逃げられず(そのことが彼らの命を救いました。もしドアが開き外に飛び出していたら命はなかったでしょう)、50度を超す船内で水も食糧もなく、3日間苦しみ続けたといいます。まさに紙一重の生還だったといえそうです。

これだけの被害をもたらしても、プレー山の噴火はまだ終わりませんでした。

5月20日には再び火砕流がサン・ピエールを襲っています。また3ヶ月後の8月30日には北東のモルヌ・ルージュ村を火砕流が襲い、2000名が死亡しています。プレー山の噴火が収束したのは1904年のことですから、実に2年近く暴れ回ったことになります。

一連の災害の結果、今までホラ話と思われていた小プリニウスの書簡は、科学的に正確なものであることがハッキリわかりました。さらに火砕流は海を越えることも初めて確認されました。この結果から阿蘇山などの火砕流の痕跡が、本州や四国でも今も残っているそれが、仮説でなく事実として認識されるようになりました。火砕流の研究は現在でも火山学者にとって大きな課題の一つです。

そして一番の教訓としては、行政の対応次第で犠牲者はいくらでも増えると言うことでしょうか。もし早い段階でサン・ピエールの市長が避難命令を出していたら、犠牲者は大きく減っていたのは間違いありません。

プレー山の噴火は、火砕流の恐ろしさと、行政・住民双方の危機管理能力の必要性を訴えていると言えそうです。






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Last updated  2011.07.04 01:35:06
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