4月29日~30日、春季埼玉県大会の3回戦が行われた。結果、浦和学院、春日部共栄、埼玉栄、春日部東、川口、成徳大深谷、南稜、所沢商が準々決勝進出を決めた。尚、上位4校が5月19日から開催される関東大会(於:県営大宮球場ほか)に出場する。
観戦した3試合の内、2試合の観戦記を以下に紹介。
■浦和学院 9-1 所沢北 (4月29日、県営大宮球場)
浦和学 001 000 0 =1
所沢北 204 111 X =9
(浦)佐藤-野村-小島、(所)小田-加藤-小林
浦和学院が、序盤から所沢北を圧倒した。
まず初回、1番・竹村春樹が安打で出塁すると、2番・林崎龍也への1球目に二盗。林崎の送りバントが三塁手の失策を誘い、3番・佐藤拓也への1球目に林崎がニ盗。無死二・三塁の好機に、佐藤が中前に適時打を放ち、あっという間に2点を先制した。
初回にあらゆる策を弄して先取点を挙げるのが、浦和学院の定石だ。この2点で試合の主導権を奪うと、3回も3つの盗塁を試みて相手をかく乱し、山根佑太、石橋司の適時打で追加点を挙げて、勝利を手中にした。
安打12、四死球5、得点9、盗塁10(内1つは失敗)、そして残塁9。残塁数だけ見ると相当に雑な印象を受けるが、それは機動力野球を駆使した後の「残骸」に過ぎない。そもそも埼玉県内における浦和学院の野球は「スペック自体が違う」のだ。これがボクの実感。
尚、浦和学院の先発は、センバツ大会で活躍した佐藤拓也。今大会は背番号「8」で出場している。3回、満塁のピンチに、押し出しの四球を献上するなどまったくの不調。4回終了時に早々とマウンドを降りた。次回、リベンジか?
(佐藤拓也の成績)
4回、被安打7、与四死球2、奪三振4、失点1。
■春日部共栄 4-0 狭山ヶ丘 (4月30日、県営大宮球場)
春日部 300 100 000 =4
狭山丘 000 000 000 =0
(春)西澤-青木、(狭)紺野-武藤
勝利した春日部共栄よりも、敗れた狭山ヶ丘の紺野大地(左腕)、武藤翔(右腕)の2投手にボクは興味をもった。特に紺野はノーワインドアップから投げるゆったりとしたフォームは風格が漂い、球質も重そう。立ち上がりに四球を連発したのが残念。
これまで狭山ヶ丘に強豪という印象はなかったが、今大会に限って言えば、県大会3回戦レベルで姿を消すのがもったいないチームに思えた。
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■今日(4月28日)行われた東京六大学リーグ、早稲田大vs立教大1回戦。
早稲田 050 103 020 =11
立教大 000 200 000 = 2
(早)○高梨-横山-有原、(立)●小室-川端翔-齋藤-小林昌
早稲田・高梨雄平(2年、川越東高)と小室正人(4年、日野高)の「左腕対決」は早稲田・高梨が制した。
いや、小室が自滅した、という方が的確かもしれない。
■ポイントは2回表、早稲田の攻撃だった。
この回先頭の5番・地引雄貴(4年、木更津総合高)、そして6番・茂木栄五郎(1年、桐蔭学園高)の連続安打で無死一・二塁のチャンスをつかみ、7番・小野田俊介(2年、早稲田実)が三塁線に送りバントを試みる。
慌てる必要のない打球だったが、これを小室がファンブル。早稲田は無死満塁にチャンスを広げる。
そして高校時代は投手ながら4番を打っていた高梨。フルカウントから小室の6球目を叩くと、打球は前進守備だったレフトの頭上をはるかに超え、走者一掃の適時二塁打になった。
早稲田のチャンスはなおも続く。
送りバントで高梨が三進後、1番・佐々木孝樹(4年、早稲田実)が左打席に入る。1ストライク後、小室が投げた外角へ逃げる変化球を、佐々木が狙いすましたように逆方向に打ち返し、打球はレフトポール付近に飛んで高梨が生還し4点目を挙げた。
さらに二塁を蹴って三塁に向かう佐々木の姿に慌てたのか、我如古盛次二塁手(2年、興南高)が三塁へ悪送球し、打者走者の佐々木は一気に生還(記録は二塁打)。早稲田は労せずして5点目を挙げた。
■この2回を終了した時点で、小室はマウンドを降りた。
打者13、球数45、被安打7、奪三振1、与四死球0、自責点4。
今日の小室は、全体的に球が高めに浮き、まったく調子がよくなかった。立教が勝ち点を積み重ねる作戦を立てる時、その前提にあるのは大黒柱・小室の好投である。この土台が崩れると、優勝はおろか、かつての指定席(5位)に舞い戻る可能性もある。
小室のファンブルを見ていて、2009年10月12日の立教対早稲田3回戦を思い出した。5回表、早稲田の攻撃時、当時エースだった戸村健次(現・楽天)のファンブルがきっかけになって5点を献上し、立教が逆転負けを喫したことがあった。
相手校(早稲田)、そのイニングの失点数(5点)、ファンブルした場所(三塁線寄り)、すべて今日の小室と同じだった。
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■つい先ほど、NHK‐BS『J-POP青春の’80』を見ていた。
ゲストは太田裕美、山本潤子、渡辺真知子。
太田は「雨だれ」「木綿のハンカチーフ」、山本は「冷たい雨」「中央フリーウエイ」「卒業写真」、そして渡辺は「カモメが翔んだ日」「唇よ、熱く君を語れ」を歌った。
当時はJ-POPなんて言葉はなくて、ニューミュージックと呼ばれていた。特にボクが好きだったのは、渡辺の「唇よ、熱く君を語れ」。この曲はカネボウのCMに使われていた。番組では、この曲の発売は1980年だったと紹介していた。
■先日図書館から借りた『激動の昭和スポーツ史 大学野球編』(ベースボール・マガジン社)がたまたま手元にある。
興味があって「1980年」の頁をめくってみた。以下に引用。
東京六大学野球春のリーグ戦は、明大が奮起して2シーズン連続20回目の優勝を成し遂げた。立大の野口裕美投手は96奪三振を記録、戦後の最多奪三振(29年春の明大・秋山登投手の86)の記録を抜いた。
秋のリーグ戦は、法大が6シーズンぶり23回目の優勝を勝ち取った。首位打者になった中葉伸二郎遊撃手のほか、ベストテン2位の大麻裕一二塁手、西田真二左翼手、4本塁打の武藤一邦右翼手ら打撃陣の力強さが目立った。
また、この年は第26回アマチュア野球選手権大会が開催された。学生からは東海大の原辰徳三塁手がただひとり参加した。
■ボクは、原さんが出場したアマチュア野球選手権・日本対キューバの試合を、後楽園球場で見ていた。試合結果は覚えていないけれど、鳴り物の応援はまったくなく、投手の球を受け止める捕手のミットの音、バットが球をとらえる乾いた音、一球ごとにもれる観客の歓声、そして溜息。
ライトスタンドで見ていたけれど、それらの音、音、音に感動したことを鮮明に覚えている。応援のない野球の素晴らしさを、このとき初めて体験した。ノイズのない野球はなんと素晴らしいことか・・・と。
■そして前述した秋山登さんについても思い出がある。その当時、ボクは某メディアで編集アシスタントのアルバイトをしていた。そのメディアの契約評論家が秋山さんだった。
白のポロシャツに白のジャケット、鮮やかな青のスラックスに白の革靴といったいでたちで、編集部にいつも現れるのが秋山さんだった(たしかジャケットが青の時は、スラックスが白)。
いまから思うと、どえらい? ファッションだったけど、当時は「さすがに元プロ野球選手!」とボクは憧れのまなざしで、秋山さんを見つめていたものだった。
■以上、ボクが経験した1980年の大切な思い出。
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あはは・・・(笑)、今日のブログは、このタイトルを書きたかっただけです。
3月いっぱいで定年退職した開星高の元監督・野々村直通氏が4月28日、初の自叙伝『やくざ監督と呼ばれて』(白夜書房、1260円)を発売するそうです。私は学生時代から白夜書房の出版物は大好きですが、たぶん、これは読まないと思います。
■以下、日刊ゲンダイより。
「菅野(東海大)でも藤岡(東洋大-ロッテ)でもプロに行くような投手は完封、完封だろう。それと東浜(亜大)も......。福谷をマスコミの皆さんが取り上げてくれるのはありがたいけど、選手がカン違いする。きょうも逃げているピッチングでは......」
17日、法大戦の八、九回に登板した慶大エースの福谷を江藤監督はこう評した。2年時から慶大投手陣の屋台骨を支え、神宮で斎藤(早大-日本ハム)や野村(明大-広島)と投げ合ってきた。しかし、今季は内転筋を痛めたこともあり、先発を外れ短いイニングしか投げていない。昨秋のリーグ戦も1勝(2敗)。MAX155キロのストレートも150キロ台は出ず、かわす投球が目立つ。それだけにプロ野球出身でその厳しさを身にしみて知る江藤監督の目には「これでは......」と映っているのであろう。
■2枚看板の一人・福谷浩司の「逃げているピッチング」に対し、江藤省三監督は相当ご立腹のようだ。
プロ球界にいた頃に知ったプロの厳しさを、江藤さんは自著『KEIO革命』(ベースボール・マガジン社新書)に綴っていた。それは巨人入団3年目、1968年キャンプでの川上哲治監督(当時)の訓示にあった。江藤さんは「これだ!」と興奮し、思わずノートに書き留めたのだと言う。
「今日一日を巨人軍の選手として、日本プロ野球の盛衰を一身ににない、トレーニングできることに感謝し、喜び勇んでトレーニングにベストを尽くすこと。グラウンドには私(選手)の欲しいすべてがある。技術もお金も名声も未来も、これを取るも取らぬも、私自身の実行力だけが決める」
この川上監督の訓示について、江藤さんが解説を加えている。
日頃から川上監督の言葉には「超越せよ」とか「超えろ」という表現が頻繁に出てきた。つまり現状に満足するなということだった。だから上記の訓示に「超越」の文字は出てこないが、この訓話全体が「超えよ」と言っているように聞こえた。
■冒頭のコメント「逃げているピッチングでは...」「これでは...」の後に、
「現状に満足してはいけない。(プロを目指すなら)超えよ! 超えよ! 超えよ! 」
江藤さんは、そう言いたかったに違いない。
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今日(4月22日)の東京六大学リーグ結果は早稲田大と法政大が連勝し、どちらも勝ち点を挙げた。
■まず早稲田大。
(4月22日、2回戦)
東京大 000 000 000 =0
早稲田 000 013 31X =8
(東)●初馬-香取-中田、(早)○吉永-横山-内田
早稲田の先発は、昨夏の甲子園V投手だった吉永健太朗(1年、日大三高)。6回を投げ東大打線を被安打1、奪三振7、与四死球0、自責点0に抑え初勝利を飾った。
以下、日刊スポーツより。
昨夏の甲子園優勝投手、早大・吉永健太朗がリーグ戦初勝利を挙げた。東大2回戦に初登板初先発。6回を1安打無失点に抑えた。5回までパーフェクトの快投。最速は140キロ止まりも決め球のシンカーがさえ、7三振を奪った。
昨年まで日大三高で一緒だったチームメイトたち--明治大・高山俊、慶應義塾大・横尾俊建--も、すでに神宮で活躍している。「日大三高カルテット」の一人、吉永も神宮デビューを果たした。
■次に法政大。
(4月22日、2回戦)
立教大 000 001 000 =1
法政大 000 100 02X =3
(立)●岡部賢-大澤、(法)○石田
法政・石田健大(2年、広島工高)が対慶應3回戦(4月17日)に続き完投勝利し、今季2勝目を挙げた。そして殊勲打を放ったのは、今季初めて2番打者に昇格した高木悠貴(4年、高知高)。
以下、日刊スポーツより。
法大が立大に連勝し、勝ち点2として単独トップに立った。1-1で迎えた8回、2死一、二塁から2番の高木悠貴二塁手が左中間に二塁打して2点を奪い、そのまま逃げ切った。高木悠は「外寄り高めに来たまっすぐだった。うれしいです」と初球をとらえた一打を振り返った。チームはこれで初戦引き分けのあと、4連勝だ。「優勝したいんで、自分としては勝ちに貢献して、ベストナインがとれたら」と目標を掲げていた。
2009年春以来、3年ぶりの優勝を目指す法政は、慶應、立教に連勝して好スタートを切った。「日大三高カルテット」の一人、法政・畔上翔(1年、日大三高)も今日の試合で公式戦初出場した(8番・センター)。結果は2打数0安打、1四死球だったが、今後の活躍を期待したい。
今日畔上が出場した理由は、ベンチに控えた岩澤寿和(4年、安房高)の交代要員だったと思う。岩澤は昨日、レフトフェンスに激突して飛球を好捕していただけに、それが原因でケガでもしたのか? その点が心配だ。
■法政が好調な最も大きな理由は、エース・三嶋一輝(4年、福岡工高)の踏ん張りにある。身長176cmと小柄ながら、1年生の時には絶対の守護神として、東京六大学リーグ最速の155kmをマークした。
先発にまわってからは、スピードを抑えた省エネ投法に転換(と言っても球のキレは凄いが)。今季2試合は速球を140km台半ばに抑え、変化球を交えて相手打線を封じている。この三嶋の好調がシーズン最後まで続くなら、チームの優勝は自ずと見えてくるに違いない。
<三嶋一輝の今季成績> 東京六大学野球連盟HPより
| 対戦カード | 回 | 球数 | 打者 | 安 | 振 | 球 | 責 | 防御率 |
| 対慶応大1回戦 | 10 | 150 | 42 | 7 | 12 | 5 | 1 | 0.90 |
| 対立教大1回戦 | 9 | 108 | 31 | 4 | 8 | 1 | 1 | 1.00 |
| 計 | 19 | 258 | 73 | 11 | 20 | 6 | 2 | 0.95 |
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■今日(4月21日)行われた立教大対法政大1回戦。
法政 001 100 000 =2
立教 000 001 000 =1
(法)○三嶋、(立)●小室-斎藤-大澤
法政大は初回、2回と走者を出しながらも得点できなかったが、3回、ついに先制する。先頭の9番・三嶋一輝(4年、福岡工高)が右中間にフェンス直撃の二塁打で出塁すると、送りバントで三進後、2番・建部賢登(4年、桐光学園高)がセンター頭上を越える適時三塁打を放ち、三嶋が生還した。
続く4回も、7番・土井翔平(4年、智弁学園高)がコンパクトなスイングでバットを振り切り、痛烈な打球がレフトスタンドに跳ねた。マウンド上で膝を落とす立教大のエース・小室正人(4年、日野高)。
ボクが今季、土井の本塁打を見るのはこれで3度目。社会人対抗戦(4月8日)、対慶應義塾大2回戦(4月16日)、そして今日。いずれも打球はレフトスタンドのほぼ同じ場所に飛び込んだ。打撃絶好調の土井、試合終了後のインタビューでは、金光興ニ監督に怒られることを意識してか「明日はセンター狙いの堅実な打撃をします。大振りをしません」と言って頭を掻いた。
■6回表終了時点で法政の残塁は8、好機を作りながらなかなか追加点を奪えない法政。
一方の立教は、5回まで法政エース・三嶋にパーフェクトに抑えられていたが、6回一死後、やっと安打が生れる。8番・我如古盛次(2年、興南高)の打球は力のない飛球だったが、懸命に前進してダイビングキャッチしたセンターのグラブからこぼれ落ちた(記録は二塁打)。一死後、1番・平原庸多(3年、帝京高)がライト左に適時打を放ち1点を返した。
立教は、続く7回、8回も急に制球が不安定になった三嶋を攻め立て好機を作ったが、あと一本が出ず、結局、三嶋に今季初白星を献上した。
■敗れたものの、ボクが優勝候補No.1に挙げる立教の陣容は整いつつある。完全試合を逃れる初安打を放った我如古や、チーム初打点を挙げた平原など、若い戦力が芽を出してきた。
まず我如古盛次のこと。
2010年、甲子園の春夏連覇を果たした興南高の主将。さらに年間25安打を放ち甲子園新記録を作るなど、シュアな打撃が高評価に。ちなみに春の決勝は日大三高と戦い、スコア10-5で勝利した(延長12回)。この時、興南高のエースは島袋洋奨(現・中央大2年)、日大三高のエースは山崎福也(現・明治大2年)。
そして平原庸多のこと。
2009年夏、エース兼内野手として帝京高を甲子園ベスト8に牽引した。
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■テレ東系『カンブリア宮殿』を見た。今日の出演者は高齢社・上田研二会長(74歳)。
タイトルは「定年後もイキイキ人生!」。
補足説明は抜きにして、上田さんの言葉を一気に羅列します。
・定年後の人たちに働く場と生きがいを提供する
・日本の高齢者の就業率を、100%いかなくても70%とかは行きたい
・休日出勤はまかせなさい
・高齢者は即戦力
・アナログでいい味出します
・「言葉で人を導く人、尊し。働く姿で人を導く人、さらに尊し。後ろ姿で人を導く人、もっとも尊し」。高齢になって初めてわかる言葉。いろいろ頼りにされる人間であると非常に嬉しい
・いたずらっぽいこと大好きですね
・技能継承の問題。弱くなるので、高齢者活用の時期が来るだろうなと
・定年後も半年過ぎると、奥さんにだんだん邪魔にされることになる。犬も嫌がる5回の散歩
・金儲けで始めた会社じゃない
・「高齢者が若者の職場を奪う」という話があるが、間違いと思う。10年後、労働力人口が500万人減る。労働力を補うには「女・老・外・ロボット」が必要
・一番奥さんに感謝されている。家から粗大ゴミがいなくなったから。亭主元気で留守がいい
・私は社員を第一に考える。社員はお客さんを第一に考える
・お金中心じゃなくて、人を大切にする社会づくりをやっていく。会社においては社員を大事にしたい。高齢者自身が変わることで、社会を変え、国を変え、世界を変えていきたい
・収入のない生活がどんなに悲惨かよくわかっている。経営者は絶対にリストラをやってはいけない
・大変な時のほうが好き。自分のためになる。命を奪われるほどのことはないから
・一生学習、臨終で卒業したい
・起きたことは諦めることにしている。でも立ち直りは早い
・働く意味は、生きているという喜び。社会に役立つとか、部下が伸びてくれれば、それが嬉しい。私から仕事を取り上げられたら早死にすると思う
・会社の経営は、99%、よきにつけ悪しきにつけ、会社に責任があると思う。だから失敗した時は潔く腹を切るべきだと思う
・売れない理由を相手に押し付けちゃいけない。不景気のせいにしちゃいけない。売れない理由は、必ず社内にあるというのが私の信念。
・欲をかいてはいけない
・「会社に人材がいない」という経営者が多い。自分だけが人材で、社員は人材でないということはあり得ない
・高齢社のビジネスモデルを業種別に全国展開したい
■今日(4月19日付)の朝日新聞は、「戦中戦後、野球の灯をつなげた」相田暢一さんの訃報を伝えていた。
1943年10月16日の出陣学徒壮行戦、いわゆる「最後の早慶戦」で、相田さんは早大のマネージャーとして開催に向けて奔走した。自ら出征するにあたり、「残る後輩には心おきなく野球を続けてほしい」と、バット300本、ボール300ダースをかき集めて野球部の寮に保管しておいた。
■いくつかの書籍に、その頃のことが詳しく書かれている。まず『早慶戦100年 激闘と熱狂の記憶』(富永俊治著、講談社刊)から引用。
保管するきっかけになったのは飛田穂洲のひとことだった。
「今は戦争で野球がやりにくい時代だけど、戦争が終わりさえすれば、すぐに野球の時代がやってくる。その時に肝心の用具がなかったら、野球そのものがやれないよなぁ」
飛田の命を受けたのは当時マネージャーだった相田暢一だった。慌てて用具を買い集めた。そして相田が出征後は、昭和19年度の主将・吉江一行が管理を引き継ぎ、まさに用具を「死守」した。
空襲警報発令のサイレンが鳴るや、まだ合宿所に残る数人の部員たちと手分けをしてバットやボールを敷地内の防空壕に運び込み、警報解除とともに、今度は部員たちの手渡しで用具を倉庫に戻す重労働を繰り返した。晴れた日には湿気を取るための虫干しも行っていた。
■次に『1943年晩秋 最後の早慶戦』(教育評論社刊)から。
当時、早稲田大野球部のマネージャーだった相田暢一もついに1943年12月10日、横須賀第二海兵団に入団した。
その直前、相田はすでに入手困難になっていたボール300ダース、バット300本、ノックバット10数本を準備した。これらの用具は東京大学野球連盟(現・東京六大学野球連盟)の残務整理に伴い、各大学への配分金で購入されたもので、たとえ部員が一人になっても練習を続けるという、飛田穂洲の意を受けた相田の機転によるものだった。
その後、新たに主将になった吉江一行にバットやボールの管理を託された。吉江は福島県立磐城中学の出身で、「最後の早慶戦」には5番ライトで出場した。飛田穂洲は吉江の人となりを、心から愛した。
※吉江主将も終戦直前、とうとう戦場に送り込まれる。そして戦場で病を患い、その病気がもとで、戦後間もなく故郷の福島県で亡くなった。
■再び、朝日新聞の記事から。相田さんの回想。
終戦からわずか3ヶ月後の1945年11月18日、米軍に接収されていた神宮球場で開催されたオール早慶戦。復員した相田さんは、この試合の実現にも尽力する。
「試合が終わっても、4万5千人の観衆がなかなか帰ろうとしない。薄暗い球場に、たばこの火が、まるでホタルのようにともっていたのが忘れられません」
■戦後、職業野球(東西対抗戦)が初めて行われたのが同年11月22日。大学野球は職業野球よりも復活は早かった。
相田さんは、吉江さんとともに、戦後の野球復活を支えた人だった。
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