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2011.08.30
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カテゴリ:苦難の20世紀史

鑑賞中

欧州で始まった第二次世界大戦の戦火が、太平洋に拡大した1941年12月末、フィンランド軍の総司令部がおかれていた都市ミッケリで、リスト・リュティ大統領とグスタフ・マンネルヘイム元帥の間で重要な会議が行われました。

余談ですが、戦争中、重要な会議・政策決定は、首都ヘルシンキではなく、このミッケリに政府閣僚が赴いて決定されることが多くありました。

大統領と軍総司令官という立場からすれば、本来はマンネルヘイムがヘルシンキに赴くのが筋なのですが、彼は高齢(1942年に75歳になります)な上に、前線視察と作戦指導に多忙だったので、毎回ヘルシンキに呼びつけることをリュティ大統領は遠慮したのです。

フィンランド中央銀行総裁から政治家に転向して、軍事的見識に乏しい事を自覚しているリュティは、礼を尽くして、マンネルヘイムの意見に耳を傾ける姿勢を最後まで貫き通します。マンネルヘイムの方も、そんなリュティを真剣に補佐したため、2人の関係は至って良好でした(たまに歯に着せぬマンネルヘイムの直言で、リュティが寝込んでしまう事はあったようですが)

会議の話に戻ります。
冒頭でマンネルヘイムはリュティに向かってこう発言します。

「大統領、カタストロフ(破滅)が始まった。ドイツは戦争に負けるだろう。我々は戦争離脱を真剣に考えなければならない」

イギリス・ソ連だけではなく、世界最大の工業国であるアメリカを敵に回した以上、もはやドイツに勝ち目はない。これ以上の戦争への深入りを避け、連合国側と講和すべきであると、彼は冷静に判断したのです。

この発言が、まだドイツも日本の軍事力の健在だった1941年末の判断であったことは非常に驚かされます。マンネルヘイムは目先の戦力ではなく、総合的な国力から極めて合理的な結論に達していたのです。

リュティや閣僚たちは、この発言に呆然としたと言われています。彼らからすると、モスクワ攻撃には失敗したものの、まだドイツ軍の勝機は十分にあるように思われました。マンネルヘイムの考えを悲観的すぎるものに感じたのは無理もありません。

しかしマンネルヘイムに全幅の信頼を置くリュティは反論せず、冷静に技術的な質問を返しました。

「戦争離脱に異論はない。我が国の国力はすでに限界だ。しかし元帥、我が国には20万を超すドイツ軍が駐留している。もし戦争離脱を表明すれば、彼らによって我が国は占領を招くのではないかはないか? それに対する対応策は?」

「ドイツが我が国に介入する余裕がなくなるタイミングを待つ。我が軍は兵力を温存してソ連の一撃を防いだ瞬間に、迅速に講和を成立させるしかない」

それは恐ろしく成功の確率の低い博打でした。
リュティは緊張に顔を青ざめさせながらも、ドイツに知られないよう終戦工作を開始することに同意します。

しかしこの時期、フィンランド国内にはドイツの勝利を信じて疑わない人々は多く、作業は遅々として進みませんでした。

・・・もっとも、後世の私たちからすれば枢軸側の敗北は歴史的事実ですが、この時代を生きていた人々の多くが、枢軸側陣営(ドイツや日本など)が勝つかもしれないと思っていましたから、ドイツの勝利を信じて疑わなかったフィンランド国民を笑うのは不適切でしようね。

リュティも、1942年夏にドイツ軍が再度大攻勢に転じて、コーカサス地方まで進撃すると、ドイツが勝利するのではという楽観論に傾きかけました。

ドイツ国防軍内部では、ドイツ軍の再攻勢にあわせて、再びレニングラード侵攻計画が浮上してきました。当然フィンランド軍にも参加するよう要請がきました。

しかし戦争離脱を視野に入れているマンネルヘイムは、これを拒絶して防御以外の戦闘を禁じています(ただし、空軍は、ムルマンスク鉄道攻撃などで戦闘機や爆撃機をソ連領内に飛ばしました。また墜落した味方機との回収やパイロット救出のための、地上部隊の越境は黙認されました)「座り込み戦争」と言われることになる防衛戦闘方針への転換でした。カレリア地峡、東カレリア地区などでは、防衛陣地構築に大忙しになりました。

ソ連もこの時期は、ドイツとの戦争に忙しく、フィンランドへは小規模の襲撃を仕掛けてくるだけで大きな戦闘はなく、両軍の対峙するだけの静寂な状態となりました。こうして1942年はフィンランドとソ連の戦線は、大きな変化がないまま過ぎていきましたが、一方のドイツは破局への扉を開いていました。

ドイツ軍の再度の大攻勢は冬の訪れと共に終焉し、スターリングラード(現在のボルゴグラード)では、30万にも及ぶドイツ第6軍がソ連軍に包囲され、翌1943年1月末に壊滅しました。スターリングラードの戦いは、明らかに独ソ戦のターニングポイントでした。

これを見たリュティ大統領は完全楽観論を捨てました。内閣を改造して、外務大臣に親英派のヘンリック・ラムゼィを起用し、親ソ派の大物政治家ユホ・パーシキヴィーにソ連との交渉の全権を委ね、単独講和へ向けた行動を開始しました。この動きには兄弟国スウェーデンも協力をしてくれました。

しかし前途は多難でした。

スターリングラードで敗れたとはいえ、ドイツ軍はまだ健在でした。北のラップランドには、ドイツ軍第20山岳軍団22万が展開し、フィンランド湾をはさんだ南岸には、レニングラードを包囲するドイツ北方軍主力が展開していました。

単独講和はどう言い訳しても、ドイツを裏切ることを意味していましたから、タイミングを誤ればドイツ軍によるフィンランド占領もありえない話ではありませんでした。

事実、1943年7月、ベニート・ムッソリーニ首相が失脚したイタリアでは、後継のバドリオ政権が、連合国と単独講和を図っていた事が露見し、ヒトラー総統の逆鱗に触れてしまい、ドイツ軍によるイタリア占領をまねいていました。

また実施こそされませんでしたが、ドイツ劣勢になってきたのをみて、次第にドイツから距離を取り始めた中立国、スイスとスウェーデンに対しても、軍事侵攻が計画されています。これら中立国にドイツが進攻しなかったのは、戦況が悪化しすぎて、ドイツが新しい戦場を作る余裕がなかったからに過ぎません。

そしてフィンランドに対しても、いつまでもドイツの要求に従わないマンネルヘイムに業を煮やしたヒトラーは、親ドイツ派の政治家や軍人を使ったクーデター計画の研究も始めていました(ただしこの計画は、ラップランドに駐留しているドイツ軍第20山岳軍団司令官エデュアルト・ディートル上級大将が強硬に反対したため、ポスト・マンネルヘイムの人材が物色されただけで、実施されることはありませんでした)

戦場は落ち着いていましたが、フィンランドの内外には、きな臭さが立ちこめはじめました。

次のブログでは、ドイツ・ソ連両国との苦難の交渉について触れたいと思います。






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Last updated  2012.02.15 19:55:22
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