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2020.03.08
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カテゴリ:旅行・史跡など
​最近、ブログ更新のペースが落ちていますねぇ。どうにも気力が足らない感じです。特に心臓が悪いわけではなく、コロナウイルスや​​​​インフルエンザに罹ったわけでもないんですけどね(汗)。​
毎日更新されている方々がすごいなぁと感じます。

ちょっと間が空きましたが、先日行った深大寺城の話を、ぽちぽち書いていきたいと思います。
深大寺城は深大寺のすぐ近くにあります。ちょうど神代植物公園のあたりですから、寺の目と鼻の先です。
さて深大寺城ですが、一般の方がイメージするような石垣も天守閣もありません。また、技巧を凝らした虎口もなく、歴史に詳しくない方から見たら、拍子抜けする人も多いかもしれません。
​​深大寺城は、戦国初期、天文年間(1530年代)に扇谷上杉氏によって築城されました(ただし扇谷上杉家の誰が、縄張りや普請を担当したかは不明です。またおいおい書いていきますが、未完成のまま放棄されています)。​​
この時代、日本はまだ石垣の技術はなく、鉄砲もない時代でした。それだけに古い戦争時代の古い技術によってつくられた城だです。
その意味では、築城技術の変遷を見ていけるものとしては、貴重な遺跡といえます。
ただし、深大寺城は、全体が残っているわけではありません。
深大寺周辺は、1970年代に土地開発が急速に進み、遺構の大部分が失われています。
残っているのは、第一郭と第二曲輪周辺のみです。
まぁ、調布市と言えば、東京の市街地ですからねぇ。残念ではありますが、仕方ありませんね。
一方で幸運な点としては、都市開発が進む前に、可能な限りの調査が行われており、資料が多く残されている点です。
遺構は無くなり宅地化されてしまいましたが、過去の全体像は把握できています。
これは東京で大学や研究機関が多く予算も確保でき、交通の便も良くて、調査のために人員を集められた好条件ゆえに、壊される前に大がかりな調査を行えた結果です。
​地方の同様の都市では、大学や調査機関も遠く、予算もないために大きな調査も行われないまま壊された遺構や、今も朽ち果てたままのものも多くあります(その場合、「〇〇城跡」という石碑や看板で終了という場合が多いです)。​
それを鑑みれば、往時の姿を失ったものの、深大寺城は、比較的幸運な城だと言えるかもなと思います。




水生植物園側から見た深大寺城です。
小高い丘上になっている部分が城です。
写真ですが、下は2015年5月ごろに遊びに行った時の写真です。その頃は普通に電車とバスで行ってきました(笑)。
今回行ってきた写真と、前回の写真をつなぎ合わせながら見てみたいと思います。


​登り口はいろいろあるんですが(舗装された通路もあります)、水生植物園通路端にある木道から上がっていくことにしました。​


登りきったところのスペースです。
見た感じ、郭だなと思って歩いていたところ、案内板で「第一郭」跡であることを確認しました。
ちなみに、「第一郭」という名称は、研究者が付けた名前で、築城者たちのつけた名前ではありませんのでご注意ください。


石碑です。
たぶん、知らない人は、この石碑と、近くにある復元された堀を見て初めて城だと気が付いて、驚くのではないかなぁと思います。


石碑近くにある案内板です。これを見て、自分が歩いてきたのが、第一郭跡であることを確認しました。
説明文にもあるように、ここが深大寺城の本丸に当たる部分です。
ただし建物跡はあまり発見できなかったことから、大きな建物はなかったと推測されています。


案内板の上が櫓跡のようです。
今は木が多い茂り、見渡しが良くないのでわかりづらいですが、この櫓は、第一郭の外側にある第二曲輪の側面を瞰制(かんせい。周囲を完全に見渡せる高所)できる位置にあります。つまり、曲輪を突破して、第一郭に迫ってきた敵兵を、横から矢を射かけることができる構造になっています。


復元された堀・土塁跡です。
第一郭を囲むようにありましたが、復元されているのはその一部です。

堀の中から土塁を見上げて撮った写真です。わかりづらいですね(汗)。
深さは2mちょいある感じでしょうか。
ちなみに堀と土塁は、当時の完全な形では復元されていません。
​というのも、深大寺城の堀は、薬研堀(やげんぼり)と言われる形状であったと考えられているためです。​
薬研堀は、鋭角、漏斗状に掘られる形式の堀なので、もしその形式で復元された場合、たぶん堀に落ち込んで怪我をする方が続出するでしょうね。
城の防御としてこの堀を見た場合、攻撃側は土塁を超えようとして足を滑らせて、堀に落ち込んで身動きが取れなくなります。
上がろうにも狭くて、土がボロボロ崩れるため、いわば蟻地獄にはまった状態となります。
そこに防御側が矢を射かけたり、石を投げ込んだりされたら、まず脱出できません。
そういう構造になっているのです。

角度が悪いですが、土塁の上から撮った写真です。
土塁は掘って出た土で作られていたと考えられます。それによって、残土の利用と、労力削減も出来ます。
(後半に続きます)





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Last updated  2020.03.08 10:08:50
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